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 死の香りに誘われた虫が一匹、白い胸を這っている。一匹。また一匹。黒い羽虫は少し開いた唇のあたりを歩き回るが、少女は動こうとしない。冷えきった風呂場の空気。ざらついたタイルに置かれた、妙に存在感のある猫足の浴槽。顎まで湯船に浸かった少女の金色の髪が色を濃くして水面に揺れている。所々にひび割れの走るタイルの壁に巣を張った蜘蛛は無関心にその光景を見つめていた。色を失ったかのような午後三時の空気。錆びた鉄格子の窓から見えるのは、重い雲と崩れかかった灰色の建物だけだ。

「………」

 その少女を見下ろすものがいた。液体とも固体ともいえない質感の体。不定形のアメーバのような動き。全体の質量は少女とそう変わりはしないだろう。ミルクほどに真っ白な体は、窓からの薄い光をつややかに反射している。頭らしきものを球状に形作って、不定形のそれはバスタブに浸る少女をただ見ていた。目の代わりだろうか、ひと抱えほどのその頭にはカメラのレンズに似たガラスがひとつ、周りの風景を歪めて映し出している。

「………」

 少女は何も言わない。不定形の「それ」も何も言わない。黴の浮かぶ天井から大きな滴がひとつ、バスタブの中に落ちても、沈黙は変わらなかった。驚いて飛び去る虫たち。その虫を捉えようとじっと息をひそめている蜘蛛。動かない少女と外の空気をよそに、数匹の虫たちだけが駆け引きを演じていた。

「―――?」

 不定形のそれは、大きく首を傾げた。首というと少し違うかもしれないが、とにかく頭を支える支柱の部分を少し傾けて、不思議そうなしぐさを取ってみせた。しかし少女は何も言わない。薄い灰色の眼をぼんやりと空中に投げて、バスタブに身を横たえている。天井からの滴がその目元に垂れて、涙に似た軌道を描いて落ちた。

 やがて諦めたのか、不定形のそれは溶けながら形を崩してゆく。先ほどよりも更に硬度を失ってゆく体。水をひっくり返したような音がして、それは風呂場の床に散らばった。排水溝に向かって伸びる、不確かな軌道。突然切れた雲の合間から強烈な太陽が姿を覗かせて、風呂場に濃い陰影を作った。逆光に黒く浮かび上がる少女の姿を、振り返るように身を持ち上げて確かめる姿。少女は答えない。それの無言の呼びかけに答えようとはしない。冷えきった湯船の中で、少女は死んでいた。目を見開いたまま、穏やかとも言えるほどの無表情で……。

 音も立てずに、白い姿は完全に排水溝に吸いこまれてしまう。パイプが水を飲む音。持ち上がって軽い音を立てる、錆びた鉄製の蓋。静けさの戻った室内で、死体の香りに誘われた蠅たちだけが羽音を立てている。



『……隣の家のお嬢さん、あるとき困って言うことに……スープの具材が足らないの……そこで切って入れた……る足を……毛の剥き方も知らないで……泡立つばかりの甕の中……浮いた毛玉を………』

 小さな鍋を火にかけながら、リコは突然音の途切れた再生機を横目でちらりと見た。このところ調子が悪かったが、最近は特にひどいようだ。音のかすれ程度ならば我慢もできるが、勝手に止まってしまうのだから性質が悪い。焦げないようにシチューをかき混ぜながら、片手で再生機に手を伸ばす。あと少しの距離が届かない。

「もう!」

 じれったい思いで手さぐりしていたためか、傍らにあったミルクの瓶を倒してしまった。砂嵐のような音を立て続ける再生機。そのすぐそばで、ずんぐりとした獣が窮屈そうに餌を噛んでいる。

「スージー、かえった?」

 リコの呼びかける声が温室に響く。ガラス張りの高い天井。四方もガラスで囲まれた、白く柔らかな空間。大小さまざまな植物の鉢植えや畑で鬱蒼とした空間は、どこか味気ない。どの植物も皆、同じような葉をつけ、特に面白くもない同じような花をつけ、大人しくきれいな形に収まっているのだ。仕切りも何もない空間の中では、ひときわ量の多い植物の緑が目立つ。その草たちに囲まれながら、リコはぽつんと置かれた調理台に向かってシチューをかき混ぜていたのだ。

「スージー?」

 二度目の呼びかけにも返事はない。リコは諦めて、荒く編まれた布でこぼれたミルクを拭き始めた。合成樹脂の壁面を拭いていると、泡立つ音がしてシチューが吹きこぼれる。慌てて火を止めたがもう遅かった。量の減ったシチュー。ドングリの頭のように丸くカットした栗色の髪を両手で掻いて、リコはひとつにっこりと笑う。

「できた。スージー、できたよ!」

 固い綿の入った手袋をはめ、鍋を下ろす。ほんの少し焦げ臭い湯気も、空腹のリコにとってはたまらなくいい匂いだ。木を削ったスプーンを小さな食器棚から取り出し、その前に置いた。食卓はない。リコにとってはこの調理台が台所であり、リビングであり、またときにはささやかな勉強机でもあるのだ。

