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愛は歴史を救う~ドジっ子ツンデレ美少女皇帝!・ナポレオン編~

愛は歴史を救う~ドジっ子ツンデレ美少女皇帝!・ナポレオン編~

小説:田中 創 イラスト:TCB

★局員募集★ こうきょくれきかん

守れぼくらの歴史! 時空の命運はキミの手にかかっている!

~概要~

しん』という現象をご存じでしょうか?

 政府主導による時空観測プロジェクトが発足して以来、この言葉を新聞やテレビなどでお聞きになっている方も多いでしょう。

 時震とは、四次元的に発生する事象変異現象です。

 その原因も発生条件も、詳しいことは何もわかっていません。しかし、時震によって歴史上の重要地点、物品、人物が不可解な変異を遂げてしまうということはよく知られています。

 時震は事象を歪め並行歴史パラレルワールドを生んでしまうのです。

 たとえば去年には、幕末に来航するはずのペリーの黒船が、時震のせいで難破してしまった世界が観測されたことがありました。二十一世紀になっても日本が鎖国を続けている並行歴史が発見されたというのは、まだ記憶に新しいところです。

 もちろんこうした並行歴史の出現は、私たちには直接影響はありません。並行歴史の存在によって、私たちが紡いできたこの歴史が変容してしまうわけではないからです。そういう事情から「時震は対岸の火事」と言い切ってしまっているメディアも少なくありません。

 しかし、それは大きな間違いなのです。ひとたび出現してしまった並行歴史は、その事象の不安定性ゆえに、さらなる時震を誘発してしまうのです。

 ペリーの例を挙げますと、鎖国が続いた状態の日本からは、いくつものおかしな並行歴史が分岐していました。ふくざわきちが無敵の剣豪として諸国を漫遊していたり、マッドサイエンティスト化したぐちひでが死者蘇生を成功させていたり――予測不可能な事象変異が山ほど発生していたのです。

 時震は新たな時震を発生させ、並行歴史は次々に増えていく。

 さて、このような並行歴史が増えていくと、いったいどうなってしまうのでしょうか。

 そうです。恐ろしいことが起こります。端的に言えば、宇宙が崩壊してしまうのです。

 近年の研究によれば、ひとつの次元が保有できる情報量には限界があり、並行歴史が増えていけばいくほどその容量は圧迫されていくと言われています。情報の許容限界を超えれば、この次元に存在するあらゆる世界が消滅してしまうのです。

 もちろん私たちの暮らす、この宇宙も含めて。

 ポンプに繋がれ、膨らんでいく風船をイメージしてみてください。それが私たちの暮らす宇宙です。並行歴史という名の空気が増えていけば、風船もどんどん膨らみ続け、やがては破裂してしまうというわけですね。

 つまり時震は、私たちにとって対岸の火事ではないのです。この宇宙を守るため、私たちが可及的速やかに行うべきことは、次の二つに集約されるでしょう。

 

① 時震によって生じた事象変異を、現地に赴き修正し、宇宙崩壊の危機を防ぐ。

② 時震の原理そのものを解明し、抜本的解決を図る。これ以上の並行歴史を発生させない。

 

 そうです。これこそ、航時局歴史管理課――通称THR(Timeport-bureau Historical Retention division)の任務なのです。

 THRの技術者エージェントは、いわば時空を守るヒーローというわけですね。かっこいい!

 航時局が設立されてから十年、THRはいくつもの事象変異を修正してきました。しかし次々と観測され続ける時震に、対応が追いついていないのが現状です。エージェントが足りていないのです。

 航時局は、あなたの情熱を求めています。

 

 あなたも歴史を守るTHRエージェントとして、航時局で活躍してみませんか?

 そう、次代のヒーローはあなた!

 正しい歴史を救うために、レッツ時空移動タイムポート

 才能あふれる歴史上のプロフェッショナルたちが、あなたの力を求めています!

 

~募集要項~

 勤務部署:航時局歴史管理課

 雇用形態:常勤

 勤務開始日:ご相談に応じます

 給与:航時局規定による

 勤務体制:局員寮住みこみによる二十四時間体制。二交代制。

 必要資格:時空技術者(第一種)

 ※なお時空修正任務には、多分に生命の危険を伴う場合があります。

  航時局共済保険への加入を強くお勧めいたします。

文部科学省 航時局 歴史管理課 

http://www.xxx.koujikyoku-thr.go.jp

 

 

 

 キーボードから手を離し、「こんなもんかな」とうなずく。

 我ながらなかなかいい宣伝文だ。これなら僕たちに興味を持ってくれる就職希望者も増えるだろう。

 僕の今日の業務は、寮の自室でこのTHR募集パンフレットを作成することである。

 本来こういうのは広報課の仕事であり、僕たち歴史管理課が直接手を出すことは少ない。しかし、あえて仕事を引き受けたのには理由があるのだ。

めてくれるかな……フレドリカさん」

 このパンフによって入局希望者が増えれば、あのひともきっと喜ぶだろう。

 僕のいとしの課長殿は、毎日毎日、猫の手も借りたいと嘆いているのだ。この募集ポスターが功を奏して歴史管理課の人員が増えれば、きっと彼女の業務も楽になるに違いない。

「うまくいったらごほうがもらえるかも……。一日デートとか」

 そんな風に画面の前でニヤケていると、すぐ右隣から、「それはないわね」とダメ出しの声が聞こえてきた。

「だいたいこんな文章じゃ全然ダメよ。大事な表現が抜けてるもん」

 そうつぶやいたのは、二角帽をかぶったくり色の髪の少女である。

 彼女が身につけている白のミニスカ制服は、偉そうなマント付き。まつげの長い目をすがめ、彼女はPC画面に指を突きつける。

「『歴史上のプロフェッショナル』ってとこに、〝偉大な〟とか〝美しき〟とか入れるべきよ」

「どうして」

「だってこれ、わたしの素晴らしさを世間のみんどもに周知させるための文章でしょ」

 それが当然、とばかりに少女は大きく頷いた。

 ああもう。また面倒なこと言い始めたぞ、この皇帝へい

「いや違うよ? THRのエージェント募集の告知だよ?」

「だったら大した違いはないわよ」少女は鼻を鳴らす。「新人エージェントってことは、つまりわたしの部下になるわけだし。ならなおのこと、皇帝たるわたしをたたえる文章にすべきね!!

 帽子の少女は、にんまりと口元を歪めた。

 この無駄に不敵な笑みの女の子は、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。近代ヨーロッパを震え上がらせた、常勝無敗の怪物皇帝である。

 そんな名の知れた偉人すら小うるさい美少女に変えてしまうのだから、しんとは実に不思議なものだ。

 僕は頭を振りながら、

「ともかくナポ。忙しいんだから邪魔しないでよ」

「邪魔とはなによ。わたしがじきじきに助言してあげてるのよ? ありがたく思いなさいよ」

 そう言いながらナポ子は、僕の右腕をぎゅっと抱きしめる。二の腕に感じるほのかな柔らかさは、彼女の胸の感触だろう。思わず「ううっ」とうめいてしまう。

「ちょ、ちょっと離れてくれない? そんなにくっつかれると、キーボード打ちづらいから」

「やだ」ナポ子がほおを膨らませる。「それを言うならアリスも一緒でしょ」

 彼女がちらりと視線を向けたのは、デスクの左側である。

 見た目小学生くらいのシルバーブロンドの女の子が、僕の左肩にあごを置くようにして身体からだを密着させている。実はこれ、さっきからずっとなのだ。

「私はナポ子さんのように勝手に口を出しているわけじゃありません。これはれっきとした仕事ですよ」

 銀髪幼女――アリスが呟いた。

「私には、このくず隊長の業務を監督する義務があるんです。THRのオペレーターですし、なによりしやを導くのは哲人の役目ですから」

 僕のことをちゆうちよなく屑隊長だとか愚者だとか言っちゃうこの子は、美少女と化した古代ギリシャの哲学者、アリストテレスである。彼女もナポ子同様、時空を超えてやってきたTHRのエージェントなのだ。

 僕は「はあ」とため息をつく。

「別に監督されなくても、このくらいちゃんと書けるんだけどなあ」

「いいから私の指示に従ってください。ほら、募集要項のところに『アニメ好き優遇』の一文を入れて」

「それアリスの個人的趣味じゃ……」

「ああ、そうそう。注意書きもお忘れなく。『声優直筆サインの持参で、もれなく好待遇を保証する』と」

「露骨なわい要求はどうかと思うよ!?

「入れてくれるまで、放しませんよ」アリスが僕の左腕をしめつける。

 おうとつのない小さな身体の感触は、もはや犯罪的ですらあった。ぺたんとしているのに、なぜだか妙にぷにっぷに。ロリ属性を持たないはずの僕ですら、変な気分になってしまう。

「あのさ、ナポ子もアリスもいい加減にしてくんない? こんなことしてたら、いつまでたっても仕事が終わらないんだけど」

 眉をひそめていると、不意に背後から何者かが僕の首に腕を回してきた。

「なあ隊長さん、それならあたしの希望も入れてくれよ」

「ほ、ほうせん!?

 黒髪ツインテールの少女が、背後で「へへん」と微笑ほほえんでいる。

 惜しげもなく僕の背中に押し当てられているのは、ナポ子やアリスなどとは比較にならないくらいのダイナマイトおっぱいだ。むにゅん、という肉感的な弾力には、かんJrジユニア.もビックリぎようてんである。

「ちょ、ちょっとあの、胸当たってるんだけど」

「実はさ、いい考えを思いついたんだよ」

 慌てる僕などまるでお構いなしに、巨乳ツインテ少女――奉先は続ける。

「応募者全員にルール無用のデスマッチをさせようぜ。そんで、勝者を採用することにしよう」

「いやあのね、THRの業務のメインは救助だってわかってる? 別に血なまぐさい要素は必要ないよ?」

「じゃあ無理にエージェントにしなくてもいいよ。デスマッチ優勝者には、このあたし、りよ奉先との一騎打ち挑戦権が授与されるってことで」

「あくまでデスマッチ案は存続させるつもりなんだ!?

