プロローグ
今、ひとつ前の試合が終わった。明日へと繋 がった一校、今日ここまでとなった一校。選手ひとりひとりの思いにかかわらず、次の試合——烏野高校対椿 原 高校の公式ウォーミングアップが始まる。選手たちがおのおの集中力を高めていくなか、新米マネージャー谷地仁花の手は緊張に震えていた。
数分前のこと、もうひとりのマネージャー清水潔子が、外 した通行証を谷地に託して言ったのだった。
「私はすぐ戻ってくるけど、ひとりになったら心細いよね」
訊かれて、新米マネージャーは思う。
(はい、それはもう心細いです! 私なんかがいたところで、なんの役にも立たないことは明白!! すぐに戻ってきてください、お願いします! お願いします!!)
思っただけではない、実際にそう頼もうとした。しかし谷地が口を開く前に、清水は言ったのだった。
「だから、慣れてね」
短い言葉だったけれど、平手打ちでもされたように目が覚める。
「……ハイ!」
自分のリュックサックの上からさらにビニールバッグを背負い、清水はひとり外へ駆け出 していく。その背中を見送る谷地の首に下げられたばかりの通行証がかすかに揺れた。
******
携帯のナビ画面を片手に東京体育館を出た清水は、自分が正しい道を歩いているかどうか交差点の表示を見上げた。
——東京体育館前
あってる、この道をまっすぐ。大丈夫。
目指すは『北参道 駅』で、さっき体育館に戻るときに降りた『国立競技場駅』とは違う駅、違う路線。ナビは徒歩12分と示しているから、走ればほんの数分だろうと踏む。
信号が青に変わり、清水は冬の東京へと駆け出した。
まず飛びこんだ道は商店街だったが、歩道は狭く、電柱を避 けながら進まなくてはいけないほどだった。ほどなくして初詣の参拝客で賑わう神社も現れ、清水は「すみません、すみません」と晴れやかな顔をした人々のあいだを縫 うように走り、また電柱を避け、小石を踏んで進む。
障害物走ならお手のものだけど——と小さく苦笑 して、それよりもゆるやかに続く下り坂に、帰り道がきついかもしれないと思いながらコンビニの前を駆け抜ける。
******
試合直前、マネージャーが単独で外出するにはそれなりの切羽詰 まった理由があった。開会式後、ウォーミングアップのため各校に割り振られた体育館から試合会場へ戻る途中、日向翔陽のバッグが紛失したのだ。財布や携帯だけならここまで慌てなかったかもしれない。しかし中には試合で使うシューズが入っていた。不幸中の幸 いかバッグのありかはすぐにわかり、清水は受け取りに向かったのだ。
駅で日向のバッグを取り違えた親子が、近くの駅にいるらしい。調べると、東京体育館の最寄駅からは地下鉄で一駅。急げば、試合までには戻ってこられる距離だった。
だけど——と、残された谷地は不安を拭えない。
電車に乗るのは一駅だとしても、駅までの道で迷うことだってあるかもしれない。昨日 、調整用の体育館へ移動したときだって違う路線に乗りかけたり、手前の駅で降りたりみんな大変だったし。それに、こんなお祭りみたいに人がギュウギュウギュウギュウ密集してる東京で、相手をすぐに見つけられるかどうか……。
「……はっ!」
ボールカゴを押す谷地の脳裏に、さらなる疑念が浮かんだ。
偶然、同じ駅に同じバッグがふたつ存在したってことは、もうひとつ同じものがあったっておかしくないのでは? 二度あることは三度あるって言うし、一匹見つけたら百匹は隠 れてるって言うし……。
どうしよう、もし先輩が別の人から同じバッグを受け取るようなことがあったら。これじゃあ、いつまでたってもシューズにたどり着けない! ——待って。もしや、バッグを取り違えたっていうのが、すでになんらかの組織によるワナという可能性もなきにしもあらず。そうしたら、清水先輩の身が危ない!!
