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01/08

 赤紫色の花は、斜照の中で静かに萎(しお)れていた。
 彼女は鉢に盛られた土の上に膝を抱えたまま、澄んだ瞳で虚空を見つめている。
 僕はそっと彼女の傍らに屈み込み、大理石のように滑らかな裸の肌をさする。掌にほんのり伝わる体温は、既に目覚める準備ができているから起こしてほしいと、彼女が訴えている表れのように思えた。
 もう少ししたら完全に日は没し、この部屋はどっぷりと夜の闇に沈んでしまう。
 闇が夕暮れを追い出す前に、僕は行動しなければいけない。さもないと、夜の眷属(けんぞく)がまたぞろ彼女を連れ去ってしまうから。
 僕はダガーナイフを手に取り、刃先を彼女の足の裏へ慎重に差し入れて、根を切る。
 根は見た目に反して、細く紡いだ絹糸のように柔らかで、刃先に何の感触も伝えない。
 軛(くびき)から解き放たれた彼女はまだ、虚ろに視線を彷徨わせている。
 五分、十分、二十分。
 僕はサーカスの開演に胸を躍らせる幼子のように、彼女が喋り出すのを固唾を呑んでじっと待ち続けた。
 しかし、彼女は精巧な彫像のように緘黙(かんもく)を保っている。彼女を繋ぎ止める根は既に無いというのに、彼女は立ち上がる素振りすら見せず、感情を伴わない眼差しをまっすぐ前に向けたままだ。
 僕は歯噛みする。
(どうしてだ)
 また駄目だった。何度やっても駄目だ。
(どうしてなんだ)
 どこで間違っていたのか、何が足りなかったのか。その端緒すら掴めない。
 僕が持てる時間も、労力も、全て彼女に注ぎ込んだというのに。
「どうしてなんだよっ!」
 湧き上がった苛立ちが絶叫となって口から迸ったが、彼女は驚く素振りすら見せない。
 雲に乗っているような足元の頼り無さを覚えながらも立ち上がり、彼女を見下ろす。
 喉はからからに渇き、眼の奥がじんじんと痛む。
 手の感覚はどこかへ消え去ってしまっている。
 この家中に満ち溢れているはずの臭いも、今は感じない。
 人はここを地獄と呼ぶだろう。
 人は僕を鬼と呼ぶことだろう。
 いや、僕は鬼ではない。
 賽の河原で石を積む幼子なのだ。僕が苦心して積み上げた石を、鬼は無慈悲に崩してしまう。一再ならず、繰り返しで。
 憐れで滑稽で救いのない愁嘆場(しゅうたんば)を、僕は演じ続けている。
 それでも僕はまた石を積まなければいけない。いずれこの鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)とした荒野から、彼女が僕を連れだしてくれると信じながら、愚直に積み続けなければならないのだ。
 唯一つ、それが僕に出来ることだから。
 僕は真っ直ぐに伸びた彼女の首筋にそっとナイフの刃を当て、一息に引いた。
 薄闇が忍びこんだ部屋に、真新しい血の筋が舞った。

 卒業式を想起させる花といえば真っ先に桜が挙がるだろうが、僕が住む街の桜はどうにも野暮ったく、薄桃色の花弁は蕾(つぼみ)の中に仕舞われたままだ。だから僕の中では、卒業式といえば桜ではなく、ちょうど見頃を迎えた梅の花のイメージが強い。
 それでも卒業する生徒は何の花が咲いていようが一向にお構いなしで、校舎の前庭に屯(たむろ)して通い慣れた校舎と気心知れた仲間たちとの別れを惜しんでいる。
「卒業かあ。あっという間だったな、三年間」
 同じクラスの伊勢崎(いせざき)アキラが、春の日差しを受けて白く輝く校舎を感慨深げに見上げていた。彼は年明け前に早々と私立大学への進学を決めており、その横顔は綽々と高校生活の最後の余韻を楽しんでいる風にも見える。前期日程試験にことごとく落ち、後期試験の結果を戦々恐々と待つ僕とは雲泥の差だ。
「ほんと、拍子抜けするくらい何もなく、あっという間だったなあ」
 僕の呟きは喧騒に掻き消され、誰の耳にも届いていないようだった。
