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02/08

 夕暮れに染まる校舎の影。
 破裂しそうな心臓。
 思いの丈をぶつける僕。
 告白を受けて、戸惑い混じりの曖昧な笑顔を返す彼女。
「気持ちは嬉しいけど、そういう目で豆崎くんを見たことがないから」
 彼女の返答を聞いて、僕は自分の恋が破れたことを悟った。
 高校一年の秋、黄昏色の甘酸っぱい思い出。
 伊勢崎とミサキが付き合っていることを知ったのは、それから少し先の話だ。

 電車で十五分、三駅ぶん移動しただけで、街並みは随分と寂しくなる。
 新市街地が開発されるまで、この辺りが中心街だったことは知っているが、往時の痕跡はほとんど見当たらない。つい先刻までいた中心街の喧騒が、遠い世界のようだ。
 自宅に近づくにつれ、ナイロンのトートバッグを提げた白粉(おしろい)臭い女性の姿がちらほら目立つ。これから出勤なのだろう。彼女たちの歩に合わせて、スキニーのジーンズに包まれた尻の肉が、煽情的なダンスを踊る。
 酒屋の前に置かれた長床几(ながしょうぎ)では、赤ら顔の老人が仰向けになって高鼾(たかいびき)をかいている。地面に転がるワンカップの空き瓶の数が、老人の酒量の多さを物語っていた。昼間から酒を食らう楽隠居の姿は、この街では珍しくはない。
 僕の家は、花柳街、すなわち春を売る女性が闊歩する淫靡(いんび)な雰囲気が漂う地区にある。
 かつては全国でも五指に入る規模の三業地として栄え、好色家たちの聖地と謳われた場所であるが、今は乙女の恥じらいなどとうに捨てたはすっぱな女と、酒息を吐き出す下卑た底抜け親爺ばかりが目立つ、時代の流れに取り残されたくたびれた街でしかない。
 軒を連ねた色茶屋の窓には、煌々と灯りが並ぶ。
 半分だけ引き戸を開けられた戸口越しに、三和土(みたき)に行儀よく正座する着飾った「花」の姿が目に入る。
「昨日入ったばかりの子。大人しそうに見えるけど、脱いだらすごいよ。一万八千円」
 足を止めて店を覗きこんだ見込み客に、花の隣に控えていた初老の女性が売り込みを掛けている。花は自分から声を掛けない。彼女たちの艶やかな姿態に魅入られた男が、財布の紐を緩めながら暖簾(のれん)をくぐるのを、手ぐすね引いて待っているのだ。
 街には、色を求める男たちが連夜、誘蛾灯に群がる夏虫のごとく繰り込んでくる。
 踏ん切りがつかないのか同じ路地を何度も行きつ戻りつする者、顔見知りのやり手ババアと親しげに挨拶を交わす者、手符牒を交えて値切り交渉を行う者、正体もなくなるほど泥酔して入店を断られる者。街のあちこちで、多彩な人間模様が繰り広げられ、毎夜飽くことなく淫靡な花が咲き乱れている。
 通い慣れた道ではあるが、場違いな場所に足を踏み入れたような居心地の悪さがいつもつきまとう。二十歳前の若者の社会勉強にしては、いささか刺激が強すぎる環境だ。
 目抜き通りを抜けた先、アーケード街の少し手前に、何十年も昔に店を畳んだ古い置屋がひっそりと建っている。改築することなく、昔を偲ばせる俗趣をそっくり残したこの建造物こそが僕の家、正確には春人さんの持ち家だ。
「ただいま」
 玄関で靴を脱いでいると、年齢を感じさせない若々しく精悍な顔が、曲がり階段から足音と共に現れて僕を出迎えた。
「おう、おかえり。遅かったな」
「ちょっと寄り道。春人さんは早い帰宅だね」
「くそ、あの親爺。俺が出発する前に連絡しろってんだ。こちとら、旅費が会社から支給される身分じゃねえんだぞ」
 春人さんはフリーライターという仕事柄、取材で家を空ける時が多い。つい四日前にも「三週間ほど留守にする」と言い残して北陸へ赴いたばかりなのだが、どうやら情報提供者にドタキャンされたようだ。
「飯はこれから作るから、ちょっと部屋で待ってろ」
 我が家では、食事の支度は春人さんの役割だ。居候が心苦しく、一度僕が料理番を申し出てみたが、試作品を一口食べた春人さんの表情が苦々しげに歪んだので、それ以来僕がキッチンに立つことはなかった。
 春人さんの料理が食べられることに、僕は安堵を覚えた。何しろ、春人さんから依頼されて食事を作りに来たユリナと名乗る女性は、料理どころか包丁捌きすら覚束なかったのだから。米を中性洗剤で洗う人物を、僕は初めて目にした。
 階段を上がり、僕は自室へと向かった。