 相変わらずこの子――奉先の発言は血の気が多くてしょうがない。

 さすがは古代中国最強の武将というだけはある。実に凶悪な思考回路だった。

 ついでに言えば、おっぱいの柔らかさも凶悪なんだけれども。

「……ははあ、パンフ作りも大変ですねえ」

 ふとデスクの下から、のんびりした女の子の声が聞こえてきた。

 僕のまたぐらから顔をのぞかせるようにしてこちらを見上げているのは、おさげにした赤毛が特徴的な、可愛かわいらしい女の子――アルちゃんだ。

「あ、ボクは別に希望とか、そういうのはないですよ? 応募者がいようがいまいが、たいちょーのおそばにいられればそれだけで幸せですのでー……」

 しかしこの子、いつの間に僕のデスクの下に潜りこんだのか。まったく気がつかなかった。

「いや、そんなことよりアルちゃん、そんなとこでなにしてんの?」

「ええとその、お仕事頑張ってるたいちょーを、陰ながらねぎらおうと思いまして」

 にこにこと柔和な微笑みを浮かべるアルちゃん。なんと彼女はおもむろに、僕のズボンのジッパーに手をかけたではないか。

「労うって……ええっ!? なんで僕のズボン脱がそうとしてるの!?

「えへへ。ボク、手先は器用な方ですし……きっと気持ちいいですよ?」

「そ、その器用さは発明だけに使ってくれればいいから!!

 にっこり頰を緩めている彼女の本名は、トーマス・アルバ・エジソン。

 しさの方向性を思いきり間違っているようなこの女の子も、誰もが知る偉人――アメリカの発明王だったりするのだ。

 僕の右腕にひっついているナポ子が、アルちゃんを見てむっと頰を膨らませる。

「いつからそこにいたのよアル。あんたいつも抜け目ないわね」

「そういうナポ子さんだって、毎日たいちょーにベタベタしすぎだと思いますけど……」

「べ、別にわたしはベタベタなんか……!! こいつはわたしのパートナーだし。一緒にいるのは当然だし」

 にらみ合うナポ子とアルちゃんを横目に、アリスが「やれやれ」と肩をすくめた。

「毎度飽きませんね。ナポ子さんもアルさんも。こんな屑野郎のどこがいいんだか」

「そう言うアリスだって、なにかっつーと普段から隊長さんに絡んでるよな」

 苦笑する奉先に、アリスがこたえる。

「まあ、しよせんこの男は私がいないと何も出来ないダメ男ですからね。仕方なく面倒見てあげてるだけです。ナポ子さんやアルさんみたいなラブ要素は欠片かけらもありませんよ」

「ちょっとアリス!! わたしがこいつのこと好きみたいな言い方やめなさいよ!!

 眉をひそめるナポ子に、アリスが「違うんですか?」と口元を歪める。

「違うわよ!! 全然まったく違う!!

「まあまあ。落ち着けよナポ子」と奉先。「度量が小せえやつは、いつまでたっても大きくなれねえぞ」

「くうっ……!! 小さくて悪かったわねっ……!!

 ナポ子が悔しそうにみする。奉先の胸を睨みつけながら。

 腕をぎゅっと握りしめられ、僕は呻いた。

「あの、ナポ子さん。そんなに締めつけられると痛いんですけど」

 椅子の両サイドからナポ子とアリスに抱きしめられ、背後から奉先に胸を押し当てられ、おまけに両脚の間でアルちゃんがよからぬことをしようとしている。

 美少女たちにこれでもかと密着されているのだ。一般的な男性としてはある意味うれしいシチュエーションなのだろうが、心に決めた女性がいる僕にとっては気が気でない。

 もしもこんなハーレム状態を彼女に見られてしまったら……どう思われてしまうやら。

「ていうかキミたちさ。いろいろ手伝おうとしてくれる気持ちは嬉しいんだけど、ここまで身体をくっつけられると、倫理的にいろいろ問題がね――」


 

 僕が口を開いたその瞬間。部屋のドアが、がちゃりと音を立てて開いてしまった。

「ミツキくん、パンフ作成の調子はどう?」

 ドアから顔を覗かせたのは、ダークスーツ姿のうるわしい知的な美人だった。

 ああ、なんてが悪い。彼女こそ僕の上司であり、長年の姉代わりでもある女性――こうきよく歴史管理課における最高責任者、たかみねフレドリカさんだ。

 彼女は僕たちの姿を見て「あ」と硬直する。

「ナポ子ちゃんにアリスちゃん、奉先ちゃんにアルちゃんまで……何してるの?」

「何って、その」

「そんなにみんなでくっついて、おしくらまんじゅう……じゃないよね?」

 フレドリカさんが、不審げに首をかしげた。

 仕事をしていたら、同僚たちがいつの間にか部屋に不法侵入していた――。そう説明して、果たして信じてもらえるものだろうか。

「もしかしてミツキくん、女の子たちを部屋に連れこんで、イケナイことしようとしてたとか」

 美しく整った彼女の眉は困惑に歪み、頰は真っ赤に色づいてしまっていた。

 ああ……これはもうフレドリカさん、完全に誤解していらっしゃる。

「ち、違いますよフレドリカさん!? 僕はちゃんと仕事してましたよ!?

 必死で言いすがる僕だったが、フレドリカさんの表情は硬い。ただれきった弟の性生活を覗き見てしまい、言葉に詰まる姉――そんなおもちである。

「まあ股間を大きくしながら『ちゃんと仕事してました』なんて言っても、まるで説得力ありませんけど」

 アリスがぼそりと呟いた。

 この哲学娘、僕をようするつもりはまるでないようだ。むしろ僕が困っているのを見て楽しんでいやがる。ちくしょうめ。

 フレドリカさんは宙に視線を彷徨さまよわせながら、

「お姉ちゃん、あんまり厳しく言うつもりはないんだけど……とにかくその、えっちなことするなら、せめて部屋の鍵くらいはかけてね?」

「し、しませんよそんなこと!?

「いいのいいの。ミツキくんたちもお年頃だもんね。そういうことに興味あるもんね」

 そう言いながら、フレドリカさんはバタンとドアを閉めてしまう。

「待ってくださいフレドリカさん!! これは違うんです!! 誤解なんです!!

「その、お姉ちゃん気が利かなくてゴメンね、邪魔しないうちに帰るね」

 ドア越しにそれだけ言って、フレドリカさんは離れていってしまったようだ。

「ああ!! フレドリカさん!! カムバアアアアック!!

 しかしそう叫んでも、足音が戻ってくることはなかった。なんて無慈悲な。

 背後の奉先が「ははは」と軽快に笑う。「まーたフラれたな、隊長さん」

「その、元気出してくださいね? ボクはいつでもおそばにいますから」

 アルちゃんまで僕を見上げながら、そんなことを言っていた。

「いや、キミらね……」思わずため息が出てしまう。

 そう。僕――ミツキはフレドリカさんに恋い焦がれている。もう十年近く前から、ずっと。

 この想いをげるため、僕は彼女を追って航時局に入局し、THRで時空修正任務に従事しているのだ。

 全てはフレドリカさんに、僕の男らしさを認めてもらうため。そして彼女と添い遂げるため。そのためなら、危険な時空修正任務に挑むのだって怖くない。

 そう覚悟しているはずなのに、どうしてこういつもうまくいかないのだ……!!

「ま、そもそもミツキなんかにフレドリカは似合わないと思うけどね」

 ナポ子がなぜか、にんまりと目を細めた。

「おまえのパートナーはわたし。そう決まってるの。おまえはわたしと一緒に全時空のしやになるのよ。それでいいじゃない」

 毎度のごとく、無駄に偉そうなナポ子だった。

 思えば彼女がTHRに来てからというもの、フレドリカさんとの距離がますます開いていってしまっているような気がする。ちょっとしたやくびようがみかもしれない。

 近代ヨーロッパの怪物皇帝、ナポレオン・ボナパルト。

 彼女と出会ったのは、僕の主観的には一か月ほど前――。

 歴史的には、二百年ほど昔の話だ。



 

 見渡す限りの白銀の世界に、大部隊が進軍する。

 その数四万。欧州最強の砲兵部隊をようする、フランス共和国の精鋭たちだ。

 先頭に立つのは立派な駿しゆんと、その上にまたがるひとりの少女だった。

「わ、わたしの辞書に、不可能という文字はないのよ!!

 寒さにえられないのだろう。少女はお気に入りの言葉を叫びつつ「ぐずっ」と鼻をすする。

 彼女は、この部隊を率いる司令官だった。

 金のしゆうが入った赤いマント。ぎようぎようしい二角帽。濃紺の上着の下に、太ももまぶしい白のミニスカートを合わせた珍妙な軍服姿だ。ふりしきる豪雪の中、彼女はぶるぶると白い肌を震わせている。

 どこからどう見ても、としのいかない普通の女の子であった。

 しかし、それでも彼女は、数万の兵を束ねる総司令官なのである。

 時空の見えざる手が、歴史をそう変質させてしまったのだ。

「と、とてつもなく寒いけど、それは敵も同じよ。わたしたちがアルプス山脈を越えてくるなんて、夢にも思わないでしょうね。ふもとのんに雪解けを待ってるはずだわ」

 少女は震えながら先を続けた。

「だからチャンスなの。相手がのんびり構えてるところに突撃をかければ、いつに勝てちゃうはず!!

「そううまく行くものですかな」

 部下のひとりが進言する。少女よりも二回りは年上の、ひげづらの将軍だ。

「それより先に、わが軍の兵が寒さで凍え死ぬかもしれませぬぞ」

「なによ。おじづいてるの? ちょっと寒いくらい我慢しなさいよ」

「ちょっと寒い、どころの話ではありませんぞ。司令官」

 将軍以下、部下たちは一斉に顔をしかめた。

 すでに季節は五月も半ばだというのに、冗談かというほどの豪雪である。イタリア方面への街道は雪深く、一メートル先すら見通せないほどの吹雪ふぶきが吹きすさんでいた。

 銃剣を握る兵士たちも、小刻みに震えながら身を寄せ合っていた。こんな状況で進軍するなんて正気のじゃねえ――。誰も彼もが、顔にそう書いてあった。

「ああもう。なんて情けないのよ」少女が口を尖らせる。「おまえたちわたしの部下でしょ。ほこり高きフランス共和国軍兵士でしょ」

「そう言われましても……誇りで暖は取れませぬ」

 部下の言葉を、少女は「はん」と鼻で笑う。

「頼りにならない部下なんか、やっぱり連れてくるんじゃなかった」

「なんですと?」部下たちは、そろって目を丸くする。

「もういいわ。おまえたちはさっさとパリに帰りなさい。オーストリア軍は、わたしひとりでらしてくるから」

「ひ、ひとりで!? 何をおっしゃるのです!! 敵は五万の軍勢ですぞ!?

「いつも言ってるでしょ!! わたしの辞書に不可能という文字はないって!!

 少女がづなを握りしめると、彼女の愛馬はヒヒンといなないた。力強く前足を振り上げ、勢いよく雪道を駆け出したのである。

「突撃ーっ!!

「司令官!? イタリアはそちらではありませぬ!! それは山奥へのルートですぞ!!

