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「誤解です」
 エレベーターが言う。一瞬ぎょっとして、ああ五階かと納得した。最近新しく校舎に作りつけられたエレベーターは、こんなふうに日がな一日喋り続けているらしい。その発音は一言一句がつくづく明瞭で、「ドアが閉まります」が「ダァシェリッス」に聞こえる最寄駅の駅員さんとは大違いだ。「ごかいです」。でも、せっかくのこの言葉を、乗りこんできた吹奏楽部の部員たちは誰も聞いていなかった。「ごかいです」この言葉は私以外の誰のところにも届くことはなく、めいめいの楽器を手に乗り込んできた吹奏楽部の部員のがちゃがちゃした気配にはねつけられて、床の上にそっと落ちた。トロンボーンの先っぽに脇腹を押されて、私はいそいそと隅に追いやられる。彼女たちはしゃべるエレベーターやニワトリのにおいをさせた私のことなどどうでも良いらしく、というか気づきもしないでおしゃべりに熱中している。5階から1階にエレベーターが下るほんの数十秒の間に、何度も笑い声が起きて、みんなすごく楽しそうだった。彼女たちの金管楽器も、私が持っているホウキとチリトリも、学校の備品という点では同じなんだけど、この距離はいったい何なんだろう。
 吹き抜けになった玄関ホールに出ると、さんさんと陽が照って、まぶしさにちりとりをかざした。早起きしたから、今日は一日が長そうだ。両腕を広げて伸びをすると、むわあっと胸のあたりからニワトリのにおいが立ち上ってきた。
「夏休み中に悪いが、ニワトリ小屋の掃除に来てくれないか」
 担任から一方的で厄介な電話がかかってきたのは昨日だ。来てくれないか、と一応こちらの伺いを立てる体裁になっているものの、その口調には「お前、断らないよな?」という無言の威圧がしっかり含まれている。当番になっているはずの山田くんから、体調を崩して行けなくなったと連絡があったのだそうだ。山田くんはクラスメイトだがほとんど話をしたことはなかったし、私の当番の日はとっくに終わっている。それなのになぜ私なんですか、と聞くと「渋野さんはクラスで唯一部活をやっていないから頼みやすかった」と身も蓋もない返答がかえってきた。そうか。部活をやってないとニワトリの掃除当番も快く引き受けないといけないのか。釈然としない思いもあるが、暇なのもまた純然たる事実だ。
 快く引き受けて、夏休みの盛りにわざわざ学校に出向いてみれば、山田君のほかに二人いるはずの掃除当番はどちらも現れなかった。二人そろってすっぽかし。欠席の連絡を入れただけ、山田くんはマシだったということか。結局私は一人でニワトリ小屋を掃除しなければならなかった。正直者が損をするなんて、全くイヤな世の中だ。
 掃除用具を片づけ、終わったことを一応報告しておこうと職員室に行ったが、担任は来ていなかった。というか、先生は誰もいなかった。机の上にはまだ配られていない修学旅行のしおりが積んであり、私はそれを労働のごほうびとして、1冊失敬することにした。
 校門を出るとき、走り込み中の女子テニス部の集団とすれちがった。その中に、今日一緒にニワトリ小屋を掃除しなければいけなかったはずの湯川さんがいた。半袖のシャツをまくりあげ、ポニーテールを高い位置で結った湯川さんは、汗にまみれていてもさわやかだった。汗は人をさわやかにするのか。自分の額を流れ落ちる汗を、指ですくって口に入れてみると、悪夢のような塩味がした。我ながら奇行だが、でも私には本物のトラウマがあるのだから、そういうことをしても許されるのではないかと思う。
 そう、私には心に負った深い傷がある。拭い去りようもない、トラウマがある。
 友達のいない私のかつての唯一の楽しみは、足や腕のムダ毛を抜くことだった。私のムダ毛は質より量で攻めてくるタイプで、一本一本はそれほど太くも長くもないのだが、すさまじい密度で群生している。それを丹念に選り分け、毛抜きを駆使して微妙な太刀筋で確実に根元をはさみ、一本一本を丁寧に抜いていく。コシのある若毛は比較的抜きやすいのだが、中にはやわやわとした細っこい毛もあり、そういうものはとても掴みづらい。さらにあなどれないのが再生力で、抜いたそばからまた生えてくるので、私はほとんど一日中、毛にかかりきりになっていた。
 なぜそんなに毛抜きに熱中していたのかは分からない。ムダ毛のない肌になりたかったというよりは、ただ単に抜くのが楽しかったのだろう。暇さえあれば、毛を抜いていた。ムダ毛というのは、本当に不思議な存在だ。自分の身体の一部でありながら、強大な敵でもある。この世から抹殺すべき憎い相手だが、そんな彼らをこの世に生み出したのはほかならぬ私自身でもある。大きな矛盾をはらんだ存在であり、彼らと向き合うとき、私は明鏡止水の心持で、心から真摯に自分自身と向き合えるのだった。
 そんな私が昨年迎えた十六歳の誕生日、母がささやかなプレゼントをくれた。
 最新式の女性用シェーバーだ。
 それは、私の生活を、一変させた。
 完璧な機械だった。どんな剛毛も繊毛も一そりで抹消した。
 私をあんなに手こずらせた強敵たちは、断末魔をあげる間もなく、研ぎ澄まされた二枚刃に刈り取られ吸い込まれていった。
 喪失感。
 ムダ毛の伐採だけに日々注力していた私は、生きがいを失い、時間を持て余した。今まで脱毛と向き合っていた時間が全て宙に浮くことになり、何をしていいかもわからず、茫然と時間をやり過ごすことが増えた。腕も脚も、かつてないほどすべすべになったというのに、どうしてか気持ちが充たされない。
 そう、それまで毛抜きにかけてきた時間がなくなり、ヒマになってしまったのだ。