 二階は、廊下に面した四つの部屋がひと並びになっている構造だ。そのうち手前の二部屋は春人さんが壁をぶち抜いて、書斎兼仕事場として利用している。その隣が春人さんの寝室で、二階の一番奥にあるのが僕にあてがわれた部屋だ。
 かつては娼婦たちが客と仮初めの睦み合いをしていた場所だけに、様々な想念が染み付いているような不気味さは漂うものの、それさえ頭から追い出してしまえば、ただの古臭い木造家屋でしかない。
 鞄を床に置き、ベッドへと倒れこむ。
 ミサキと会って緊張していたのだろうか、やけに疲れを感じる。
 どろりとした睡魔にすっぽり包まれ、僕は他愛もなく眠りの世界に引きこまれた。

 僕は夢を見ていた。
 中学生を卒業する頃まで、繰り返し見ていた夢だ。
 僕は暗い道を、母に手を引かれて歩いている。
 母は首の曲げ方を忘れたように真っ直ぐ前を見つめ、僕へ顔を向けようとしない。
 母の顔を見たくて、周囲を衛星のようにぐるぐると回るが、どういう仕儀か、母の顔はどの角度からも拝むことができない。
 どこへ行くの?
 不安に取り憑かれて発した僕の問い掛けに、母は答えない。
 何かに急き立てられるような忙(せわ)しない足取りで、ひたすらに闇の中を歩き続ける。
 その歩調が早くなり、僕はどうにかついていくのが精一杯だった。
 はぐれないようにしなければ。
 この暗闇の中に、置き去られないようにしなくては。
 ただその一心で、母の背中を追いかける。
 出し抜けに道の前方から、一条の光が差し込んだ。
 母はもう全力疾走に近い速さで、一散に駆けている。
 待って、母さん。行かないで。
 僕は光の奔流に向かって、必死に手を伸ばした。

「おーい、飯できたぞー」
 階下から春人さんが呼ばわる声で、現実に引き戻された。夢から地続きのように、腕を天井に向かって伸ばした体勢になっていた。
 部屋に入ってから、十分と経っていなかった。
 キッチンへ向かうと、既に夕餉(ゆうげ)の支度が整っていた。テーブルの中央を、この日の夕飯の主役である回鍋肉(ホイコーロー)がてんこ盛りになった大皿が占めている。にんにく油を使って強火で炒めたキャベツと肉に辛味噌ダレを絡めた、春人さんの得意料理の一つだ。
 豆崎家の夕飯には、ほとんど例外なく肉が使われている。家の冷蔵庫には塊肉が売るほど蓄えられている。本職の肉屋でもあるまいし、一般家庭でこれだけの肉が貯蔵されているのは、我が家くらいなものだろう。
「肉を食いたいっつう欲求は、太古から引き継がれてきた人間の本能なんだ」
 春人さんはそう語る。
「昔の人間は肉をがんがん食って、現代人よりも骨太で頑強な肉体を手に入れていたんだ。肉食から穀食中心に食生活をシフトチェンジしたのは、単にコスト効率の問題だ。人体の都合とは関係ねえんだよ。それなら、肉体的にも精神的にも、肉を食いたいと思ったら食っちまうのが健全ってもんだ」
 穿ち過ぎかもしれないが、春人さんは僕を慮(おもんぱか)って肉食中心の献立を組み立ててくれているように思える。僕の体は同年代の男子に比べると格段に小柄で、男性的な逞しさは欠片もない。童顔であることも手伝って、繁華街を歩いている時に職務質問を受けることもしばしばだ。
 回鍋肉を平らげて、僕は自室へ戻った。
 机の上に参考書を広げたものの、ミサキの化粧顔が自然と脳裏に湧き上がり、その晩に限っては勉強があまり手に付かなかった。

 ミサキが行方不明になった。
 コミュニケーションアプリに飛び込んできた衝撃的な一報に接したのは、彼女と再会してから一週間が経った日の昼下がりだった。
 発言主は伊勢崎だった。
 元同級生たちの発言で埋め尽くされたログを辿ると、ミサキとは三日前から連絡がつかないらしい。
 ミサキの両親は揃って海外へ赴任しており、年に一度しか帰国しない。親が手配した家政婦を断ったとも聞く。実質的に彼女は一人暮らしの身だ。「滅多に連絡もしてこないから、かえって気が楽」とミサキは笑いながら言っていたが、そのネグレクト一歩手前の自由放任が完全に仇となる形だった。警察に捜索を依頼しようにも、申請者が恋人では捜索願は受理されない。
 伊勢崎は大学の講義もそっちのけで、ミサキの捜索に時間を費やしているらしい。単位のことなど、ミサキのことで一杯になった彼の頭の中からは、ところてんのように押し出されてしまっているのだろう。