 しかし、将軍の声は、少女の耳には届かなかった。

 少女の馬はすでに部下たちの視界の外。この豪雪の中では、ひづめの音すら聞こえない。

 部下たちは揃って顔を見合わせる。

「うちの司令官って、あんな勢い任せの人間だったっけ」

「さあな……。それを言うなら、そもそも女の子だったかどうかも怪しいぞ」

 

 1800/5/15 イタリア グラン・サン・ベルナールとうげ

 

 じんじんするほおをさすりながら、僕――ミツキは、ゆっくりと目を開く。

 あれ? ここはどこ?

 もうろうとする意識の中で、僕は顔面に尋常ではない痛みを感じていた。誰かにしこたま殴られでもしなければ、さすがにこうはならないだろう。

「ようやく起きたか、隊長さん」

 気づくと目の前には、黒髪ツインテールの同僚がいた。彼女はなにやらあきれたような表情で、僕の胸倉をつかみあげている。

「ほ、ほうせん?」

 彼女が身につけているのは、特注のデザインのこうきよく女子制服だ。大きく開かれた胸元とスカートの深いスリットは、いつ見てもエロい。

 彼女がこれを着ているということは……どうやら今は任務中らしい。

「隊長さんがなかなか起きねえから、つい思いきりぶん殴っちまった。勘弁な」

「え? ぼ、僕、寝てたの?」

 そこでようやく僕は、自分が野外にいることに気がついた。

 野外というか……大自然の中だ。見渡す限り真っ白。きゆうりようを彩る銀世界。抱いた感想といえば、「超寒い!!」の一言である。

 なにせ、吐いた息が凍りつきそうなほどの、とうの吹雪の中なのだ。今が昼か夜かもわからないぐらいに激しく吹雪いている。

 あつに取られる僕を見て、奉先が付け加えた。

「あたしらふたりは今、十八世紀末のアルプス山脈で要救助者捜索任務中だ。〝ナポなんとか〟っていう皇帝様のな」

「そうだっけ?」なんだか記憶が定かじゃない。

「でもまあ見ての通り、こっちが要救助者になりそうなくらいの大吹雪の中で立ち往生してるわけだが」

「というか僕、そんな状況でグッスリ寝てたわけ?」

「着地ミスだ」奉先が肩をすくめる。「時空移動タイムポートアプリの座標設定がおかしかったのかもな。隊長さん、十メートルくらい上から落っこちて頭打ったんだよ」

 僕はだんだんと、自分の置かれた状況を思い出してきた。

 そうだった。今は任務中。ここは西暦一八〇〇年のアルプス山脈だ。

 ついさっきフレドリカさんからの命令を受け、この雪山に「飛んで」きたというわけである。「ナポレオン・ボナパルトの遭難救助」――それが今回のミッション内容だった。

 何気なく後頭部をさすると、大きなたんこぶが出来ているのがわかる。

 原因はおそらくあの子だろう。どうせいつもみたいに、僕のときだけいい加減なオペレートをしたに決まっている。そのせいで僕はズレた座標に転送され、落っこちて頭を打ったのだ。地面が雪に覆われていなければ、たんこぶ程度では済まなかったかもしれない。

「怪我すんのは、普段からの鍛え方が足りねえからだぜ」

 奉先が白い歯を見せて笑う。

「あたしなら、せいそうけんくらいから落下しても無傷で済むだろうけどな」

「世の中みんな、自分みたいな超人だと思わないでくれる?」

 顔をしかめる僕を見て、奉先は頰を緩めた。

「ま、隊長さんの意識が戻ってよかったよ。この雪の中で気絶したまんまじゃ、間違いなくあの世きだったからな」

 ともあれ奉先は命の恩人というわけだ。

「さんきゅ」と軽く頭を下げつつ、僕は腕時計型端末の液晶画面をタッチする。

 これはウェアラブル多機能次元端末――タキオンウォッチ。様々な便利アプリの詰まった、THR業務の必需品だ。

 コンソールから、周辺状況確認アプリを呼び出す。

「ええと……ここはベルナール峠の五合目付近。氷点下マイナス二〇℃だって」

身体からだが冷えるわけだぜ。あたし寒いのは苦手なんだよな……」

 奉先が、歯をガチガチとみ合わせて身震いする。

「三国志最強の武将でも、寒さは苦手みたいだね」

「武将も何もねえって。こればっかりは鍛えてどうにかなるもんでもねえしな」

 そう言う彼女の名はりよ奉先。

 中国かん末期の英雄にして、人類史上屈指の武将と称される人物である。

 げきや弓の達人として、「三国志」のライバルたちに恐れられた武闘派偉人――そんな人物が、なぜ僕を「隊長さん」と呼んでいるのか。どうして巨乳ツインテの美少女なのか。どういうわけで十八世紀末の雪山で震えているのか。

 それもこれも、全ては〝しん〟のせいだと言っていい。

「てかさ奉先。そんな露出度高い服着てるから余計に寒いんじゃないの」

「しょうがねえだろ。いきなりこんな吹雪の中に放りこまれるとは思ってなかったんだよ」

 確かに奉先の言う通りではある。猛吹雪とは聞いていたが、さすがにここまでとは思わなかった。僕だって、現場の天候がこんな状況だと知っていれば、防寒具のひとつくらいは準備してきていただろう。

「いくらアルプスつっても、五月でこの吹雪は異常だよなあ。これも時震の影響なのか?」

「と、とにかくこのままじゃマズイよね。本部に連絡を取ろう」

 タキオンウォッチをタップし、通信アプリを作動させる。

 数秒間の呼び出し音のあとに、「接続完了」のメッセージ。ウォッチの液晶部分から半透明な立体映像が投影される。

『……はいはい、なんですか』

 現れた映像は眠そうな顔の女の子――アリスだ。

 航時局制服の上にアカデミックなケープを合わせたこの子は、僕たちTHRのオペレーターである。見た目だけならローティーン。こまっしゃくれた幼女だ。

 僕の左手首あたりに映るアリスに向けて、奉先が口を開く。

「おいアリス。寒すぎる。なんとかしてくれよ」

『なんとかって……そっちの吹雪を止めろとでも? 一介の哲学者には無理な相談ですよ。私は全知であっても、全能じゃないんですから』

 さりげなく自分を「全知」とか言っちゃう彼女の正体は、言わずと知れた古代ギリシャの哲学者、アリストテレスである。時震は西洋最大の哲学者すら、こんな生意気幼女に変えてしまったのだ。

 まあ本人はそんなこと特に気にしていないようなので、別にいいのだが。

「いや別に吹雪を止めろとは言わないけどさ……せめて準備のために一旦戻らせてくれない?」

 しかしアリスは、そんな僕の嘆願を『無理です』と即座に切り捨ててしまう。

『現場のヘタレ隊長はご存じないでしょうがね。時空移動タイムポートアプリの使用は、上の認可を取るのが非常に面倒なのです。課長だけじゃなく、局長のハンコも要りますから』

「……お役所仕事だなあ」

『そりゃ公務員ですからね。私たち』

 アリスの言う通り、僕たち――航時局歴史管理課(通称THR)は政府に管理される公的機関である。消防庁のレスキュー隊とか、海上保安庁の特殊救難隊とか、そのあたりと同じカテゴリの組織に属しているというわけだ。

 災害現場に赴いてひとびとを救助するのが通常のレスキュー隊なら、変質してしまった過去の並行歴史パラレルワールドに赴いて偉人たちを救助するのが、僕たちTHRなのである。

 もちろん、単純な人命救助以外にも、失せ物探しや偉人の仕事の手伝いなど、歴史修正任務の種類はそのほか多岐にわたるけれども。

 かたわらの奉先が、「確認なんだが」と口を開く。

「今回は〝ナポなんとか〟ってすげえ有名な皇帝様を助けるんだよな。この雪山で遭難したっていう」

 奉先の問いにアリスが『はい』とこたえる。

「そいつ、どんなやつなんだ」

『フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。簡単に言えば、向かうところ敵なしという戦争の天才でしょうか。〝ヨーロッパの怪物〟と恐れられた偉人です』

「怪物!! そりゃ強そうな皇帝様だな!!

『実際に皇帝になるのは、おふたりのいる時間軸から数年後ですけどね。今はイタリア遠征の総司令官のはずです』

「へえ」と鼻を鳴らす奉先に、アリスが続ける。

『本来の時間軸であれば、ナポレオンはこの雪山を無事に乗り越え、イタリア方面に攻め入っている頃合いでした。しかし時震の影響のせいか、かの司令官は遭難してしまったのです』

「確かにこの雪じゃ、どんな猛将だろうがひとたまりもねえだろうけどなあ」

 そういう奉先も身体を震わせている。

「んで結局、どんだけすげえんだ? そのナポなんとかは。あたしよりつええのか」

『どうでしょうね。ただ、個人の武力というよりは、統率力に優れた人物だったようですよ』

「ほう、統率力」

『アルプス越えにちゆうちよする部下たちを、〝フランス人の辞書に不可能という文字はない〟という言葉でふるい立たせたエピソードとか……あまりにも有名ですね』

「アルプスって、もしかしてこの雪山?」僕も口を挟んでみる。

『そうですよ。御戸さんたちは、まさに歴史が生まれた場所にいます』

「ふうん。そう聞くとなんだか感慨深いね」

『というか、隊長のくせにそんなことも知らなかったんですか。もうまいはなはだしい』

「はいはい、ダメ隊長で申し訳ありませんね」

 全知を自称するだけあって、さすがアリスは僕なんかよりずっと物知りだった。これで僕に対する当たりの厳しささえなければ、優秀なオペレーターなんだけどなあ……。

「でも実際、よっぽど気合い入れなきゃこの雪山はツライよ。ビビる兵隊さんたちの気持ちもわかる」

 身を刺すような寒さ、とはよく言ったものである。

 氷点下二〇℃の世界は、寒いというよりむしろ痛い。吹きつける吹雪に生命力を徐々に削り取られていくような感覚というか……。一時間も歩けばぶっ倒れるのは目に見えていた。

 こんな状況で救助活動をするなんて、無謀というしかないだろう。

 この時代の兵隊さんたちがどんだけ超人揃いなのかは知ったこっちゃない。ぬくぬくの環境で育った現代人の辞書には、不可能の文字だってちゃんと存在するのだ。

「せめて毛布のひとつも欲しい……」

『ほんとヘタレな隊長ですねあなたは』アリスがため息をつく。『泣き言を言う前に、さっさと要救助者を助けに行ったらどうです』

「気楽に言うなあ」

『タキオンメーターによれば、現在の歴史変異率は三十五パーセント。呑気に構えていい数値じゃありませんよ』

 タキオンメーターとは、時空観測技術が生み出したTHR必携アプリだ。発生中の並行歴史パラレルワールドの総情報量を算出し、この宇宙がどこまでそれを許容出来るかをわかりやすく数値化してくれるのである。

 歴史がおかしくなればなるほど、つまり正史から分岐する並行歴史パラレルワールドが増えれば増えるほど、このメーターの数値が増加する――。簡単に言えばそういうことだ。

『歴史変異率が百パーセントに至ったらどうなるか、いちいち私の説明が必要ですか?』

「そのくらいはわかるってば。宇宙が破裂するんでしょ」

 うなずく僕を、アリスは『あなたにもそのくらいの知識はありましたか』と鼻で笑う。

『一応未来から応援くらいはしてあげます。コタツでテレビ観ながら、ですけど』

「応援ってか、挑発だよねそれ」

 ああもう。アリスと話をしていると、やる気なくなってくる。

 そもそも僕は、いったい何のためにこんな命がけの任務に就いているのだろう。少なくとも、毒舌幼女にディスられるためではなかったはずだ。

 吹雪の中、人生の無情さについてもんもんと悩み始めたそのとき――タキオンウォッチから、女神のごとく慈愛あふれる声が聞こえてきた。

『ミツキくん、大丈夫?』

 通信アプリに新たに現れたのは、ナイスバディなへきがん美女だ。

 ミツキくん脳内ランキング「今最も声を聞きたい女性」部門でえある第一位を獲得した、キュートでセクシーでラブリーな、僕のあこがれの上司である。

「フ、フフフ、フレドリカさん!! お疲れさまですっ!!