 わたしは無為に過ごした。
 一人でしりとりをしたり、校舎中の教室の天井のシミと木目を数えてまわったり、自分の名前と同じ画数の都道府県を探したりして、いたずらに時間をつぶした。しかし満たされなかった。シェーバーのおかげでつるつるになった手足を見ても、少しも楽しい気持ちにはならなかった。

   夏休みの朝は心なしか山手線もすいている。ニワトリ臭を放っている身としては、非常に助かった。私は席にもたれて、ぼんやりと外をながめていた。
 小さな女の子がお母さんに手をつながれて乗ってきて、ちょうど私の前に立った。おとなしそうな、可愛い子だった。小さい手で、一生懸命お母さんの中指と人差し指にしがみついている。
「座っていいよ」
 天使の笑顔で立ちあがった私の顔を、女の子はじっと見上げて何か言いたそうに口を開けた。が、結局言葉は出てこずじまいだった。突然知らない人に話しかけられて困惑してしまったのだろう。それでも、譲られた席にはしっかり座り込んだ。お母さんの方は目を伏せたままだった。
 私は「ありがとう」の言葉をどちらからももらえなかったことに若干のショックを受けた。ショックを受けているということは見返りを期待して親切をしていたということで、そんな打算的な自分にもまたショックをうけた。
 電車の中ではお互い無干渉を決め込むのが都会のルールだ。がらがらの車内で、詰めようと思ってわざわざ人の隣を選んで座ると、変な目で見られる。空いている席に座るときは、まずはじとはじから。それがルール。極力だれも隣にいない席を選ぶのもルール。ちょっとぶつかったくらいでわざわざ声に出して謝るのはかえって嫌味だから、そういう時は黙殺するのもルール。
 そんな当たり前の決まりごとが、なんだか今はすごく寂しく感じられた。
 東京砂漠。
 コンクリートジャングル。
 無縁社会。
 ああ、悲しい。カサついた都会の無関心が悲しい。東京の外に住んだことはないけど。
 目頭が熱くなりうつむく。そのとき、車内に能天気な歌声が響いた。
「カーエールーの うーたーがー」
 目の前に座る幼女が、カエルのうたをうたっている。
 なつかしい曲。幼稚園で習ったのだろうか。
「きーこーえーてーくーるーよー」
 乗客の反応は様々だ。微笑ましく見守る人、これ見よがしにiPodの音量を上げる人、母親をにらむ人。色々な人の表情と、無邪気で抑揚のない歌声との重なりが、妙に心をざわつかせた。
 カエルのうたは私が小さかった頃いちばん好きだった歌なのに、もうずっと歌っていないことに気が付いて、それもまた無性にさびしかった。
 寂しい。歌いたいな。
 そんな思いがこみ上げてくる。そして、私は
「「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ」」
 ついつい、幼女にあわせて一緒に歌っていた。幼女はぎょっとした顔で口をとじる。しかし私は、一度歌い出したらそう簡単にはやめられない。
「ゲロゲロゲロゲロ、グワッグワッグワッ」
 車内に私の歌声が響く。なぜこんなことをしてしまったのかはわからない。歌いたかったからとしか言いようがない。車内中の視線が私に一点集中するのが分かったが、歌い続けるしかなかった。
「カーエールーのー うーたーがー」
 つり革に持たれた腕が、日差しを浴びてつるつると光っている。無駄毛一本はえていない。無数の繊毛たちとあてどない戦いを繰り広げることはもうないんだと、そう思ったらまた悲しくて、涙ぐみながら歌った。
 女の子はぽかんと口を開けて、私を見ている。ああ、結局一人だ。一人きりで、山手線の中で、カエルの歌なんか歌っている。これも、車内ルールを破った罰か。
「グワッ、グワッ、グワッ、グワッ」
 平和だった朝の車内が、一人の奇怪な女の登場によりすっかり調和を乱されていた。
 恥ずかしい、普通に恥ずかしい。でもやめどきも分からない。半ばオートマチックに、私は歌い続ける。
「ゲロゲロゲロゲロ、ぐわっ、ぐわっ、ぐわっ」
「ママ…、あの髪ぼさぼさのお姉ちゃん、あたしの真似して歌ってるよ……。一人なのに……ヘンなの……」
 母親が女の子の背中を押して、せっかく譲ってやった席を立ってそそくさと隣の車両に移ろうとする。はは、勝手にするがいい。私の歌は止まらない。
「カーエールーのーうーたーが」
 隣の席の休日出勤らしいサラリーマンも、後ろに立っているジャージの中学生も、今やみんなが私に好奇の目を向けている。
「きーこーえーてーくーるーよ」
 たまらない。誰か、誰か一緒に歌ってくれ。いや、そんなことが起こりえないことは分かっている。でも、恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくて、せめて念じずにはいられない。誰か、誰か一緒に歌ってください。
「ゲロゲロゲロゲロ、クワックワックワッ」
 ゴトンゴトンと車輪の音が低く振動する車内に、私の歌声が地獄絵図のように伸び渡る。
「カーエールーの うーたーがー」
「次はー、高田馬場ー、高田馬場ー」
「きーこーえーてーくーるーよー」
 アナウンスに私の歌声が重なる。
 そのときだった。
「カーエールーのーうーたーがー」
 私のものではない歌声が、背後から聞こえてきた。男の声だ。
 ひっくりカエりそうになった。誰かが。誰かが一緒に歌ってくれている。
 しかも、輪唱。
「……グワッ、グワッ、グワッ、グワッ」
「きーこーえーてーくーるーよー」
 男声女声混合合唱。
 ふりかえると、欠席したはずの山田君が立っていた。


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