思わず頭を抱えた谷地の背後で、遠慮がちな声がした。
「あの、大丈夫……?」
「え? あ、は、ハイッ!」
敬礼して振り返れば、同じく1年の山口忠 が心配そうにこちらを見ていた。ネガティブ沼にはまった現場を見られてしまった! という恥ずかしさに身もだえしつつ、応える。
「あ、うん! ぜんぜん平気! 大丈夫! たぶん、そんなワナはないから!」
「……ワナ?」
「え? あ、ううん、なんでもない! 本当に大丈夫だから!!」
「そう?」
山口はまだ気がかりな様子だったが、谷地はひきつる口角 をムリに上げてみせる。
「うん、大丈夫! もうかなり丈夫! このとおりピンピンしてるし!」
「丈夫……? なら、いいんだけど」
首をかしげながらも、山口はボールを持ってコートへ戻っていった。
いけない、いけない。ちゃんとしなくちゃ。なんで私はいつも……。
ため息をついてうなだれると、ジャージの胸元に通行証が見えた。頼 りなく揺れるそれをお守りのようにギュッと握ると、焦る気持ちがちょっと落ち着いた気がする。
震える手を開き、通行証を見ながら思う。
清水先輩なら大丈夫。うん。私みたいなヒヨッコ風情 が心配するなんておこがましいや。人のことを心配するより、まず自分のことをちゃんとやらなくちゃ。心細いとか言ってる暇 なんてない。あたふたしてたって、時間がきたら試合は始まるんだから。
慣れるしかないんだ、先輩の言うとおり。
谷地は、パイプ椅子に置かれたスコアボードを手に取った。
試合の記録……ちゃんと書けるかな。まだ、ボールが速すぎて誰が何をしたのかもわからないときだってあるけど、でもこれまでだって練習試合ではやってきたし。あとは、そうだ、誰か怪我 したときの応急処置も責任重大。できるかな。ううん、やらなくちゃ。合宿のときに特訓したし。あと、あと……、あ、そういえばタイム取るときって、清水先輩いつもどうしてたんだっけ……。誰に何をどうすればいいんだっけ? ……あれ。
え?
うわ、このままじゃタイムが取れない!
どうしよう、ぜんぜん、思い出せない!
これまでの試合を思い出そうとしてみても、頭の中は茫漠 としていて、なんとか思い浮かぶのはぜんぜん関係のないことばかり。夏合宿のスイカにバーベキュー、帰りに坂ノ 下商店で買った肉まん、雪が降った日の小さい雪だるま——。
「こ、これは……現実逃避なのでは」
脳が、脳が、不安と恐怖のあまり、別のことを考えようとしている! 頑張って、私の前頭前 野 ! 血流!
高い高い天井を見上げ、何度も大きく深呼吸して、谷地はやっとコートを見る。
いつもより少し緊張した部員たちが、それでもいつもどおりウォームアップしている。そこにそろった仲間の姿を見れば、清水の不在の大きさと、自分の小ささが身にしみてきてキュッと痛い。
この春高 で先輩たちは引退なのに、そしたら私ひとりになるのに、それがわかってて、私、いつも清水先輩の隣で何を見てたんだろう。何も見ていなかったのか、ただ立っていただけなのか。
「節穴……」
うなだれた後頭部に、母親の声が響く。
——本気でやってる人の中に入って中途半端やるのは一番失礼なことだからね。
「うう……」
マネージャーになって、少しは変われた気がしてたけど、結局ヘタレのままだったのかもしれない。素人目 にだって変わっていってるのがわかるみんなの周りにいて、自分も強くなったみたいに都合 よく錯覚してただけだったのかも。
さっきは出かけようとする先輩に『それなら私のほうが……!』なんて言ったけど、ひとりで知らない街 を走るなんて、トロい私にはムリだったに決まってる。外へ出ても、ここに留 まっても、どこにいても役立たずなんだ。きっと清水先輩は走る姿も美しいんだろうな。それに比べて私は……。
ああもう、全国大会まできたすごい人たちのなかに、こんなに使えない虫ケラが混ざっててすみません! 出直してきたいですけど、どこからやり直せばいいのか皆目 見当もつきません。中学校か、小学校か、幼稚園か、もはやお母さんのおなかの中からやり直したいくらいですが、その願いがすでに甘え……!!