 アプリの立体映像だろうと、相手が彼女なら僕はもちろん敬礼を忘れない。

 そんな僕の姿を見て、フレドリカさんはくすりと笑みを浮かべた。

『ごめんね。急に観測された時震だったから、現場の環境情報があくできてなくて……。そっちは思ったよりもひどい吹雪みたいね。寒くない?』

「いえいえ!! フレドリカさんへの愛の炎があれば、こんな吹雪、そよ風程度のもんですよ!!

 脇で奉先が「また始まった」と顔をしかめていたが、構うことはない。愛するひとがそこにいるなら、雪山だろうと世界の中心だろうと、僕は何度だって愛を叫ぶのだ。

「もうね、フレドリカさんのためなら火の中水の中草の中雪の中!! 任務達成後のムフフなごほうのために、誠心誠意努力する所存でありますよ!!

『ム、ムフフなご褒美は……ちょっとあげられないかな、うん……』

 フレドリカさんが表情を引きつらせていた。

 いつも優しげなこのお姉さんも、僕の情熱的なアプローチを受けたときだけはなぜか微妙な表情をしてしまうのである。残念なことに。

 相変わらずの難攻不落っぷり……だがそこがいい!!

「なにも最初から全てを要求しているわけじゃないんですよ。ムフフ系が無理なら……ちょっと婚姻届に実印を押していただく。それだけでもいいんです!!

『お、重すぎるよ、そのご褒美!!

「〝愛と漬物石は重い方がいい〟――古代ギリシャにはそんな格言もあるとか」

 アリスの立体映像が『ありませんよバカですか』と僕をにらみつける。

 ドライな子だった。たまには空気読んで僕の味方をしてくれてもいいのに。

『あ、あのねミツキくん』フレドリカさんが苦笑する。『いつも言ってるでしょ。私たちは上司と部下だし……それ以前に、きようだいみたいなものじゃない? さすがにキミの気持ちに応えるわけには――』

 そうなのだ。僕にはとある事情があって、彼女と家族同然の暮らしをしていた時期がある。九歳から中学卒業までの七年間――。そんな長い時間を、僕はフレドリカさんと共に過ごしていたというわけだ。

 さてここで問題。思春期の多感な少年がこんなセクシーなお姉さんに拾われ、ひとつ屋根の下で甘やかされてしまえば、いったいどうなってしまうのか? 答えは簡単。「れてしまう」のである。

 彼女との暮らしの中で、僕は何度あのおっぱいを夢に見て、何度自分でパンツを洗ったことか。

「きょ、姉弟じゃダメなんでしょうか!?

『え?』映像のフレドリカさんが首をかしげる。

「そもそも血が繋がってるわけでもないですし、入籍してもオーケーというか、合体だって出来ちゃうというか……何の障害もありませんよ!?

『そういうことじゃなくてね。私がミツキくんを弟だとしか思えないというか』

「そこはきっと、時間が解決してくれると思います!! 恋人的な振る舞いをしていくうちに、フレドリカさんも次第に僕をひとりの男として認めるようになるはずです!!

『ひとりの男って……』

「そうだ!! 帰ったらデートしましょう!! こないだネットで見つけたんですけど、新規オープンの遊園地が結構雰囲気良くて――」

『ああもう!! そんなことより御戸隊長、今は任務に集中しなさいっ!!

 他人行儀な呼び方をされてしまい、僕は「はっ!?」と我に返る。

「ぼ、僕としたことが!! すみません!!

 そうだ。任務をおろそかにして、フレドリカさんに嫌われたのでは元も子もない。

 大時震だとか宇宙消滅だとか、実は細かい事情はどうでもいいのだ。僕がTHRに所属している最大の目的は、彼女と添いげること――ただひとつなのである。

 

 手柄を立てる → フレドリカさんにめられる → 結婚 → ハッピーエンド

 

 どうよ、これ?

 僕の頭の中には、いちすきもない完璧な未来予想図が描かれていた。これを実現させるためには、雪山ごときに二の足を踏んでいるわけにはいかないのだ。せめて来年、僕が二十歳はたちになる頃までに、婚約くらいは済ませておきたいと思っていることだし。

しようこの御戸ミツキ!! 任務に全身全霊を尽くします!! フレドリカさんとの未来のために!!

『あ、うん。私との未来のためじゃなくて、要救助者保護のために頑張ってね』

「……さらっと流したな、フレドリカねえさん」

 奉先に哀れみの目を向けられてしまった。

 でも僕泣かない。ミツキは強い子!!

『大変だと思うけど……救援物資と人員を送ったから、それでなんとかしてみてね』

 それじゃ、と一言言い残して、フレドリカさんの映像が消失する。

「フ、フレドリカさん!? もしもし、もしもし!?

 どうやら通話は一方的に切られてしまったらしい。ちょっぴりショックだ。

「ありゃ脈なしだと思うぜ、隊長さん。いい加減諦めればいいのに」

 軽口を叩く奉先を睨みつけ、僕はため息をついた。

 まあ気持ちを切り替えよう。まずは任務だ。要救助者を速やかに救出し、フレドリカさんに褒めていただくのだ。

「んでも、人員っていったい誰が来るんだろうな」と奉先。

「そりゃまあ……あの子しかいないんじゃないの」

 と、そのとき、背後から「たいちょー」というか細い声が聞こえてきた。

 振り向くとそこには、モコモコした小動物……もとい、暖かそうなファーコートをゆったりと着こんだ、小柄な女の子がいた。

「お、お待たせしました……。たいちょーに奉先さん」

「アルちゃん!!

 僕が名前を呼ぶと、コートの女の子――アルちゃんはにっこりと目を細めた。

 トレードマークは赤毛のおさげに、垂れ気味の大きな目。この大人しそうな子もTHRの同僚だ。

 本名はトーマス・アルバ・エジソン。彼女もまた、誰もが知る歴史上の偉人だった。

「え、えと……課長さんに準備を頼まれたので……」

 アルちゃんはそう言いながら、両手の荷物をひとつずつ僕と奉先に手渡した。結構な重量のナップザックだ。手にした瞬間、ずっしりとくる。

「なんだこれ?」奉先が首を傾げた。

「防寒着とかしよくりようとか、救命器具とか……その手のサバイバルキット一式です。雪山での人探しは、かなり大変だと思いまして……」

「へえ、そりゃありがたいな」

 僕たちは荷物の中からコートを取り出し、さっそくそでを通してみる。

 あつらえたようにサイズはピッタリ。おまけにぬくぬくと暖かい。どういうわけか、生地自体がカイロのように発熱しているのだ。

「すごいなこれ。着ただけで生き返るみたいだ」

「あ、気に入っていただけました……?」アルちゃんが頰を緩める。「流体式自己発熱ナノファイバーを利用した、体温調節機能付きのコートです。これ一着で氷点下マイナス一八〇℃まで耐えられるんですよ」

「そりゃまたすごい。さすがアルちゃんだね」

 偉人たちはみなそれぞれ、偉人と呼ばれる所以ゆえんとなった常人ならざる才能を有している。このアルちゃん――トーマス・アルバ・エジソンの場合は、わかりやすく〝発明〟という才能だ。

 この発熱コートしかり。それからタキオンウォッチ内蔵の便利アプリしかり。

 アルちゃんはその〝発明〟の才によって、魔法にしか思えないほどの超科学アイテムを開発してしまうのである。彼女のアイテムによって、これまでどれだけ僕たちが助けられてきたことか。

「よしよし。今回もよく出来ました」

 いつものように頭をでてやると、アルちゃんがにっこりと微笑ほほえんだ。

「えへへ……たいちょーに褒めてもらえると思って、頑張ったんです……」

 この子、僕に頭を撫でられるのがとても好きなのだそうだ。

 なんとなくペットの犬っぽい。犬飼ったことないけど。

「ああ。さすがアルだぜ。これなら寒さを気にせず、思う存分やれそうだな」

 コートを羽織った奉先は、いつの間にか身の丈ほどの巨大なげきを手にしていた。穂先に凶悪なデザインの刃がついた、彼女の愛用武器――ほうてんげきである。

「麓の方からいくさの気配がする。こいつの出番は近いぜ」

「え? 戦の気配? そんなの全然感じないけど」

「ま、隊長さんには気を読むのはまだ無理かな。でもあたしはビリビリ感じるぜ。戦場特有の荒っぽい空気ってやつをな」

 そんなバトル漫画めいた台詞せりふも、奉先が言うと冗談に聞こえない。

「きっとアレだろ。例の怪物皇帝とやらの軍隊が戦ってやがるんじゃねえのか」

「まあ、それはあるかもね。遠征って言ってたくらいだから、今戦争中なんだろうし」

 奉先は楽しそうに唇を歪め、方天画戟を肩に担ぎ上げた。

「なら、ここはバトりに行くしかねえな」

 その突拍子もない言動に、僕もアルちゃんも目を丸くしたのは言うまでもなかった。

「なにそれ」

「そりゃ、強いやつと戦うのがあたしの生きがいだからな」

 そうだった。この武将娘のバトルマニアぶりは、ちょっと普通じゃない。歴史上のつわものに挑戦するためにTHRに所属している――そう公言してはばからないのである。

 可愛かわいい顔しているくせに、格ゲーの主人公みたいな女だった。

「いや、今回の任務は人命救助だろ。積極的に戦争に参加する必要はどこにもないと思うんだけど」

「まー固いことは言うなって、隊長さん」ぎらついた目で、奉先が笑った。「戦闘に巻きこまれたら救助どころじゃねえだろ? 面倒なことになる前に、あたしがちゃちゃっと片づけてきてやるぜ」

「いや、キミが出て行った方が面倒なことになりそうなんだけど……」

「んじゃ、要救助者の保護の方は任せたぜ!!