 数名の女子生徒が、教室内で回された寄せ書きを担任に手渡しているのが目に止まった。その色紙には僕の、豆崎空也(まめさきくうや)の名前は無い。どんな言葉を寄せていいか見当も付かず、ただ「お世話になりました。お元気で」とだけ書き殴られた面白みの欠片もない言葉に、自分の名前を添えるのはどうにも決まりが悪かったからだ。
「みんな集まってー。写真撮るよー」
 カメラ代わりのスマートフォンを片手に声を張っているのは、こちらも同じクラスの入瀬(いるせ)ミサキだ。彼女の芸能人はだしの容姿と天真爛漫な性格に、ハートを射抜かれた男子生徒の数は十指に余るどころではない。だがそのことごとくが、伊勢崎が彼氏の座に三年間居座るという現実の前にあえなく轟沈したのである。
「伊勢崎と入瀬は真ん中に座って。ああ、全体的にもうちょい寄って」
 撮影役を買って出た男子生徒の誘導で、数十人の人垣がぎゅっと凝縮する。押し合いへし合いに紛れて、僕はちゃっかり伊勢崎とミサキの真後ろを確保した。
 思い返せば、伊勢崎とミサキとは三年間同じクラスだった。つまり、彼らの仲睦まじい様子を、毎日見せつけられたということになる。ミサキも地元の大学に合格したと聞く。彼ら二人の関係がこの先も続くことは、誰の目にも明らかだ。
「いいかー、撮るぞー」
 シャッターが押される刹那、ふわりと渡った春風が、ミサキの髪の匂いを僕の鼻孔へ届けてくれた。
 そのせいか、写真に収まった僕の顔には、半分引き締り半分緩んだみっともない表情が張り付いていた。
 十八歳の春、青春の一コマ。
 式の数日後、僕は大学への切符を掴み損ね、浪人となることが確定した。

 父と母は、僕が小学六年の秋に離婚した。原因は聞かされていない。
 家を出たのは、僕と母のほうだった。以来、母が鬼籍に入るまでの二年間を母子二人だけで過ごした。父とはもう六年以上顔を合わせていない。
 母亡き後、一緒に暮らすことを提案したのは、父の弟に当たる叔父の春人さんだった。
 そして現在、僕は春人さんと一つ屋根の下で寝起きしている。母が不帰となった事を知ってか知らずか、父からは毎月欠かさず、五万円の養育費が僕名義の口座に振り込まれている。その金は、家賃代わりに春人さんへ全額そっくり渡している。
 春人さんは予備校通いを勧めたが、僕はそれを固辞して自宅浪人の道を選んだ。夏や冬の集中講座や模擬試験も合算すれば、かなりの金額が飛んでいってしまうからだ。
「ガキが余計な気を回してんじゃねえよ。金なら俺が何とかすっから、予備校行け」
 有り難い言葉ではあったが、好意に甘え年間数十万円もの大金を出してもらうのは、やはり気が引ける。すったもんだの話し合いの末、折れたのは春人さんだった。
 かくして、僕の自宅浪人生活が始まった。
 僕は勉強の場を、市立の図書館に求めた。家に篭ったきりでは気が滅入ってしまう。外界に触れるのは勉強の能率向上よりも、心の換気が目的だ。
 図書館は電車で三駅分離れた、市街の中心部にある。雑踏を縫うように歩いていると、早足でせわしく通り過ぎて行くビジネスマンや、賑々しく談笑しながら闊歩する若者たちの生気に満ち溢れた顔を、否が応でも目にすることになる。群衆に取り紛れることを何でもない風に装うまでに、ひどく苦労した。
 朝九時に家を出て、開館から日没まで図書館で勉強に打ち込み、どぎつい誘惑と欲望がむき出しになった夜の街を抜けて電車に乗り込み家へ帰る。
 僕の日常はひたすらその繰り返しだ。
 起伏に乏しい扁平な生活を送っていた僕が、ミサキと再会したのは全くの偶然だった。
 九州で梅雨入りが宣言された日の夜、たまには違う道から駅へ向かおうと思い付き、僕は人通りの少ない道を選んで歩いていた。
 ビルの谷間に飲み込まれそうな小さな公園に差し掛かると、入口付近の街灯の下で、花売りの露店が開かれているのが目に止まった。簡素な作りのフラワースタンドには鉢植えが、円筒形のカートには切り花が陳列され、無機質な街角に華やかな彩りを添えている。
 ――夜に、花の露店売り?
