第一幕 プレゼント
インターハイまであとひと月あまりとなった。
大太刀高校相撲 部の部員たちは、弱点を克服し、さらに強くなろうと血の滲むような努力をひたすら繰 り返していた。
「あっつ!!」
授業を終えて相撲道場にやってきた五條礼奈は、あまりの息苦しさに窓を開け放った。燃え上がった皆の体中から立ち上 る蒸気が稽古場にこもってパンパンに膨 れ上がっている。レイナに気がついた潮火 ノ丸が顔を上げて言った。
「おぉ、来たか。どうじゃ、みんなの意気込みは」
「う、うん」
——みんなボロボロじゃない……。でもいい顔をしてる。
レイナは皆が感じている手応えを知ると同時に、日本一を目指 す鬼気迫る様 子に圧倒された。そして、応援したいと心の底から思っている自分に気づいていた。相撲部に兄の佑真が入った頃には認めたくなかったけれど、自分にはない、好きなことに全力でぶつかっていく彼らの姿勢を素直 に尊敬できるようになっていた。
あの、名古屋での濃い強化合宿は部員全員のやる気を深化し追いこませた。元横綱・駿海につけてもらった稽古で、火ノ丸は自 らの技「百千夜叉墜」をより確かな強い刃に磨き上げて戻ってきた。監督の辻桐仁はひとりひとりのために知力を尽くして考え抜いたメニューをそれぞれに課 した。國崎千比路はレスリング仲間と、五條佑真はいままでの非道を許してくれた空手道場でそれぞれの強みをさらに強化し、小関信也は弱点のアウェイでの戦いでも怖気づかない精神力をも鍛え抜こうと必死にあがいていた。三ツ橋蛍も皆の稽古に死ぬ気でついていった結果を自分の体に見 出して、嬉しい手応えを感じていた。
各々が仲間でありライバルであることを強く意識し、やるべきこと、できることが明確になってきた皆の気迫は県大会の頃とはケタ違いに高まっていた。
******
「遅くなりました」
堀千鶴子が稽古場に入ってきた。上がり座 敷にカバンを置いて皆を見回した堀も、どことなく満足そうだ。
「揃ったな」
辻が立ち上がって言った。
「俺たちはこれまでできることを全力でやってきた。インターハイまであと一か月、目指すはもちろん優勝だ。なんとしても勝とう。さらに高みに到達できるよう死力を尽くそう」
「おっしゃああああっ!」
チヒロを土俵外に寄り切ったばかりの小関がその言葉に吼えた。ギリッと引き締まった目つきが以前とはまったく違う。辻の言葉と稽古で全員の心のギアは一段上がった。稽古場全体にいい感じの気が漲 っている。中でも小関は、自分の殻を破ろうと何番も何番もぶつかって息が上がりっぱなしなのにやめようとしない。
「次、俺だ!」
そんな小関の姿に鼓舞された佑真がチヒロの次を申し出た。仕切るため腰を落とすと、二人の波長はぴったり合ってすぐに全身でぶつかり合った。
「オラァッ!!」
佑真の手が小関の顎を容赦なく襲 う。かつて相撲道場を奪った罪悪感で小関に対して突っ張 りを繰り出せなかった時期を克服し、吹っ切れた佑真はその力すべてをかけてぶつかった。
——ユーマさん、一週間前より確実にレベルを上げてる……!! でも、俺だって……!!
次々と繰り出される鋭い突きに、パァンと肉の弾かれる音が響 いた。レイナがふっと息を飲んだ。小関もその佑真の心の入った突っ張りを正面から受け止める。
「まだまだぁ!!」
重い腰の小関はどっしり構えると、佑真の強烈な突きを受けても下がることなく距離を詰める。まわしを力強く摑 むと佑真の体がぐっと小関に引きつけられた。
「負けねぇぞ!!」
限界まで力を出し、二人がガシッと組んで競い合った結果、ついに小関が渾身の力で佑真を土俵の外に寄り切った。張り切った筋肉が艶 々と光る。佑真がクソッと悔しげに叫んだ。
「うへぇ、部長が絶好調じゃな!」
火ノ丸は小関の充実した様子が頼もしかった。いや、眩しくさえ見えた。今年の四月、あんなにおどおどと相撲を取っていた小関とはまるで別人だ。
——うわぁ!! 本当に!? 相撲部に入ってくれるの!?