 奉先は軽々と戟を振り回しながら、そのまま吹雪の向こうへと走り去ってしまう。

 まったくもってひとの話を聞かない女である。取り残された僕とアルちゃんは、顔を見合わせることしか出来なかった。

「い、行っちゃいました……」

「心配だよね……。あいつに狙われた兵隊さんたちが」

 僕はタキオンウォッチをタップし、再び通信アプリを起動する。

『なんですか、もう』アリスはなぜか不機嫌顔だった。

「奉先が勝手にどっか行っちゃったんだよ。そっちから連絡して呼び戻してくれ」

『いやです面倒くさい』

「はい?」何その態度。

『私は他にやることがあるんです。忙しいんです』

「いや、忙しいって……。オペレーターでしょキミ。他になんの仕事があるの」

『今いいところなんですよ。竜の巣を抜けて、ようやく天空の城を発見したところなんですから』

 こともあろうにアニメ鑑賞中だった!! 絶対それ今関係ない!!

「ひとが命がけで雪山探索しようってのに何してんの!? 仕事しようよ!!

『ヤですよ。だって奉先さんの面倒を見るのは、隊長の仕事でしょう。あなたのミスを尻ぬぐいするなんてゴメンです』

「ぐうっ……!!

 僕のミスと言われてしまえばまあ、その通りなんだけども。

 しかし、ここで引きさがるわけにはいかない。部下にめられたら隊長の名折れだ。

「いや、そういう話じゃなくてね? 僕はただ真面目に仕事をしろって言ってんだけど」

知識アニメの収集は哲学者の仕事です』

「そっちじゃなくて、オペレーターの仕事を――」

『うるさいです。バルス』

 アリスは謎の呪文を吐き捨て、通話を一方的に打ち切ってしまった。再度通話を試みても、まったく応答する気配はない。アニメに夢中なのだろう。

「くっそう……。どいつもこいつも自分勝手すぎる……!!

「あ、あの……。気を病まないでください、たいちょー。ボクは味方ですから……」

 僕を見上げて、アルちゃんがぐっと握りこぶしを作ってみせる。

 ああ。天使だこの子。THRの唯一の良心と言ってもいい。

「ええと……その、奉先さんはボクが連れ戻してきますから」

「アルちゃんが?」

「は、はい。奉先さんを止めるのは、たぶんボクの方が適任だと思いますので……」

 確かにこの子の言う通りだ。なんの力もない僕では、あのじゃじゃ馬娘を止めることは不可能に近い。

「わかった。頼むよ。あいつはアルちゃんに任せる。要救助者は僕がなんとかするから」

「りょ、了解ですっ……!!

 びしりと敬礼をして、アルちゃんがにっこり頰を緩めた。

 その微笑みは、極寒の雪山に咲いたエーデルワイスとでもいうべきものだった。この子の優しさがなければ、僕はおそらく心が折れていただろう。ホンマええ子や……。

「そ、それでは……!!

 とてとて、と奉先のあとを追うアルちゃん。なんだか歩き方も可愛らしい。

 その後ろ姿を見送り、僕はタキオンウォッチの地図アプリを起動する。

「さて、こっちも探すか」

 この峠付近の三次元地図が、虚空に投影される。

 点滅している赤い点が事象の歪みの中心点。すなわち時震源だ。それが今回の要救助者――ナポレオン・ボナパルト氏の現在地点である可能性は高い。

「ここから二百メートルくらいか」

 よかった。さほど離れてはいない。

「光点がまったく動かないってことは、大人しく救助を待ってるのかな……。怪我してたりしたら最悪だけど」

 赤い点を目指し、僕は吹雪の中を歩き出す。

 この任務が終わったら、僕はもう一度フレドリカさんに結婚を申しこむんだ――!! そうやって自分を鼓舞すれば、多少の寒さなどへいちゃらなのである。

 死亡フラグ? なにそれ?

 そしてすぐに、赤い点の座標は見つかった。

 僕の目にまず入ってきたもの――それはパンツだった。

「おおう!?

 少女の下半身を覆う、黒のシルク。余分な柄やフリルのない、洗練されたデザインのいつぴんだ。小ぶりなお尻にバッチリと食いこんだそれは、僕の視線をとらえて離さなかった。

 だがそれも仕方ない。少女の姿勢のおかげで、パンツはもろに全開。縫い目クロツチまではっきり見えるほどの御開帳ぶりだったのだから。

「ぐすっ……なに、見てるのよ」

 パンツの主が、下からじっと僕を睨みつけている。

 深い谷底をのぞがけぎわ。少女は逆さりだった。

 としは僕より少し幼いくらい。偉そうなマントに偉そうな軍服を身につけた、なんだか偉そうな態度の女の子だった。そんな子が逆さまの姿勢で、涙目になっている。

 うん。どう見ても普通じゃない。一八〇〇年の世界でミニスカ軍服姿だというのが、まずおかしい。時震の影響を受けているのは明らかである。

 しかしそのミニスカートも、逆さ吊りの状態では本来の役割を果たしていなかった。重力に負け、きっちり裏返ってしまっているのだ。おかげでパンツもろ見せ状態である。

「しかし、エロさよりもバカバカしさが際立っているのはなぜだろう……」

 崖から突き出たように生えている木の枝に、片足首だけが引っかかった宙ぶらりんの姿勢――。なにが起こればこんな格好になるのか。まさかギャグでやってるんじゃないよな。

 少女が目を潤ませながら、怒声を放つ。

「か、勝手にひとのパンツを見るんじゃない!! この無礼者!!

 彼女は必死にスカートを両手で押さえ、僕の視線からそのれんな薄布を隠そうと試みているようだった。だが、無駄な努力である。万有引力には逆らえない。

「いや不可抗力でしょこれ。出会った瞬間からパンツ丸出しの方がどうかと思うけど」

「う、うるさい!! 丸出し言うな!!

「だって丸出しだし……」

「だいたいなんなのよ、おまえのその態度!! うう……ひっく、このわたしを誰だと思ってるの!? フランス共和国第一統領よ!! 軍の総司令官よ!! この世で一番偉いのよっ!!

 ぎゃーぎゃーうるさい小娘だった。泣き顔を誤魔化そうと、虚勢を張っているのだろうか。逆さ吊りの状態からここまで偉そうな言葉を吐けるとは。逆にすごい。

「ええとキミ、もしかしてナポレオンちゃん?」

「そうよ。……ぐず、未来の皇帝へいよ」

 少女――ナポレオン・ボナパルトは得意げに腕を組む。

 おかげで再びパンツは全開に……。

 もっとも、それを指摘すると余計な火種になりそうだったので、あえてそっとしておくことにした。僕って大人。

「で、その未来の皇帝陛下が、なんでこんなところで宙吊りになってるの」

 少女は、涙まじりに答えた。

「て、敵陣に突撃しようと馬を走らせてたら、急に振り落とされたの」

 なるほど。確かに周囲の雪の上には蹄の跡があった。崖際に落ちている黒い二角帽は彼女のものだろう。馬上から投げ出され、運悪くこういう体勢になったらしい。

「落馬した上に、そのまま勢いで崖から落下……ドジな皇帝陛下だなあ」

「う、うるさいわね。わたしをじよくするつもりなら、ギロチン送りにするわよ」

 そんな態度だけは皇帝レベルだった。

「でも、なんで皇帝陛下がひとりで敵陣に突撃しようとしてたわけ?」

「そりゃ、どいつもこいつも根性のない、使えない部下ばっかりだったからよ。わたしひとりで戦った方がまだマシだと思ったの」

 不慮の事故で宙吊り&パンツ全開になってしまった涙目の女の子が、何だか偉そうなことを言っている。こんな皇帝に、「使えない」と評されてしまった部下たちの心中はいかほどだったのか。わいそうに。

「でもまさか、ナポレオンまで女の子になっちゃったとはね……」

 気の強そうなつり目に、少しクセのあるブラウンの髪。目鼻立ちはずいぶんと可愛らしく、十分に人目をくルックスの少女だった。逆さ吊りのせいであらわになっているおなかや太ももも、実にぷるっぷる。この上なくみずみずしい。

 ありていに言えば、ナポレオンちゃんは美少女だった。

「な、なによ……。ぐすっ、わ、わたしが女の子で、何が悪いの?」

 口を尖らせる彼女には、僕たちがよく知る男性的ナポレオンのイメージはまるでなかった。自分が女性であることに何の疑問も感じていないようだ。

 まあ、それも当然だろう。時震とは、得てしてそういうものなのだ。ある歴史の一地点において時空がねじ曲がり、不可思議な並行歴史パラレルワールドを誕生させてしまう。今回の例で言えば、この西暦一八〇〇年に、突如「ナポレオンが女の子として生を受けた並行世界」が出現してしまったというわけだ。

 この並行歴史パラレルワールドにおいては、誰もが皆、ナポレオンが女の子であることを当然だと認識しているのだろう。彼女自身はもちろん、おそらく彼女の家臣たちも。ヨーロッパ中でそういう共通認識になっているに違いない。信じがたいが、ここはそういう世界なのだ。

 要するにこの泣き顔のドジっ子は、正史における偉人「ナポレオン・ボナパルト」とは完全に別人だというわけである。威厳の欠片かけらもなくて当然だろう。

「改めて考えると、時震ってよくわからない現象だよね、ホント」

 しかしどうしてこう、時震の影響を受けた偉人のみなさんは、本来の年齢とか容姿とか性格とか、そういうの一切ガン無視で、誰も彼もが美少女になってしまうのだろうか。

 時震さんの趣味なのか?