 妙な取り合わせに興味をそそられて凝らした目が、しゃがんで花を品定めしている露店の客に釘付けとなった。
 ミサキだった。
 彼女の私服姿を目にするのは初めてだったが、三年間同じ教室で彼女の姿を見ていたのだ、見紛うはずがない。卒業からたったの二ヶ月しか経っていなかったが、ミサキは大人びた装いが似合う美しい女性に変貌していた。
 ミサキに応対しているのは、黒いサマーニット姿の少女だった。親に店番を任されているのだろうか。線が細いその姿は、せいぜい中学生くらいにしか見えなかった。
 少女が、つい、と僕へ顔を向けた。
 僕の目を引いたのは、色鮮やかに咲き誇る花に囲まれても埋没しない、少女の神秘的な美しさだった。誰にも踏み荒らされていない新雪のような白い肌、黒目がちの物憂げで大きな瞳。すっと通った鼻筋は、瑞々しい蕾にも似た唇に続いている。ミサキとはタイプこそ異なるが、掛け値なしの美少女だ。ミサキが陽光の下で艶やかに咲き誇るダリアなら、少女は月光を浴びてひっそり花冠を開き、暁光を待たずに儚く散る月下美人だ。
 しかし同時に、あまりに完璧な少女の容貌に、名状しがたい薄ら寒さをも感じていた。写実派の画家が心血を注いで描き上げた幻想画から抜け出してきたような、非現実的な美だ。それほどまでに、彼女の面貌(めんぼう)は整いすぎていた。
「何かご用かしら?」
 小さな真鍮(しんちゅう)の鈴を鳴らしたように細く、しかし耳にいつまでも余韻を残す声だった。
 彼女の言葉が僕に掛けられたと気付くまでに、少々時間が掛かった。不審がられて当然だろう。ミサキに何と声を掛けてよいものかと、とつおいつしながら阿呆のごとく佇立していたのだから。
「あれ、豆崎くんじゃない」
 ミサキが顔を上げた。元からくっきりした彼女の目鼻立ちを、薄いメイクが際立たせている。
「ああ、いや、通りかかったから、見慣れた姿があったから」
 どぎまぎしながらも、精一杯の笑顔を作った。
「豆崎くんは何かの用事の帰り?」
「うん、ちょっと図書館に行って勉強してて」
 ミサキに対して体裁を取り繕うのがあまり意味のない行為だとは知りながらも、浪人の身であることを曖昧にぼかした。
 矯飾(きょうしょく)した僕の言葉をミサキは探る素振りすら見せずに、ふうん、とだけ答え、鉢植えが入ったビニール袋を掴んで立ち上がった。
「ゆっくり話がしたいけど、あたし用事があるから。また今度ね」
 小さく手を振って立ち去ったミサキの背中を視線で追いながら、さてこれからどうしたものかと思案した。花を買うつもりは最初から無い。たまたま見知った顔があったから立ち寄っただけだ。
「貴方、彼女とは知り合い?」
 適当な理由をつけて立ち去ろう、と思い立った矢先に少女が問い掛けてきたので、無視するわけにもいかなくなった。
「高校の時の、同じクラスの子なんだ。彼女はここによく来るの?」
「ええ、去年からよく来てくれる常連さん。うちの店って、花を買う気もない無いくせに私に声を掛けてくるだけの人が多いから、彼女のようなお客さんは貴重なのよ」
 むべなるかな、少女の器量を考えれば冷やかしが多いのも納得だ。花は花でも、物言う花に惹かれるのは男の性なのだから。
 などと考えながら値札を見て、仰天した。どれもべらぼうに高い。
「買う気が無いんじゃなくて、買う気が無くなった、の間違いじゃないかな?」
「こんな暴利な値段でも、買ってくれる人はいるのよ。一杯機嫌で財布の紐が緩くなった酔客とか、結婚記念日を忘れていて家の敷居が高くなった午前帰りのサラリーマンとかがね。相場よりも高い値段でも、納得づくならお金を払ってくれるわ」
 年頃の少女特有のあどけなさとはかけ離れた、老成した考え方と口振りが、初見で彼女に抱いたミステリアスな印象をより際立たせている。純情可憐な外見にそぐわず世間ずれしているのは、こんな場所でこんな時間帯に有象無象の客を相手にしているからだろうか。
 元より花を買う気は無いのに、これ以上居座っていたら仕事の邪魔になると思い、適当に言葉を濁してその場を辞した。
「引き取ってほしい花があったら教えてちょうだい。悪いようにはしないわ」
 ――花屋が客から、花を買い取る?
 去り際に少女が発した謎めいた言葉を耳たぶにぶら下げ、僕は駅へと向かった。
 帰り際の電車の中でふと、高校の頃に小耳に挟んだ噂話を思い出す。
 街角の花売りの少女の噂。
 人形のように美しい少女が夜の街角に現れ、通りすがりの人々へ花を売る。
 彼女の店は、夜に開かれるということ以外、どれくらいの間隔で、どこに出現するか誰も分からない。
 滅多なことではお目にかかれない神出鬼没ぶりゆえに、彼女の姿を見た者には幸運が訪れる。
 いかにも思春期の少年少女が好みそうな、他愛もないジンクスだが、実際に彼女と遭遇したという声は、高校を卒業するまでただの一度も聞かなかった。
「幸せを運ぶ花売りの少女、ねえ」
 あの少女が、その噂の花売りなのだろうか。
 もしかすると、そうなのかもしれないな、と思う。
 脳裏に浮かんだ少女の顔に、ミサキの顔が重なる。
 つい先刻目にした大人のミサキではなく、まだあどけない少女の名残を残した高校時代のミサキの顔を。


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