「どんな些細な情報でも構わない。知っていたら教えてくれ」
 伊勢崎が発した悲痛で切羽詰まったメッセージには、多くの同情が寄せられていた。中には、探偵気取りで推論を展開するやつもいたが、不謹慎だとか自重しろだとか、皆が一斉に非を鳴らしていた。だが、つい数カ月前まで机を並べていた元クラスメートの失踪というセンセーショナルな事件に触れたのである。不謹慎なのは確かだが、推理をぶちあげたくなるものまた詮無いことだ。
 一連のやり取りを眺めるうち、ある思いが僕の心にふつふつと芽生えてきた。
 ミサキを探し出したい。
 仮にミサキが何かしらの事件に巻き込まれて拐(かどわ)かされているとした場合、僕が彼女を無事に救出したら、もしかすると彼女は伊勢崎ではなく僕に鞍替(くらが)えするのではないか。
 何ら根拠も担保もない、人が聞いたら一笑に付されそうな淡い妄想だが、失恋を経てなお僕の中から消えずに燻り続けているミサキへの恋慕は、消しようがなかった。
 翌日から、自宅と図書館を往復するだけだった平坦な僕の生活に、ミサキを探すという丘陵が加わった。受験勉強を早めに切り上げ、情報を求めて街を巡る。それは英雄症候群にも似た自己満足のための行動だった。
 むろん、伊勢崎への憐憫を抱かないでもない。だが一方で、彼のことを心底可哀想だとは思っていない。自分にもまだほんの少しながらチャンスが残っている、とは思ったが。
 そんな暗い意気込みとは裏腹に、ミサキの消息を掴むことは叶わなかった。無理からぬ話だ。金も人脈も無い浪人生が探れる範囲など、高が知れている。そもそも、ミサキがどこに行きそうなのかも皆目見当が付かない。
 伊勢崎の進捗状況も毎日まめにチェックを入れているが、彼も手がかりを掴みかねている様子で、文面から彼の焦燥が手に取るように伝わってくる。海外にいるミサキの両親とも、まだ連絡が取れないでいるらしい。
 ミサキの行方は杳(よう)として知れないまま、一週間が経った。
 伊勢崎の懸命の捜索はなおも続いている。僕もまた伊勢崎と同様に諦め悪く、ミサキの姿を探して街をあてどなく彷徨い、失望と疲労を胸にどっしり抱きながら家路をたどる日々を無為に繰り返していた。
「あれえ? 空也だ空也だ」
 いつものように捜索が空振りに終わり、古ぼけた街灯が喘ぐように弱々しい光を落とす路地をとぼとぼと歩いていると、オフショルダーのボーダーカットソーをだらしなく着た妙齢の女性に声を掛けられた。実際のところ、彼女はロリポップキャンディを頬張っていたので「ふうやだ、ふうやだ」と聞こえた。
「高校生がこんな時間に何してんの? あれ、空也って高校生? 中学生だっけ?」
「何度も言ってるけど、もう高校は卒業したんだってば。サリさんこそ何してるの?」
「セーリが近いからお休みもらったんだけど、それ忘れてて出勤しちゃった」
 サリは締りのない顔で、幼女のようにへらへらと笑う。
 彼女は春を売る女だ。ルックスは悪くはないが、頭の出来があまりよろしくなく、言われたことを数歩歩くと忘れてしまう鶏並みの記憶力しか持たない。ただし、人の名前と顔に関しては例外であり、殊(こと)に肌を合わせた相手を憶えることにかけては右に出るものはなく、その人の発した何気ない一言まで一字一句違わずそらんじてみせるほどだ。
「そうだ、サリさん、この顔に見覚えない? 僕の元同級生なんだけど」
 僕はスマートフォンでミサキを撮影した画像を呼び出し、サリに見せた。
 サリは首を傾げながら画面を凝視していたが、「分かんない。見たことなーい」と、ばっさり切り捨てた。彼女の記憶に無いということは、ミサキがこの近辺にいない事が確実である事を意味する。
「ごめんね空也、何だか知らないけど力になれなかったみたいで。飴食べる?」
 唾液でべっとり濡れたキャンディを差し出されたが、やんわり押し戻した。
「気持ちだけ貰っておくよ、ありがとう。気落ちしてないから大丈夫」
「そっか。何があったか知らないけど、元気出しな。あたしが慰めてあげようか?」
 彼女の職業柄、「慰める」という単語の響きがやけに生々しい。
 僕はのらりくらりと返事をしてその場を離れた。視線を感じて振り向くと、サリは大きく手を振りながら見送っていた。恐らく彼女の頭の中にはもう、僕がミサキの写真を見せたことなど、欠片も残っていないだろう。