「……まあ、偉人が全員揃って筋骨りゆうりゆうのオッサン化しちゃう、とかよりはマシだけど」

「え?」少女が眉をひそめた。「というか……ぐずっ……おまえはどこの誰なのよ。格好からすると、このあたりの村の人間? イタリア人なの?」

 なるほど、今の彼女の目には、僕はしがない村人Aに見えているらしい。

 これもアルちゃんが開発した技術のひとつである。

 タキオンウォッチに内蔵された「欺瞞迷彩ステルスアプリ」だ。特殊な波形の電波が周囲の人間の脳に作用して、アプリ使用者の見た目や言語に対する違和感を消し去ってくれるらしい。

 つまり、違う時代にスムーズに溶けこむことが出来るアプリというわけだ。今回初めて使ってみたが、なかなかに便利そうだ。

 少女が「まさか」と僕を睨みつける。

「野盗のたぐいじゃないでしょうね? 動けないわたしの身ぐるみをいで、いいように乱暴するつもりだとか……?」

「そういうんじゃないって。僕はキミを助けに来ただけだよ」

「助けに……?」ナポレオンちゃんが、さんくさそうなまなしを僕に向ける。「ホントかしら。ひとのパンツをガン見してる変態のくせに」

 バレていた!!

「だ、大丈夫。変態じゃないよ。たまたま目に入ったから見てただけだし」

「なにその言い訳……」

 まあ、僕だって男なのだ。パンツにときめきを覚えるかどうかと問われれば、そりゃあYESである。男子の視線がパンツに惹きつけられるのは、N極とS極が引かれ合うくらいに自然な現象なのだ。

 しかし――しかしだ。

 ナポレオンちゃんは、今回の要救助者である。彼女を助けることが出来れば、フレドリカさんに褒められる。すなわちそれは、素敵な未来予想図への第一歩なのである。

 眼前のパンツに目を奪われて、後のおっぱいを逃すなんてこつちよう……!!

 そうだ。今の僕の優先事項は、パンツを鑑賞することじゃない。パンツを救出して、おっぱいを手に入れることなのである。

 そうと決まればやることはひとつだ。僕は崖際でナポ子に向かって手を伸ばすようにうつぶせた。

「ほら。動かないでね。引っ張り上げるから」

 そうして足首に触れた瞬間、

「や!? ちょ、勝手に触るなぁっ!!」ナポレオンちゃんが、びくん、と身体をひねった。

「だから動いちゃダメだってば!! 危ないよ!!

「おまえの目つきの方が危ないわよ!!

 彼女には一向に落ち着く様子は見られなかった。それどころか、大きく身体を左右に揺らし、僕の手から逃れようとする始末である。

「ああもう!! なんで逃げるの!!

「お、おまえが太もも触るからでしょう!?

「しょうがないじゃないか!! ここ支えてないと持ち上げられないんだから!!

「は、放せ変態っ!! 犯罪者っ!!

 暴れる彼女のブーツの底が、僕の鼻先にクリーンヒットする。

 思わず「んぶっ!?」とうめいてしまった。痛い。目が涙でにじむ。

 しかしここは我慢だ。THRエージェントたるもの、時には鉄の覚悟が必要とされるのである。

「あ、暴れると落ちるから!! 崖下真っ逆さまだから!!

「変態に犯されるくらいなら、墜落死の方がまだマシ!!

 ひどい。ひとがせっかく助けようとしてるのに、変態呼ばわりだなんて。

 鉄の覚悟は早くも粉々に砕けそうだった。

「離れろ!! かん野郎!!

 よほど警戒しているのだろう。彼女は思いきりひじこぶしを振り回し、激しい抵抗を見せてきたのである。

「だ、だから、あぶな――」

 と言ったのもつかの間、彼女の裏拳が僕の左手首を打った。

 メキリ、というヤバげな音が耳に届く。視線を落としてみれば……これはビックリ。タキオンウォッチの液晶画面が、妙な具合にへこんでいるではないか。

「おうふっ!?

 液晶は完全に割れており、バチバチと火花を飛ばしていた。

 見ただけでわかる。こいつはアウトだ。

 マズい。これはマズい。非常にマズいぞ――!!

 この時計は僕たちTHRエージェントの生命線なのだ。これが壊れたら、あらゆる便利アプリが使えなくなる。未来への帰還はおろか、仲間との通信も出来なくなってしまうのだ。

 しかし、悲劇はこれだけに留まらなかった。

 僕がぼうぜんとしてしまっていたせつ――その一瞬の隙が命取りだったのである。

「ふんぬう!!

 なんと、ナポレオンちゃんが更なる攻勢に乗り出してきたのだ。こともあろうに、僕の肩口を思いきり引っ張って、谷底に落とそうとしてきやがったのである。

「死なばもろともよおおっ!!

「ちょ、まっ――」

 僕に出来たことは、慌てて体勢を整えることだけだった。

 なんとか転落だけはまぬがれたものの――失ったものは大きかった。

 そう。それは背中のナップザック。

 サバイバルグッズがたくさんつまった、命と同じくらい大事なナップザックだ。

 こともあろうに僕は、それを落としてしまったのである。ナポレオンちゃんとみ合っているうちに、肩にかけていたひもが千切れてしまったのだ。

 本当に、あっという間の出来事だった。僕はただ、ナップザックが暗い谷底へと消えていくのを見守ることしか出来なかった。

「なんてこった……」

 タキオンウォッチに続き、まさかサバイバル用具を一式失うことになるとは……。

 これで命綱ゼロ。ショックなんてもんじゃない。絶望である。

 どうしよう、これから……。

 青ざめる僕を横目に、ナポレオンちゃんが「よいしょ」と崖をい上がってくる。

 立ち上がった彼女はすぐさま僕から距離を取り、腰のサーベルを抜き放った。

「これで形勢逆転よ!! このナポレオン・ボナパルトの眼前から、生きて帰れるとは思わないことね!!

「ははは……。確かに、生きては帰れないかも……」

 もはや乾いた笑いしか出てこなかった。

 吹雪のアルプス山脈。役立つ装備はまるでなし。そんな状況の中、僕は要救助者とたったふたりきりで取り残されてしまったのだから――。

 

 1800/5/15 グラン・サン・ベルナール峠 山中のどうくつ

 

「わたしは一ミリも悪くないっ!!

 ミニスカ軍服の少女が、ぷいっと僕から顔をそむけた。

 あれからどのくらいの時間が経っただろうか。三時間? 四時間? もしかしたら半日くらいは経っているかもしれない。時計がないので、まったくわからないのだ。

 やはり、タキオンウォッチはうんともすんとも言わなくなっていた。これで通信手段は完全にそうしつしてしまったというわけだ。

「その機械が壊れたのも、荷物を落としたのも、単なるおまえの不注意よ。わたしはただ、暴漢の魔の手から身を守ったにすぎないし。正当防衛よ!!

 皇帝陛下は先ほどから、延々と責任逃れを続けていらっしゃった。

 なんという自己正当化だろう。せいしやとはいつの時代もこうなのか。

 ともあれ彼女の様子を見る限り、欺瞞迷彩ステルスアプリの効果はまだ失われていないようだった。だが、どうせそれも時間の問題だろう。

 僕は「はあ」と深いため息をつく。

 峠に吹きつける吹雪の勢いは一向に弱まることなく、僕たちの体力を奪っていた。

 彼女の誤解を解き、なんとかこの洞窟にたどり着く頃には、心身共にくたくたになってしまっていたのである。

 もう雪山はイヤ。風呂入って寝たい。

「どう考えてもキミのせいだろ。助けも呼べない。救援物資もない。どうしろっていうんだよ、この状況」

「知らないわよ。だって、本当にわたしを助けに来たひとだなんて思わなかったんだもん」

 洞窟の岩壁を背にし、少女は体育座りをしていた。

 アルちゃんきんせいの発熱コートを羽織らせたおかげで、寒さにこそ耐えられているようだったが、それでも疲れの色は見える。

 それより問題は僕の方だ。コートなしだと、死ぬほど寒い……!!

 雪風こそしのげているとはいえ、洞窟内の空気は冷たかった。洞窟とはいうものの、せいぜいが奥行き数メートルほどのほら穴でしかない。外気との差がほとんどないのだ。

 せめてたき火でも起こせたらいいのに――と思ったが、着火装置はナップザックの中だった。最悪である。せめて火打ち石でもいいから欲しかった。

 徐々に削り取られる体内の熱量。時が経つほどに、生還の目は限りなく低くなっていく。僕とこの少女の命は、今や風前のともしであった。

「まったく。あそこでナポが暴れたりしなければ、最低限生き延びるくらいは出来そうだったのに」

「だから、わたしは悪くないって言ってるでしょ!! あとナポ子って言うな!!

 ナポレオンだから、ナポ子。

 我ながら何のひねりもないネーミングだったが、あだ名を付けるくらいの反撃は許してほしい。だってこのへいそく状況を生み出したのは、限りなくこの子のせいなんだから。

 当のナポ子は、苦々しげに「むう」と僕を睨みつけていた。

「このわたしを恐れない身の程知らずは、おまえが初めてよ。山を下りたら覚悟しておくのね」

「その前に、生きてこの山を下りられるかどうかの覚悟をすべきだと思うけど」

 雪山を歩き回ったせいか、少しお腹がすいてきたような気がする。

 それはナポ子の方も同じようで、さっきから「ぐう」と腹の虫が鳴っているようだった。

「たしかに、まずは生存戦略が最優先かもね……。ねえ、なんか食べ物持ってない?」

「食べ物は全部谷底だよ……」

「ふむ……じゃあ谷底まで取りに行くしかないわね」

 おっとナポ子さん、ナチュラルにとんでもないことをおっしゃる。

「さっきの崖を下りて? 冗談でしょ?」

「行けるわよ。人間やれば出来るもん。わたしたち人類の辞書に、不可能という文字はないわ!!

「この状況でその名言!?

「なによおまえ、怖いの? ビビリなの?」

「そりゃあ怖いよ。あの崖、何百メートルあると思ってるの」

「じゃあいいわよ。わたしひとりで行くから」

「え」と目を丸くする僕をよそに、ナポ子がすっくと立ちあがった。

「今こそフランス皇帝の度胸を見せるときよ!! 突撃ーっ!!

 猛然と駆けだそうする彼女の袖を、「ちょっと待った!!」とつかまえる。

「死ぬから!! こんな吹雪の中でロッククライミングなんかしたら、普通に死ぬから!!

「なによ。わたしの覚悟に水を差す気なの」

 ナポ子が僕を睨みつける。

 さすがはナポレオン・ボナパルトを名乗るだけあって、ナポ子は無駄に勇敢な女の子であった。度胸だけなら大軍の司令官に相応ふさわしいだろう。案外、先陣を切って駆け出すことが出来るリーダーとして、多くの部下たちに慕われている――という可能性も、なきにしもあらずだけども。

 でもこの子、いろいろと考えが甘過ぎじゃないか?

「だいたいキミ、ロープもないのに、どうやって崖を登り降りするつもりなのさ」

「ん、そりゃまあ……努力とか根性とか、そういうので」

「精神論!?