火ノ丸が入部希望を伝えたときの小関の喜びようを思い出すたび、火ノ丸はたった一人で二年間相撲部を続けてきた小関の頑張 りに応えたいと強く願った。その想いは皆同じ、いまや誰もがお互いを高め合ってダチ高相撲部全員が次のステージに進む覚悟だ。
******
練習を終えて奥の部室に入った三ツ橋は、大鏡の前で立ち止まった。ひと月前とは明らかに違う。確実にたくましくなっている。三ツ橋はまわし姿のまま鏡に映 る自分の体を真剣な顔で見つめ、ゆっくりと力こぶを作った。
「よっ、ナルシスト!」
いつの間 にか後ろに辻が立っていてイヒヒヒと黒い笑いを浮かべていた。しまった、と青くなって振り返った三ツ橋が「でも、正直なところ、また少し筋肉ついてきたと思いませんか?」と力こぶを見せた。
「うん、大胸筋と上腕二頭筋がだいぶついてきたな。測定数値にもちゃんと出てるよ」
「ですよね!」
ふだん厳しいことばかり言う辻の肯定的な言葉に、三ツ橋はフンッと鼻息荒く、本気のガッツポーズで喜んだ。
「さっきからなに書いてるんですか」
着替え終えた三ツ橋が制服のネクタイを締め直しながら、堀とレイナが書いている書類を覗きこんだ。
「参加申込書です、インターハイの。選手の情報出さなきゃいけないんです」
「あいつ、どうすんだろ。控えの選手として登録しなくていいのかどうか……」
監督の欄に辻の名前を書きこんだレイナがちらっと辻の横顔を見た。堀も言葉には出さないものの真剣な顔で応じた。自分も試合に出たいという辻の想いに気づいている者は三ツ橋以外にもいたが、これは辻自身が結論を出す問題であり、他人が軽々しく口にできる話題でもなかった。
ずらりと並んだ仲間たちの名前をじっと見た三ツ橋が声を震わせた。
「僕たち本当にインターハイに出るんだ……なんか信じられないな」
舞い上がる三ツ橋に対して、レイナがうなずいた。
「ほんとだよね」
その会話を聞いていた火ノ丸が、「本当はワシもそうじゃ」と言い出した。
「インターハイに出場、しかも団体で出場できるんじゃ。この四月まで部長たった一人だったダチ高相撲部がじゃ。本当は踊り出したいぐらい嬉しいわ」
三ツ橋は周囲を窺って小関がいないのを確かめてから小声で言った。
「何かお祝いしますか? インターハイ出場にこぎつけたことを祝いたいんです」
「祝勝パーティーは焼肉屋でやったろ」
パソコンで作業をしていた辻が会話に混ざった。
「あれは食いトレになっちゃってむしろ苦行 でしたよ! 自分たちのことを祝いたいっていうよりも、部長に感謝の気持ちを伝えたいんです。ここまで相撲部を続けていてくれてありがとうって。サプライズで何かやるのはどうですか?」
「悪くないアイデアじゃのぉ」
火ノ丸がその話に乗ると、やってきたチヒロと佑真が「なんだよ、楽しそうじゃん」と身を乗り出してきた。
「部長にお祝いしませんか? 部長がダチ高相撲部を守り抜いてくれたおかげでいま僕たちがここにいるんですから」
「パーティーか! いいぜ」
「具体的には何をするんだ? インターハイ直前であまり浮かれてらんねぇぞ」
佑真の言う通りだ、と火ノ丸がうなずくと、三ツ橋がぽんと手を打った。
「食事会はいつもちゃんこでやってるようなもんだから、何かプレゼントを用意しませんか?」
「じゃ、駅前の焼肉屋の割引券とかどうだ?」
チヒロの提案に佑真が目を剝いた。
「それ、タダで配られたやつだろ、そんなもんもらったら引くわ」
「聞き捨てならねぇな。これは俺がこつこつと日替わり定食食って日々集めた貴重なスタンプだ!」
チヒロが自慢げにヨレヨレになったスタンプカードを財布から引っ張り出した。
「よく見ろ、肉のランクアップもしてくれんだ」
「あっこれ、期日迫ってますよ」
受け取って見た三ツ橋の指摘に、「ヤベェ、今日も行かねぇと!」と焦った声を出した。チヒロの年季 の入った財布を見た佑真が、
「こんだけの人数で祝うんだから、ちゃんとしたもん用意しなきゃダメだろ。革製の財布とか定期入れとかがいいんじゃねぇか?」
と、まともな案を出した。辻がうなずくと、堀が控えめに手を挙げた。
「いいものを思いつきました。万年筆とか……」
「万年筆!? 随分渋いわね。私はちょっと上質なハンカチがいいかと思ったんだけど」