 サリが僕に対して心を許しているのは明白だ。友人としての親愛ではなく、一人の男に寄せる情愛であることも、薄々とは感じている。だが僕は、サリの想いにわざと気付かないふりを装っている。ミサキに操(みさお)を立てるわけでもないが、彼女以外の女性と深く心を通わす気にはなれない。
 自分に想いを寄せる女性と、自分をかつて振った女性。
 どちらの温もりを求めるのが、僕にとっての正解なのだろう。
 重く肩にのしかかる疲労感が、なお一層の重さを増した。
 家に帰ると、春人さんがちょうど夕飯の支度をしているところだった。
「ここのところ、遅えな」
「閉館ギリギリまで勉強することにしたんだ。普通にやってたんじゃ、追っ付かないと思ってさ」
 どこか探るような春人さんの言葉に、極力平静を装って誤魔化す。
 春人さんには、ミサキを探していることは伏せている。浪人生の分際で探偵ごっこにかまけている暇があるのかお前には、などと小言を食うのが目に見えているからだ。
 その日の夕飯は肉野菜炒めだった。塩コショウだけのシンプルな味付けながらも、ご飯が進む一品だ。
「勉強に精を出すのはいいが、あんま遅くなるなよ。皮ハギババアに皮膚をひん剥かれても知らねえぞ」 
「皮ハギババアって何?」
「ここいらの子ども達の間で流行ってる都市伝説だ。夜になると包丁を持った皮ハギババアが現れて、子どもをとっ捕まえて皮を剥ぐんだと」
 実話系雑誌やゴシップ誌の仕事が多いためか、春人さんは人の噂や社会の裏事情に明るい。若い時分には、幾度となく危険な局面に遭遇したこともあるという。
 それにしても、生皮を剥ぐ老婆とは。
 物騒ではあるが、やけに草深く時代がかったディテールだ。
「どこからそんな発想が湧くんだろうね。鬼婆みたいに人の皮を剥ぐなんて、今時の子ども達が思いつくようなことなのかな」
「噂や都市伝説には、たいていは何かしらの下敷きが存在するからな。有名な口裂け女にしても、元ネタらしき話はちゃんとあるんだぜ。皮ハギババアの話は、三年前に隣の市で起きた猟奇殺人事件がベースなんじゃねえかな」
「三年前の事件、て?」
「山の中で子どもの死体が見つかった事件。テレビでも取り上げられたし、ここらでも騒ぎになっただろ。社会現象に発展するとは考えにくいが、門限を守らせる方便としては役立ってるみてえだな」
 そういえばそんな事件もあったな、と思い返す。
 児童養護施設に入所していた当時五歳の男の子が、保育士が目を離したほんの数分の間に行方知れずになり、数日後に左腕が切り取られ背中の皮が剥がされた無残な遺体となって発見された事件だ。その猟奇性から世間の耳目を大いに集めたが、犯人逮捕が報じられぬまま三年が経ち、大衆の記憶から事件は風化しつつある。
「都市伝説ってのは、現実を題材にした二次創作なんだよ。実在の事件やニュースの真相をこね回して飾り付けて、筋書きをでっち上げてやれば現代版おとぎ話の一丁上がり、てわけだ。一から十まで法螺ってわけじゃねえから、真実味があって質が悪い。特に思い込みが激しくて、自意識が高い奴ほどころっと騙されちまう。お前みたいな奴がな」
「ふぁっ?」
 口からキャベツを噴き出しそうになる。
「僕、そんなに思い込みが激しいかな」
「これと決めたら頑として信じこんで、他人からどんなに言われようが曲げようとしねえだろ、お前。良くも悪くも猪突猛進つうこった。他人の意見に流されねえっていえば聞こえはいいが、間違った方向に突っ走っても間違えてるって認めようとしねえから、崖から落っこちるまで走り続けちまう。危ういんだよ、見てて」
 いつの間にやら、説教じみた方向に話が流れてしまっている。こうなると春人さんは止まらなくなる。春人さんの言葉を遮るようにして、話頭を転じた。
「ところでさ、都市伝説のバリエーションってどんなものがあるの?」
「ん? どんなのって言われても、都市伝説のバリエーションは、興味と想像力の掛け算だからなあ」
 どうにか話題を逸らすことができたようだ。
「モチーフが変わるだけで、話のパターンはだいたい似通ってるからな。興味をそそるならモチーフは何だっていいんだ。夜のタクシーだろうと、迷宮入りの殺人事件だろうと、世界中で食されるファストフードだろうと、誰もが知ってる有名アニメだろうと、立入禁止の炭鉱跡だろうと、冬の街角でマッチを売る少女だろうと」
 マッチを売る少女!