と、ずぶずぶずぶずぶ底まで沈みかけたそのとき「大丈夫!」と主将の力強い声がして、今まで耳に入っていなかった周りの音が戻ってくる。
「どうした、家に帰っても飯がなかったみたいな顔してたぞ。心配しないで待ってろって清水も言ってただろ?」
「え……めし?」
なんの話だろうと、主将の澤村大地 を見上げてぽかんとしていた谷地の目の前に、ひゅっと飛んできた黒い影があった。
「⁉」
烏——のわけない、ボール——にしては大きい。
直後、ドンッと着地する音でわかる。
ボールを追いかけて飛びこんできた日向だ。
澤村が声をかけた。
「日向、足踏まれないように少し離れたほうがいいぞ。下手すりゃ骨折だ」
「……あ、ハイっ!」
青ざめる日向を見て、菅原孝支がニッと笑った。
「まあ、最初っから日向が出なくたってなんとかなるだろうし、なんなら日向がいなくても勝てるかもしれないし」
「なッ……お、おれは!」
と焦って何か言おうとした日向だったが、菅原に「先輩を信じろってこと!」と背中を叩かれて咳 きこむ。そのやり取りをチラチラと横目で気にしながら、エースの東峰旭 は真剣に考えこんでいるのだった。
「俺は……あまり信じてほしくないかな……、でもこいつで大丈夫なのかよって疑われるのもそれはそれで辛いしな……」
ブツブツと呟く東峰のもとへ近づいた澤村が、鼓舞しているのか脅しているのか定かではない顔を見せた。
「頼りにしてるからな。見せてくれよ、エースの底力」
「ちょ……大地、そういうのやめ……」
そこへ田中龍之介と西谷夕の2年生コンビが「旭さん、頼りにしてます!」と、こちらは言葉どおりの熱い眼差 しを向ける。
「ヤーメーテー!」
東峰の悲痛な声にみんなが笑うなか、日向の表情だけはまだ固いことに谷地は気づいていた。
そうだ、そうだよね。
どんなに先輩たちのことを信頼してたって、それでも不安に決まってる。
待っている日向のほうが心配で、ひとりで東京の街 に出ていった清水先輩のほうが大変。それなのに、私なんかが慌ててる場合じゃなかった。しっかりしなくちゃ。家に帰ってごはんがなくたって、自分で作ればいいんだから!
スコアボードを抱きしめる腕は、まだ震えていた。それでも顔を上げる。
******
狭い商店街を抜けると、急に視界が開けた。空も、道も、一気に広い。ここだ。あたりを見まわすと地下鉄の青いマークが見えた。
「あった」
ホッとして力が抜けるが、まだ安心するのは早い。
清水は駅の階段を駆け下りる。ちょっと緊張して改札に入り、さらにホームへの階段を下りると1番線にちょうど電車が来ていた。よかった、と乗りこもうとして、頭上の行き先表示を確認する。渋谷方面行き。大丈夫、間違ってない。
乗りこむと、ドアが閉まった。
******
ボール拾いをする日向の後ろ姿を、谷地はじっと見ていた。
マネージャーになりたいと思ったとき、モタモタとして煮えきらない私の背中を何度も日向が押してくれた。清水先輩たちもトロい私に根気 よくバレーのことを教えてくれた。みんな、私なんかに優しくしてくれて感謝してます。
でも、いつまでも助けてもらうわけにはいかない。中途半端やるのは一番失礼なことだから。
不安だけど、慣れなくちゃ。
もう、見学してるだけのお客さんじゃない。私もれっきとした烏野高校排球部の一員なんだ。
清水先輩ならこんなとき——バレー部の一大事に、みんなのために何をして、どんな言葉をかけるだろう。いや、先輩みたいに美しい人ならここに立ってるだけで人々を癒 し、勇気づけ、力を与えることができるんだろうけど、そればっかりは私にはムリ! じゃあ私にできることって?
この迷子になりそうなくらい広い、初めて入った体育館の、たくさんの大きくて強そうな人たちのなかで、無力な私のできること——。
谷地は一歩足を踏み出すと、コートに向かって声を張った。
「清水先輩なら、きっとすぐ戻ってきてくれるから!」
その声に気づいた日向が、親指を立てて笑う。
「おう!」
——清水先輩なら、きっとすぐ戻ってきてくれるから!