堀やレイナたちがプレゼント案を具体的に挙げると、皆口々に言いたいことを言い始めた。
「普通にケーキでお祝いしましょうよ!」
三ツ橋が提案すると、
「ケーキね。オーソドックスだが、それもありだな」
佑真がその案に納得した。だが、チヒロが自分の案を蒸し返す。
「ケーキかぁ、焼肉のほうがらしくねぇか?」
「なくなっちゃうものより、記念になるほうがいいでしょ」
レイナの意見に佑真が「さすが礼奈、いいこと言うな。それもそうだ」と相槌を打った。
「なんだよ五條、誰の味方なんだハッキリしろ!」
「じゃあ、やっぱり革の定期入れはどうだ。学生なら必須だろ」
「インパクトが足んねぇんだよ。焼肉割引券が最強だろ。なにしろ、『焼肉』の『割引券』だぜ?」
「言ってる意味がわかんねぇよ」
「ケーキだってスペシャル感ありますよ!」
「万年筆は名入れもできるし記念になります」
「だからハンカチ!!」
部員たちの話し合いはヒートアップして稽古に引けを取らない熱気だ。辻がガタッと音を立てて立ち上がった。
「バラッバラじゃないか!! 合わせる気あんのか!?」
口々に言いたいことを言う部員たちに気圧されて黙っていた火ノ丸が、口ごもりつつ言った。
「そうか、みんな色々アイデアがあるんじゃな」
「火ノ丸もなんかプレゼント考えたんだろ? 言っちゃえよ」
佑真に促されて、火ノ丸は自分のアイデアを語り出した。
「実はの、部長に浴衣なんてどうかと思ってたんじゃ。あの体格だから浴衣が似合うと思ってのぉ。相撲取りはやっぱり浴衣じゃろ」
「浴衣!? どうよそれ?」
思いもつかなかった意外な案にレイナが驚いた声を出した。
「浴衣も悪くねぇかもだけど、サイズっていうかよ、部長の体に合う浴衣って普通に売ってんのか?」
その筋肉質で大きな体のせいで着るものに困ることがあるチヒロの言う通り、サイズのことまで考えていなかった火ノ丸は、無理な案だったかと肩を落とした。
「やっぱり文房具とか……」
「だからハンカチはどうなのよ」
「美味しいケーキ屋さん知ってるんです」
「定期入れは無難だぜ」
「焼肉究極!!」
再び収拾がつかなくなり辻が頭を抱えたとき、
「なに盛り上がってるの? 俺も入れてよ!」
と、最後まで筋トレとストレッチを続けていた小関が息を弾ませて稽古場から部室に入ってきた。全員が、いえいえなんでもありませんよーとそれぞれ下手 な演技に出た。一斉に視線を泳がせ、白々しい顔で知らんぷりをすると、小関はおろおろして火ノ丸をつかまえた。
「ねぇ、なんで俺ハブられてんの? なんだよ、教えてよ」
「なんでもない、駅前の焼肉屋がうまいかまずいか議論になっとっただけじゃ」
「あ、あそこか! 日替わり定食うまいよね!」
スタミナ次郎は出禁喰 らっちゃったし、駅前のは付いてるワカメのスープがなんか好きでさーと笑う小関を見て、ドキドキしていた相撲部員たちは胸をなで下ろした。得意げなチヒロが勝利を確信してボディビルのポーズを取ったのを皆ため息混 じりに見ると、そのまま一緒に学校を出てそれぞれの家路についた。
辻は学校を出ると、急に電話をかけると言い出し、校門前に残った。
「もしもし」
「おお、辻君? 待ってね、いま親方に替わるから」
街灯の下でひとり通話をしていた辻はしばらくすると拳を握 って喜び、満足そうに電話を切った。
一方、火ノ丸は渾身のアイデアだった浴衣が叶 わなそうなことを残念に思いつつ、他に小関が喜びそうなものを考えていた。皆が挙げていたプレゼントも思い出してみたが、どれも心がこもっていいようでいて、やはり物足りないように感じた。
「部長にはやっぱり相撲に関係するようなものをあげたいんじゃ」
暮れゆく街を車窓から眺 めながらひとり考えたあと、そうじゃ、と思いついたように言って次の駅で電車を降りた。家とは違う方角の電車を乗り継いで、住宅街を駆けるようにして通り抜け、緊張した面持ちで戸を叩 いたのは柴木山部屋だ。もう日はとっくに落ちていて、突然の客に寺 原拓哉は驚いた。
「お、火ノ丸どうしたの。こんな時間に」
「夜分遅くすんません。お願いがあって来ました」
火ノ丸の改まった様子に寺原が焦った表情を見せた。
——稽古……いや、さすがにいまからってことはないよな。これだけ思いつめた顔をしてるってことは、やはりまた関取 と朝稽古を再開したいとかそんなことかな。まさか……。