 結局、彼女を説得してほんさせるまでに、かなりの労力をついやすことになってしまった。実に不毛なやりとりである。なるべく体力を温存しなければならない場面だというのに。

 はあ、とため息をつく。

 水も食べものもなければ、死に向かって一直線だ。あと一日持てばいい方だろう。

 その間に、THRのみんなが僕を見つけてくれるかどうか――正直、の悪いけだと言わざるを得ない。アリスはしよぱなからやる気ないし、奉先はバトルに夢中だろうし。アルちゃんだってそのふたりに振り回されて、てんてこ舞いだろうから。

 ああ……僕はもう、フレドリカさんに再び相まみえることは出来ないのだろうか。どうせ死ぬなら、彼女のひざの上で死にたかった……。

 そんなことをつらつら考えながら、ただいたずらに時が流れるのを待つ。今の僕に出来ることなんて、しよせんそのくらいしかないのだ。

 

 1800/5/16 同・洞窟内

 

 イライラと頭をきむしりながら、ナポ子がえる。

「暗いし寒いし……もう最悪だわ!!

 洞窟の外が深いやみに包まれてから、体感ですでにかなりの時間が経過していた。

 時間的にはもう真夜中なのだろう。気温はさらに低下し、体力や腹具合も限界を迎えつつあった。

 ここでまぶたを閉じたら楽にはなるのだろうが、そのままあの世へゴーしちゃう可能性はいなめない。いわゆる「寝たら死ぬぞ」的状況である。

 これは御戸ミツキ史上、まれに見る危機的シチュエーションだと言えるだろう。

「おいおまえ、なんとかしなさいよっ!!

 急にナポ子さん、そんなことをのたまった。

「なんとかって、何?」

「決まってるでしょ。しいご飯と寝床を準備しろって言ってるの。今すぐ!!

 この皇帝陛下といえば、さっきから文句と不平ばかりだった。まるで親に甘える駄々っ子である。よくこんな理不尽が言えるものだと逆に感心してしまうレベルだ。

 まあ、この子がギャンギャンうるさいおかげで、睡魔は跳ね除けられている。その点だけは、感謝してもいいけれども。

「だから何度も言ったでしょ。ご飯はないし、寝床はこの岩肌で我慢するしかないって。雪風を凌げているだけマシだと思うしかないよ」

「ありえないわ!!」ナポ子が頰を膨らませる。「わたしみたいな美少女が、こんなヒドイ環境で夜を過ごせるわけがないでしょ!! そんなこともわからないの!?

「そりゃ、僕だってヤだけどさ。でもしょうがないじゃない。他の場所に行く当てもないんだから」

 彼女は「はあ」と、ため息交じりに首を振った。

「若鶏のマレンゴ風が食べたい。ふかふかのベッドで眠りたい……!!

「そりゃ同感だけど、我慢するしかないよ」

「ううう……どうしてこのわたしがこんな目に遭わなきゃいけないのよっ……!? 第一統領なのに、世界で一番偉いのに……あんまりだわ!! こんなのってない!!

 またしても、ナポ子の声はぐずぐずと震えていた。

 きっと不安なのだろう。態度や口調こそ無駄に偉そうだが、彼女も年頃の少女なのだ。いきなりこんな過酷な環境に放り出されれば、悪態のひとつもつきたくなるのかもしれない。

「ほんとにもう、すぐ泣く皇帝陛下だなあ」

 まあここは、僕がプロらしい冷静さを見せてあげるべきだろう。要救助者の心理的ケアも、THRの業務なのだし。

 僕はナポ子を元気づけるべく、「大丈夫だよ」と声をかけようとしたのだが、

「それもこれも、全部おまえのせいよ!!

 当のナポ子は僕に、ずびし、と人差し指を突きつけていた。

「えええっ!? なにその無茶苦茶な責任てん!?

「おまえのせいで、こんな洞窟でひと晩過ごさなくちゃならなくなったのよ!? あの崖でおまえに会ってさえいなければ、今頃わたしは暖かいベッドの中にいられたはずなのに!!

「いや、そもそも僕が助けなかったら、ナポ子は今頃谷底に――」

「黙れ平民!!」ナポ子がぴしゃりと言い捨てた。「誰が反論をしていいって言った!? おまえ、まだわたしが何者かよくわかってないようね!?

 うわあ。この子、超めんどくさ!!

「何者ってそりゃ……超ワガママで泣き虫で、どうしようもない皇帝陛下?」

 思わず口をついて出てしまったその言葉が、ナポ子の怒りに油を注いでしまったらしい。彼女は実に不機嫌そうに、大きく頰を膨らませた。

「誰がワガママよ!? おまえバカなの!? 死にたいの!?

「死にたくはないけど……。でもこのままじゃ、遅かれ早かれ死にそうだよね。誰かさんのせいで」

「むきいいいいっ!!

 そんな人語ともつかないうなりを上げながら、ナポ子がおもむろに立ち上がった。

 腰のサーベルを抜き放ち、「もう頭にきた!!」と、その切っ先を僕に突きつける。

「不敬罪よ!! おまえみたいな生意気なやつは、この場で断罪してやる!!

「ええっ!?」刃物を向けられ、僕は思わず息をんでしまう。「ちょ、落ち着こうよ。そんなことで体力使うくらいなら――」

「問答無用!! わたしの辞書にようしやという文字はない!!

 大上段にサーベルを振り上げ、そのまま彼女は思いきり僕に飛びかかってくる――!!

「死にさらせえええええっ!!

「ひいっ!?

 さすがに僕も背筋がヒヤリとしたのだが、

「――ふぎゃっ!?

 ナポ子は突然、その場でつまずいてしまった。

 岩に足を引っかけてしまったのだろう。どべしゃ、と盛大に顔面から地面にダイブしたのである。

「え?」

 うつぶせに倒れたまま、ナポ子は動かない。ぴくぴくとけいれんさせて、まるでかれたカエルのように地べたに突っ伏していた。

「…………」

「あのー、ナポ子さん?」

「あうう……」彼女がゆっくりとおもてを上げる。「い、痛いぃ〜〜……っ」

 真っ赤な目には大粒のしずく。端整な顔を歪ませ、ナポ子は「ひっく」と肩を震わせていた。

 ……また泣いちゃった!? この皇帝陛下、ひとりで転んで泣き始めちゃったよ!?

「ええと、だ、大丈夫?」

「ぐすっ……だ、大丈夫なわけないでしょ……。えぐっ」

 それはあまりにも無様。あまりにも情けない姿であった。

 まともに剣も振るえない軍人って、どうなんだろう。

 そろそろ僕も、このナポ子という少女についてわかってきたことがある。この子偉そうなだけで、本当はどうしようもなくダメな子なんじゃ――。

「ううう……ひぐ、えぐ」

 転んでグズるその姿は、まるで幼稚園児だ。いい歳の少女がこんなしゆうたいさらしているのは、さすがに同情を禁じ得ないものである。

 僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女のそばにしゃがみこんだ。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を丁寧に拭きながら、

「い、痛いの痛いの飛んでけー」

「ぐずっ……バカにしないでっ」

「あ、あはは……。ごめん」

 僕が謝らなければいけない理由は皆無だと思うのだが、このナポ子にはなぜか、そうせざるを得ない妙な雰囲気があった。こっちが大人になってやらなきゃなあ――と思わせるような、不思議な魔力というか。なんかそういうやつが。

 ナポ子はハンカチで「ずびいいいいっ」と鼻をかみ、それを丸めて僕に渡そうとしてくる。

「いや、それもういらない……」

 なんなんだろう。この変な皇帝陛下。

 

 1800/5/16 同・洞窟内

 

 ナポ子が泣き止むのを待っていたら、外がだんだん明るくなってきた。夜が明けたのだろう。依然として吹雪は続いているものの、勢いは若干弱まってきた印象がある。

 そろそろ本格的に体力も限界だ。せめて今日中くらいには、誰か助けに来てくれるとうれしいんだけど。

 ナポ子のお腹が「ぐう」と鳴る。

「……こうなったらもう、雪でも食べるしかないのかしら」

「やめた方がいいよ。冷たい雪を身体に入れると体温が低下するって聞いたことがある。自殺行為だよ」

「むっ……なによ偉そうに」ナポ子が眉を吊り上げる。「わたし、上から目線って嫌いなの。他人に偉そうに説教されると、なんかしやくに触るのよね」

「キミ、鏡とか見たことある?」

 思わずつっこまずにはいられなかった。これだけふてぶてしい性格の人間って、皇帝以外の職に就けないんじゃないだろうか。

「こうなったら仕方ないわ」

「え、なに」

「近くで何か食べ物を探す。多少の吹雪は我慢よ」

 まあ、確かにそれもひとつの手だろう。

 すっくと立ち上がったナポ子に、僕は「そうだね」と頷き返した。

「座して死を待つよりは、そっちの方が建設的かもしれない」

「よし、手分けして探しましょ。来るとき上の方に森が見えたから……そこで木の実とか見つかるかも」

「オーケー。ならとりあえず、だいたい三十分を目安にここに戻ってくることにしようか」

 そう頷き合って、僕たちは洞窟をあとにする。

 手分けして食料を探す――今思えば、これが大失敗だった。この時点での僕は、まだナポ子を過大評価していたのである。

 ありとあらゆる失敗を引き起こす、天性のトラブルメーカー。

 この少女の本質を知ってさえいれば、絶対に単独行動などさせなかっただろうに。

 吹雪の森の中は、お世辞にも食料採取に適した場所だとは言えなかった。

 風にあおられて樹上の雪が落ちてくるわ、地を這う根っこに足を取られるわでもう散々。草木の雪を払い、木の実の有無を確かめるだけでひと苦労である。発熱コートもナポ子に貸したままだし、身体のしんから冷えてくる。

「根性と忍耐力が試されるな、これ……」

 雪の中にしゃがみこんでかんぼくの枝をいじっていると、小さい頃に亡くなった祖母の声が聞こえてくるような気さえしてくる。ごめんおばあちゃん、僕まだそっちにはけないよ!!

 そんな限界ギリギリの状況の中で、クルミと木いちごを合わせて十個ほど見つけられただけでも、万々歳の成果だろう。これはもう、自分で自分を褒めていい場面だ。えらいぞミツキ。

 そんなこんなで、集合時間がやってきた。

 ナポ子はどれだけ収穫できただろうか。洞窟へと帰還するべく、僕は自分のあしあとを辿り始めたのだが、

「ひぎゃあああああああああっ!!

 耳をつんざくような悲鳴が、木立の中を駆け抜けた。

 ナポ子だ。いったい何が起こったというのか。

「なにか、非常によくない予感がする……!!