 春人さんの言葉を受け、雷霆(らいてい)のごとく頭の中で閃くものがあった。
 あった。ミサキに通じていそうな手掛かりが。
 街角に立つ、物売りの少女。
 もっとも、彼女が売っていたのはマッチではなく花だったが。
 むしろ、なぜ今まであの少女の存在を忘れていたのかが不思議なくらいだ。
 二人は互いに顔見知りだ。もしかするとミサキの消息について、何かしらの心当たりがあるかもしれない。
 僕は食事を手早く済ませ、「友達に参考書を借りてくる」と言い残して家を飛び出した。 出際に春人さんが「そんなもん、明日でいいだろうに」とぼやく声が追いかけてきたが、聞こえないふりをした。 

 繁華街に到着した頃には、時計の針は九時半を指していた。
 巡回の警官に見つかりませんように、と祈りながら、僕は夜の街を駆けずり回った。
 神出鬼没の花屋を見付けるのは、砂浜に落とした芥子粒を探し出すのと同じくらい難事に思えたが、僕にできる事は他に思い付かなかった。
 記憶の中にある店の規模から、目抜き通りの歩道にはまず出店しないと踏んで、広場や公園などの十分なスペースを確保できる場所を中心に捜索した。
 空は時折ごろごろと唸り、黒黒とした雨雲が星や月をすっぽり隠していた。天気予報が、夜半すぎから雨になると告げていたのを思い出す。歩き通しで足の裏がじんじんと痛む。少女が街にいるのかすら定かではないが、それでも早く見つけなければと気ばかり急いた。
 路地裏にひっそりと隠れるようにして開かれた花売りの露店を発見したのは、あと二十分で日付が変わろうとしている時分だった。客の姿は無く、暇を持て余していたのか、少女は街灯の明かりを頼りにして文庫本を読んでいた。
 ようやく辿り着いたオアシスに歓喜する旅人のごとく、僕は彼女に駆け寄った。
「あら貴方、この間の。どうしたの、血相を変えて」
「君を探していたんだ」
 本から顔を上げてきょとんとする少女に、息を整える間も惜しんで畳み掛けるように話し込んだ。
「この間一緒にいた女の子、入瀬ミサキが行方不明になった。消息が分からなくなって、もう二週間近くが経っている。書き置きすら残していないし、連絡も付かない。毎日、僕も彼女の彼氏も懸命に捜しているけど、何の手掛かりも掴めていない状況なんだ」
「それで、どうして私に?」
「君はミサキと面識がある。もしかして君なら、と思ってずっと探し続けた。君が最後の頼みの綱なんだ。ミサキの行き先に心当たりがあったら、教えてくれないか?」
「随分と友達思いね。だけど、人探しは警察に任せればいいじゃない」
「彼女は両親と離れて暮らしている。友人じゃ捜索願は受理されない。かと言って、僕一人が動いたところで解決するとは思えない。だけど、ミサキが何か事件にでも巻き込まれたら、と考えると気が気じゃない。じっとしていられないんだ」
「随分と熱心なのね。それは本当に、友情なのかしら?」
 彼女のからかうような口吻(こうふん)が胸に突き刺さる。
 心の奥底に縫い止めたままのミサキへの想いを見透かされた気がして、返答に詰まった。
 少女はしばし面白い見世物を見るように僕の顔を眺めていたが、花がそっと咲くようにやおら立ち上がった。
「雨ね」
 少女の言葉に導かれたかのように、雨粒が頬に落ちた。
「今日は店仕舞いね。客足も無かったし、丁度いいわ」
 少女は路肩に停めてあったレトロ調のワンボックスカーに、花を積み込み始めた。
 雨が本降りになる前に、花の積み込み作業はつつがなく終わり、少女は軽やかな足取りで運転席へ滑り込んだ。そこに座るのが当たり前という風に。
「これから一緒に、私の店に来て。そこで詳しく話すわ」
 ほんの数十分まで乾いていたアスファルトは、雨に濡れて黒く光沢を湛えていた。


02/08

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