「……また怪我した?」
玄関先で寺原は恐る恐る尋ねた。緊迫した空気が流れた。
「え?」
「いや、不安そうな顔してるから。急な話なんだろ?」
「あ、いや、すみません。違うんです。思いついたが吉日でなんも考えず来ちまいました」
火ノ丸は再び改まった顔をして言った。
「柴木山部屋Tシャツ、売ってもらうことはできんじゃろうか」
寺原は一気に緊張が解けてよろよろと倒れそうになった。そして火ノ丸の肩をパーンと叩いた。
「なんだ、やめてよ、ほんと驚かすなよ! 稽古か怪我かそれとももっと悪い知らせかとか考えちゃったじゃねぇか!」
きょとんとした火ノ丸が、自分があまりに真剣な表情をしていたのに気づいて、緊張を緩 めて頭をかいた。寺原は喜んで火ノ丸を部屋に上げた。ちょうど食事時だった部屋にはちゃんこのいい匂いが漂 い、下位の力士が料理を囲んで楽しそうに夕飯を食べていた。寺原はグッズが置いてある棚をあさってTシャツを探した。
「おお、潮君! 元気そうだね!」
「インターハイまであとどのぐらいなの?」
「こんばんは。お食事中すんません。あとひと月でインターハイです」
「絶対勝ってよね。みんな応援してんだから」
力士たちから次々とあたたかい言葉をかけられて、火ノ丸は心からありがたいと思った。自然と顔がほころぶ。柴木山部屋で受けた稽古、親方が便宜 を図ってくれた数々の恩恵を想い、やはりこの戦いは自分一人で挑 むものではない、仲間や応援してくれる人たちあってのいまの自分なのだと肝に銘じた。
「ないや、ちょうど切らしちゃってる」
寺原が困った顔をして火ノ丸を振り返った。
「次は来月末にならないと入ってこないんだよ。Tシャツ入荷したらあげるから取りに来てくれる?」
「そうですか……」
火ノ丸ががっくりしてしまったのを見た寺原が「ストラップじゃだめ?」と訊いた。
「実は部長に感謝の意をこめてサプライズでプレゼントしようってみんなで話し合ったんです。ワシが柴木山部屋Tシャツ着とるのを羨 ましがってたんで、それがいいと思って。じゃあ、何か他のものを考えます」
なあんだそういうことかと皆思ったものの、その日にはTシャツは間に合わない。何かいいものはないかと寺原が一緒になって考え始めたとき、奥の扉が開いた。
「火ノ丸ちゃん、なにどうしたのこんな時間に」
火ノ丸が口を開くより先に、柴木山親方は、手を取らんばかりにして火ノ丸をちゃんこの前に座らせた。
「なに? 困ったことがあった? いいからちゃんこ食べていきなさい」
それを聞いたちゃんこ番の薫富士が電光石火で皿と箸を取って有無を言わさず火ノ丸に握らせると、すぐさま白米をてんこ盛りにし始めた。
「あ、いや」
遠慮する間もなかった。ちゃんこのたっぷり入ったどんぶりを渡され、またたく間に食事の支度が整 うと、その意気に圧されて火ノ丸はちゃんこのツユを一口飲んだ。それは出汁 が効いていて、鶏の脂が甘く染 み出し、本当に味わい深いちゃんこだった。
「うまい! いただきます!」
吹っ切れたようにリラックスして目の前の食べ物に箸を伸ばし始めた火ノ丸を見て、皆笑った。わいわいとおしゃべりをしながらの食事は、いつも家で静かに取る食事と対照的で、余計にたくさん食べられ、滋養が染みこんで身になっていくような気がした。
「部長にプレゼントなんて、ほんとに君たちは仲がいいんだねえ」
座りこんだ柴木山親方が感心した声を出した。
「ワシらは本当にいくつもの試練を一緒に乗り越えてきた同じ相撲部の仲間じゃから。そんじょそこらのチームメイトや友達とはわけが違うんです」
うん、と柴木山親方がうなずいた。
「アマチュアは団体戦があるから特にね。それが懐かしい、未だに好きだという力士もいるぐらいだよ」
それを聞いた火ノ丸は余計に、このダチ高での相撲が大事でかけがえのないものに思えてきた。三年の小関と佑真は来年の春卒業だ。このメンツで戦えるのは今年が最後、そう思うと心が奮 い立ち体中に力が漲るのを感じた。
「プレゼントね。心配しなくて大丈夫。いい知らせがきっとあるから、どーんと構えて待ってなさい」
柴木山親方の落ち着き払った態度に、火ノ丸も、小関のことはなにかいい方向にいくだろうという気がしてきて、安心してちゃんこに食らいついた。