 疲れた身体にむちを打ち、僕は悲鳴の方向へと駆けだした。

 細い枝が膝を打ち、葉が頰を切る。それでも躊躇している場合じゃない。あんなふてぶてしい小娘だろうと今回の要救助者なのだ。何かあっては寝覚めが悪い。

 枝葉をかき分け、走ること数分。

 木立の中の少し開けた場所に、ナポ子の姿があった。

「ど、どうしたの!?

 へし折れたサーベルを手にして、ぺたん、と地面にしりもちをついている。

 彼女の視線の先にいたのは――熊。

 優にナポ子の三倍はありそうな、巨大なヨーロッパヒグマである。

「あ、ええと……ちょっとピンチ……みたい」

 現れた僕と熊とを交互に見やり、ナポ子は声を震わせている。顔面は真っ青。つい先ほどまでわずらわしいくらいにたけだかだったくせに、またしても目に大粒の涙を浮かべている。

 でもまあ、気持ちはわかるのだ。

 前歯をき出しにして「グゥゥゥ」と唸るヒグマさんの姿は、そりゃもう怖い。

 丸太のように太い前足の先には、にび色に輝く鋭い爪。捕食のために最適化された、芸術性すらうかがえる野生の凶器だ。捕まったら最後、人間の肉なんてさぞかしれいに切り裂かれてしまうだろう。

 そう。今やナポ子はヒグマのえさになろうとしていた。食料調達に来て熊の食料になっちゃうなんて、どこまでドジだったら気が済むのか。

「な、なんでこんなことに……!?

「つ、捕まえて熊鍋にしてやろうと思ったのよ」

「熊鍋!?

 何言ってんの、この子。火種もないのに。

「動き鈍そうだったからなんとかなると思ったんだけど……意外に手ごわいのよ、これが」

「手ごわいどころの話じゃないでしょ!?

 冬眠明けのヒグマさんにケンカを売るなんて、しようしんしようめいバカの所業である。

 腹をすかせた熊が全力で走れば、時速六十キロにも及ぶと聞く。のっそりしているように見えて、やつらはとてつもなく素早いのだ。怒らせたら最後、逃げるのは絶望的である。

「と、とにかく、なんとかしなきゃ……!!

 こういう状況こそ奉先の出番なのだが、肝心なときにあの武将娘はいない。アルちゃんの頼れる便利アイテムもないし、僕が自力で切り抜けなければいけない場面らしい。

「こ、この熊野郎!! わたしを誰だと思ってるの!! ナポレオンよ!! 第一統領よ!? この世で一番偉いんだから!!

 すごんでみせるナポ子だったが、熊の方は意に介した様子もない。当たり前だ。

 それどころかヒグマ氏は、ナポ子が腰を抜かして動けないことを察知し、舌なめずりをしているようだった。このままでは、ナポ子があの爪のじきになってしまう。

 何かないか。なんでもいいから、なにか役立つものは――!?

 といっても、僕が手にしているのはせいぜいクルミと木いちごくらいのものだった。こうなればもう、これを使うしかない。

「ええいっ!! さん!!」僕は手にしたクルミをひとつ、熊に向かって放り投げた。

 額の辺りにぽこん、と当たり、クルミはあえなく落下する。

 これが投げ銭で、さらに僕が時代劇のおかぴきだったりするなら、ヒグマさんをひるませることくらいは出来たのかもしれない。だが、現実はそううまくいくものではないのだ。

 ヒグマさんはもちろんダメージゼロ。おまけに怒りゲージを高めてヘイトを稼ぐ結果になってしまったらしい。

「ウウ……グルウウ」と恐ろしげな唸り声を上げ、僕を睨みつけている。

 しかしもう、こうなったらやるしかない。

「こっちだこっち!!

 僕は手当たり次第にクルミや木いちごを放り投げ、ヒグマさんの意識を誘導する。ナポ子を救うにはこの手しかないのだ。

 ヒグマさんはそれを挑発と受け取ったのか、僕を見てゴキリと首を鳴らし始めた。人間語なら「おお上等だコラてめえやんのか?」とでも言われているような雰囲気だ。

 めっちゃ怖っ!!

 ヒグマさんが僕を標的に定めた。

 さあどうする。あの熊相手にどうすればいい。

 しかし残念なことに、僕には有効策を思いつくための時間など残されてはいなかった。

 それはほんの一瞬の出来事だった。熊は勢いよく地面を蹴ると、なんとこちらに飛びかかってきたのである!!

 僕など所詮はただの凡人。時速六十キロの突進など到底避けられるものではなく。

「――あぎゃああ!?

 飛びかかられた矢先、鋭い爪が僕をに切り裂いた。制服は千切り取られ、肩口から腹部にかけてけるような痛みが走る。周囲の白い地面が、一瞬で赤に染まるほどの出血量だ。

 ちょ、超痛いですよコレ!?

 その勢いのまま、僕の身体は地面に叩きつけられてしまう。

 ヒグマさんは当然マウントポジション。「今日の晩御飯はミツキくんのおどり食い」とばかりに、その凶悪な犬歯を剝き出しにしていたのである。

 これはもう人生ジエンドだな――と思ったそのとき……。

 がぁん!! と鼓膜を突き破るようなごうおんが響き渡った。

「ふえっ!?

 音のした方を振り向くと、おびえた表情のナポ子がいた。

 手にしているのは、金の装飾が施された偉そうなピストル。銃口からしようえんが立ち上っていた。彼女が撃ったのだろう。

「ど、どっか行きなさいクマ公!! 今度はそのデカイずうたいに鉛玉ぶちこむわよ!!

 ピストルで狙いをつけられ、熊は怯えたようにその身をこわばらせた。野生の熊とはいえ、火器の怖さは認識しているのだろう。すぐに僕から身を離し、一目散に森の奥へと姿を消したのだった。

「た、助かった……?」

「な、何言ってんのよ!! 全然助かってないわよ!?

 ナポ子が腰を上げ、青ざめた顔でこちらに近づいてくる。僕の上半身からドバドバ流れる血を見て、表情を硬くしていた。

「ぴ、ピストルなんて持ってたの、キミ」

「忘れてたのよ。気が動転してて」

「そりゃ……なんともバカな話ですね……」

 痛みをこらえながら笑う僕を見て、ナポ子は「それはこっちの台詞よ!!」といきどおる。

「誰も助けてほしいなんて言ってないのに……おまえこそバカよ!? こんなひどい怪我までして!!

「た、助けるのは当たり前だろ。キミと僕は今、生死を共にするパートナーなんだから」

「パートナーって……?」ナポ子が眉をひそめる。

 しかし僕には、彼女にろくな答えを返すことは出来なかった。

 血を失いすぎてしまったせいかもしれない。頭の中がかすみがかって、なんだか急激に眠くなってしまったのだ。

 ああ、意識が暗いところに引っ張られる。

 もしかして、これが死ってやつなんですかね……?

 

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 死にひんした人間というのは、そうとうのような映像を見るのがお約束らしい。

 それはこれまでの人生の総決算的な内容だったり、どうしても果たしたかった願望だったり。そういうものが多いそうだ。

 僕の場合もそれは同じ。主演女優は当然フレドリカさんで、その内容は夢にまで見た「ちちり合い」シーンである。

『だ、だめだよミツキくん……!! 私たち姉弟なんだから』

「い、いいんです!! お姉ちゃんのおっぱいに憧れるのが弟の生きざまなんですっ!!

 フレドリカさんの豊満すぎるおっぱいを正面から揉みしだいたり、先端部をくりくりとこね回してみたり。かと思えば思うさま吸いついてみたり……。とにかく、死ぬ前にやっておかなければならないと思っていたことを、徹底的に行ってみたのである。

 我ながらあさましい深層心理だとは思うのだが、日々悶々と生きていた男の心理なんて、だいたいこんなもんだろう。臨死状態だろうとそれは変わらないはずだ。

 たとえ夢の中だろうと、あの巨乳を味わうまでは絶対に成仏できない。何がなんでもこのおっぱいを味わい尽くしてやるんだ――と、僕の意識はそれだけに向いていた。

「ん……じゅる……ちゅううう……」

 ああっ、す、すごい……!!

 欲望の赴くままにむしゃぶりついた彼女のバストは、なぜかとんでもなくリアルな感触だった。ふたつのやわにくは手のひらに吸いつくような感触で、舌の上で転がる突起はコリコリと硬い。ほんのり温かな体温や、うわった息づかいまで聞こえてくる。

 僕の卓越したイマジネーションは、夢にすら現実そのものといった臨場感を与えてしまうらしい。

 なんたって、フレドリカさんのきようせいすら脳内再生してしまえるくらいなのだし。

「あ……んっ……こ、こら!! く、くわえるなあっ」

 あれ? 違和感を覚える。

 フレドリカさんって、こんな舌足らずな声してたっけ?

 それに肝心のおっぱいも、なんとなくボリュームが足りてない気がする。

 不思議だった。リアリティは高いくせに、再現度は妙に低い。

 僕の中で、内なる声がささやく。

 おいミツキ、おまえのイマジネーションはこんなレベルなのか。おまえは日々、局のオフィスでフレドリカさんのナイスバディを眺め回していたんじゃないのか。その成果を発揮するなら、今をおいて他にないんじゃないのか――?

 そうだ。僕ともあろうものが、この程度の再現度で満足するわけにはいかない。

 僕は熱情に突き動かされるようにして、目の前の果実を必死に舌で攻めるのだった。

 ちゅるちゅる、ぺろん、と。

「ひゃっ……な、なに舐めまわして……はふう……!?

「だめだ……!! 足りない!! こんなちっぱいじゃ、成仏出来ないっ!!

「だ、誰がちっぱいよっ!!

 と、そのとき、額に「べしん」と強い衝撃を覚える。

「あでっ!?

 え? なに? 殴られた? 走馬燈に殴られた?

 驚きのあまり、僕は目を見開く。

 眼前に存在していたのは、ピンク色の小さなサクランボがふたつと、ほのかに丸みを帯びた白い双丘――。そして顔面を真っ赤に紅潮させた、ナポ子の怒りの形相だった。

「お、おおお、おまえという男はっ……!! ひとのおっぱいをいきなりちゅーちゅーし始めたと思ったら、言うに事欠いて〝ちっぱい〟!? どこまで失礼なら気が済むのよ!?

「……へ?」

 なにがなんだか、状況がまったくわからない。

 気づけば彼女は、いつまとわぬ素っ裸。僕も同じく素っ裸だった。

 ナポ子が僕に覆いかぶさるようにして、肌を重ね合わせていたのである。まるでラブシーンのごとくに。

 

*この続きは製品版でお楽しみください。

 

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