「……あっ」

 自分の腰ほどもある丸い椅子を引きながら、リコは小さな声を上げた。常々、スージーに言われていることを思い出したのだ。

「忘れてた」

 調子をつけてそう言いながら、リコは柵の中で佇んでいる獣のもとへと向かう。リコの背丈よりも大きな体高。荒く息をしているが、ゆっくりとした動きの大人しい獣。ふわふわの毛が長く伸びた部分や、短く手触りの良い毛並みの部分、また何も生えていないむき出しの皮など、その皮膚は部分によってパッチワークのように異なった様子を描き出している。長く伸びた鼻。象にもアリクイにも見えるその頭から鼻先にかけては、ピンポン玉ほどの小さな目がずらりと並んでいた。

「うんっ」

 その内のひとつに指を押しこみ、リコはまん丸の眼球を取り出す。スプーンで果肉を掬うように、抵抗なく抉られる眼。獣は痛がる様子も見せない。そもそも、痛いという感覚を持ち合わせていないのだ。紅く残る跡。椀の形にくぼんだ肉の底に、視神経の繋がる穴だけが小さく開いていた。

 血で濡れた指を洗うこともなく、リコは白く湯気を立てるシチューのもとへと戻る。椅子に飛び乗り、鍋の真ん中に真新しい眼球を落とした。重く跳ねる液体。もう一度あたりを見渡し、リコは手を合わせて誰に言うともなく呟いた。

「いただきます!」

 この言葉の意味も、その動作の意味も、リコは知らない。何かを理解して行っているわけではない。ただスージーにそうしろと、幼いころから繰り返し言われ続けたので、言われたとおりに行っている。それだけなのだ。

 しつこいくらいに息を吹きかけて最初のひと口を冷ましていると、窓の開く音がした。動きを止めて、その音のするほうに耳を傾ける。さらさらと流れる硬質の音。繁った葉の隙間から、揺れ動く黒い影が見える。スージーが帰って来たのだ。

「おかえり!」

 スプーンを鍋の中に放り出して、リコは飛び跳ねながらスージーのもとに駆け寄った。当の黒い影は揺らめきながら宙を舞い、葉の中にぽっかりと空いた調理場のすぐ傍まで飛んでくる。小さな、ごく小さな黒い虫の、無数の固まりにも見えるその姿。粒子が光を反射するのか、時折揺らめいては金の帯のようなきらめきが表面を走る。下唇を噛んで嬉しそうに待っているリコの前で、影は波のような音を立てながら形を変えていった。黒い粒子が舞う。宙に描き出される骨格。骨だけの、黒い鳥の姿。羽を広げた状態で一・五メートルほどの大きさの骨組みは、どの鳥にも似ていない。どの鳥にも似ていないのに、どの鳥よりも鳥らしい理想の姿をしている。すらりと伸びた首。精巧な籠のような肋骨。長く伸びた尾羽。この姿もまた、スージーの本来の姿ではない。いや、本来の姿などというものを、スージーは持ち合わせていない。無限に変化するその形の中で、リコの望む姿を取るときこそが――スージーにとって安定した、あるべき姿と言えるのだ。

『遅くなりました』

 男の声とも女の声ともつかず、また無機質なメロディとも異なった声。リコを見下ろす、真っ赤なガラス質の目。リコは丸い頬にえくぼを浮かべて、宙に舞うスージーを嬉しそうに見上げている。くびれのないオレンジのワンピースを着て、足には何も履いていない。

『どうしました? 裸足で……』

「もしかして、クツ作って来てくれたの?」

 リコのはずむ声に答えるように、スージーは膨らんだ腹から一足の靴を吐き出す。くるぶしの上ほどまでの長さの、可愛らしいブーティだった。細い靴ひものついた、滑らかな茶色の皮。きっちりと揃えてから、リコはそのひと揃えの靴に手を合わせてみせる。

「いただきます」

『ああ、リコ。そういう時は――』

 靴ひもをほどく手つきが心もとない。不器用なその姿に掛ける声を飲みこんで、スージーは横目で柵の中の獣を見た。左の尻の皮をきれいに切り取られた獣は、無関心そうに胃の中のものを吐き出しては飽きもせずに噛んでいる。このところ、暑い日が続いた。そのせいで傷が悪化するかとスージーは心配していたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。

「ぴったり?」

 ワンピースの裾を持ち上げて、リコは黒い鳥に問いかけた。左右の輪の大きさがかなり異なる蝶結びを直してやりたい衝動を飲みこんで、スージーは頷く。

『ぴったり……ですか? 窮屈ではないでしょうか?』

「きゅうくつ?」

『足が苦しいとか、そういう感じはありませんか』

「だいじょうぶ! きゅうくつって、靴の名前?」

『ああ、いや――服や靴が小さくて、合わないことを言うのですよ――』

「分かった!」

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