絞り出した言葉は、自分の耳にも、自 らに言い聞かせているように聞こえた。でも、それでいい。
完璧になんてできない。清水先輩みたいにテキパキ格好 良くもできない。今、新米だからじゃなくて、3年生になったってきっと追いつけない。みんなの力になるなんてきっとムリで、だから一緒 に困って、迷って、考えて、一緒に喜んでいこう。
足元に転がってきたボールを拾ってコートのカゴへ入れると、ホイッスルが鳴った。
これでウォームアップ終了。
試合が始まる。
コートに緊張が走ったそのとき、頭上から声がした。
「仁花ちゃん!」
******
電車を降りて、バッグを持った親子が待っているという7番出口を探す。出てすぐのところに立っているということだったが——出口表示を見つけて外へ出たとたん、ビニールバッグの黄色が飛びこんできた。
「!」
背中に背負っているバッグと同じ黄色。持つのは小さな男の子を連れた女の人。
清水は駆け寄って声をかける。
「あの!」
背中のビニールバッグを下ろして見せると、母親も手にしたバッグを差し出した。まったく同じバッグを交換し、中を確認する。ちゃんと日向のシューズが入っている。
「本当にご迷惑おかけしました、なんとお詫びしたらいいか……」
何度も頭を下げる母親に「いえ、こちらこそ。では急ぎますので失礼します」と会釈をして、踵 を返す。神妙 な顔をしつつも手を振る子供に小さく手を振り返し、上ってきた階段を駆け下りる。ホームへ降り立った清水は、携帯で時間を確認した。
「…………」
電車が来るまであと少し。次の駅までほんの二分。そこから走って、試合開始に間にあうかどうか——。
正直、ギリギリ間にあったらラッキー、といったところだ。
でも、なぜだろう。体育館を出たときのような不安はもうなかった。もちろん諦 めたわけじゃないし、どうなろうとかまわないと投げやりになっているわけでもない。ただ、今できることを精一杯 、ただ全力でやるしかない状態で、いたずらに心配していたって始まらない、というカラッと乾いた感じ。
今すべきは、前へ進むことだけ。
ホームに入ってきた電車に乗りこんでドアの脇に立つと、気を抜く暇もなくすぐに北参道に着く。再び階段を駆け上り、息急 ききって明るい地上へ顔を出せば、行きには肌寒く感じた服の風が頬に気持ちいい。
やるべきことを正しくやっているという事実が、はやる心を落ち着かせてくれる。もう知らない道ではないという安心感ももちろんあるだろう。
商店街の途中、道の先にメインアリーナの屋根が見えた。あと少し。もう少し。冬の乾いた空気を切るようにして、長い坂道を上りきる。青信号の点滅する交差点を渡れば、そこはもう体育館の敷地だった。壁沿いに走り、メインアリーナ入口へまわる。いつも履いているスニーカーなのに、力いっぱい走ると少し固く感じる。出たときよりも重く固いバッグが背中で揺れる。
入口が見えた。
その前に、まるで阻むように並ぶ柵。
目が、自然に距離を測る。ストライドを大きく取り、一、二、三歩めの左足が地面を蹴る。染みついたリズムに乗って重力を振りきった身体が、柵を越えた。着地とともに、背中のバッグが跳 ねる。視線は入口に据えたまま、なおも走る。仲間の待つコートへ。
私はコートに立たないし、ユニフォームを着るわけでもない。
でも、今、ここが私の最前線。
「仁花ちゃん!」
振り向いた後輩へ向けて、客席の手すりから身を乗り出しバッグを繋ぐ。
そして日向にバッグを渡す谷地を見届けると、手すりにかかる応援旗が目に入った。
——飛べ
インターハイ予選前、倉庫で見つけた応援旗だ。忘れられ、埃まみれでカビの匂 いのしたそれをクリーニングに出して、ほつれを繕って——そして、今ここにある。
応援旗の下では、澤村たち3年生三人がこちらを見上げてガッツポーズをしていた。笑う彼らに、左拳 を上げて応える。ついにシューズを履いた日向が、何度も頭を下げている。その奥でコーチと監督がなにやら話をしていて、谷地が固い表情でスコアボードを抱きしめている。
それらすべてを、ほんの少しの違和感とともに見る。
主将のかけ声で選手たちが整列し、ホイッスルが鳴った。
ポジションにつくため散らばる仲間たちを見下ろして、清水は気づく。今日初めて、ベンチ以外の場所から彼らの試合を見るのだと。