夕柳台(宮本深礼)
天色という色がある。雲ひとつない快晴の空を思わせる鮮やかな青色のことだ。
青色には緊張をほぐし、集中力を高める効果があるという。仕事に詰まった漫画家が机を離れて外に飛び出すのは、原稿を催促する編集者から逐電するためでも、アシスタントの呆 れた眼差しから逃れるためでもない。吸いこまれるような天色を目にして素晴らしい〈アイデア〉を得るためなのだ。
漫画家である岸辺露伴も御多分に洩 れず、天色の空の下で公園のベンチに座り、スケッチブックを広げていた。
「……やはりいいな。外は」
柔らかな陽射しが心を温め、緑の香りが鼻先をくすぐった。
既にいくつもの〈アイデア〉を思いついていたが、露伴のさらなる目的は〈アイデア〉ではなく〈リアリティ〉を得ることにあった。次の読切作品に活かすべく、子供たちが公園で遊ぶ姿をスケッチしたかったのだ。
以前はカメラに収めていたのだが、昨今、子供たちの防犯意識は異常なまでに高まっている。大人が挨拶するだけで防犯ブザーを鳴らし、横を通り過ぎたら防犯ブザーを鳴らし、視界に入れば防犯ブザーを鳴らす。カメラを向けるなど論外だった。
その点、スケッチブックを介せば警戒されることなく子供たちの様子を記録することができた。今時の子供はどんな玩具に夢中になり、どう遊ぶのか。収獲は上々だ。
(ぼくが〈子供の頃〉は家で漫画ばかり描いていたが……他の連中はどんな遊びをしていたっけな……誰かが持ってきたボールをシェアして、蹴ったり投げたり転がしたりしていた気もするが。それと……そうだ。棒だ。手頃な長さの木の枝や棒っきれを見つけては、馬鹿みたいにはしゃいでいた)
そして、この公園の子供はというと。
誰かが持ってきたボールをシェアして蹴ったり投げたり転がしたり、手頃な長さの棒っきれで馬鹿みたいにはしゃいでいた。
つまり変わらないということだ。今も昔も。いかに防犯意識が高まろうとも、子供たちはボールと棒っきれに夢中になる。そういう遺伝子でもあるのか。それとも馬鹿だからか。
(まあ、馬鹿だからだろうな)
露伴がそう結論づけたとき。
バイィ〜〜〜〜ンッ……
飛んできたボールがベンチを直撃し、足下に転がった。じんわりと伝わる振動に顔をしかめていると、続けてなにか滑ってきた。棒っきれだ。
「すンませェ──ん! ボール投げてくださァ──いっ!」
「あと棒も! 棒もォ〜〜!!」
悪びれもせず子供たちが叫んでくる。あと少しズレていたら、ベンチではなく人に当たっていたかもしれないのに。
露伴は彼らの顔をたっぷり数秒見つめたあと、足下に視線を落とした。
「これを投げればいいのか?」
子供たちが頷く。露伴はスケッチブックをわきに置くと、億劫そうに腰をあげてボールと棒っきれを拾いあげた。
「いいとも」
応じるや否や、露伴は公園に隣接する民家の庭にボールを投げ入れた。続けて棒っきれを膝でへし折り、〈くの字〉に曲がったそれも投げこむ。
「たしかに投げてやったからなッ!」
「ああああぁぁぁぁぁっ!」
口をあんぐりと開け、子供たちが絶叫する。棒っきれで遊んでいた子供は事の次第を理解できていないのか、ぼけーっと青っ洟 を垂らしていた。
「いいぞ! その表情が欲しかったんだッ!」
露伴は悪魔じみた笑みを浮かべ、彼らの表情を目に焼きつけた。今時の子供の仕草、所作、喜怒哀楽は見せてもらったものの、もうひとつ〈リアリティ〉のために必要な情報があった。〈深く絶望した顔〉だ。青っ洟の垂れ具合も悪くない。
「これでまた漫画に〈リアリティ〉を注ぐことができるよ。どうもありがとう」
駆けて行く子供たちを目で追うと、彼らはチャイムも鳴らさず民家に雪崩れこんでいった。家主のものであろう悲鳴が聞こえてくる。
「……さて」
防犯ブザーを鳴らされる前に帰るとするか。
そう思い、振り返ると──
「…………?」
いつからそこにいたのか。
露伴が腰かけていたベンチに、ひとりの少年がいた。
年齢は六、七歳といったところ。座面で四つん這 いになり、スケッチブックを覗きこんでいる。ペラペラと紙をめくるが、ラフなイラストを〈絵〉として認識できないらしく、不思議そうにページをいったりきたりしていた。
(なんだ? この小僧……さっきの連中の仲間……って感じでもないよな。こんな奴いなかったはずだが)
片目を細め、少年を見下ろす。
「おい。なに勝手に触ってるんだ? そのスケッチブックはぼくのだぞ」
声をかけるが、少年は一瞥をくれただけで、すぐにまたページをめくりはじめた。
あからさまな無視。露伴はこめかみが引きつるのを感じた。
「この……ッ」
腰を落とし、少年に顔を近づけてからスケッチブックに指を突きつける。
「ガキすぎて言葉の意味がわかんなかったのか? 汚い手でベタベタ触るなって言ったんだ。その、スケッチブックに、触るんじゃあ、ない」
幼子に言葉を教えるように、一語ずつ句切って語りかける。そこまでしてようやく、少年は顔を上げた。きょとんとした表情で目をぱちぱちと瞬かせている。
「…………」
露伴は少年と見つめ合ったまま、じっと待った。何時間でも待つつもりだった。
この少年が〈謝罪の言葉〉を口にするまで。
無為な時間ではあったが、露伴から折れるつもりは微塵もなかった。
この少年はどう謝ってくるのだろう。露伴は想像した。やはり子供らしく〈ごめんなさい〉か。それとも親にしつけられていて〈申しわけございません〉か。自分の愚行を恥じるあまり、赤面して顔を伏せるだけという可能性もある……もちろん、どれであろうと許すつもりはなかったが。
見つめ合っていた時間は一分ほど。
結局、少年は──
なにも言わず、スケッチブックに視線を戻した。
「おいッ!!」
思わず声を荒らげ、少年の胸ぐらに手が伸びる。そのときだ。
「ケンちゃん! なにしてるの!」
見知らぬ女が叫びながら近寄ってきた。おそらく、この少年の母親だろう。
女は一瞬、犯罪者でも見るような目で露伴を睨んだが、少年が眺めているスケッチブックに気づくや、自分の想像が早合点であると理解したようだった。
「まあっ……!」
少年の腰に手を回し、しゃんと座らせてから、女は頭を下げた。
「すみません、うちの子が勝手に……ほらケンちゃんも。お兄ちゃんに〈ごめんなさい〉しなさい」
ぺこりと、少年も頭を下げる。
「…………むう……」
どうしたものかと露伴は唸った。出会い頭の女の眼差 しは、はっきり言って気に食わなかったし、少年に至っては既に不愉快を極めていた。けれど、揃って謝られているこの状況で怒鳴り散らすのは……さすがに人目が気になり、自重する。
「いや……いいんだ。気にしないでくれ」
他にかける言葉もなく、それだけ言う。もはやこんな親子に時間を割くよりも、先ほど見た〈深く絶望した顔〉をスケッチしておくほうが大事だった──が。
「まあっ!」
女は先ほどとは異なるイントネーションの声を発し、露伴の指先からスケッチブックをかすめ取った。
「あッ⁉」
慌てて声をあげたが、女は止まらなかった。無遠慮にページをめくり、目を丸くしたり、首を傾げたりしている。
「よく見たら、とっても……その、個性的? と言えばいいのかしら。味があるというか……よくわからないんですけど…………そう。お上手! ひょっとして、漫画とか描かれてたりするんですか?」
(こ、こいつ……)
やはり怒鳴って追い払えばよかった。
(なに勝手に見て無難な評価を下してるんだ? 味があるってのは〈他に褒めるところがない駄作〉につけるコメントなんだぜ?)
それが〈漫画〉に対する感想であったなら露伴は激昂 していただろうが、女が見たのはあくまで〈スケッチ〉だ。とはいえ、価値観の合わない奴と話を続ける義理もない。
露伴は早々にその場から立ち去ることにした。
ため息をつき、スケッチブックを返してもらおうとしたとき。
「漫画家の先生なら、不思議な話をたくさん知ってますよね。アタシにもひとつ、不思議な話があるんです」
ぴたりと、露伴の手が止まる。
「なんだって?」
「ですから不思議な話があるんです。漫画にしたならきっと……収入でビルが建ちます」
「いらないよ、ビルなんて。金のために漫画を描いてるわけじゃあないしな。でも……不思議な話って言ったか? 卵を割ったら黄身がふたつありましたとか、猫が一〇匹も子猫を産みましたなんて話じゃあ、どうネタにしたってビルは建たないぜ」
露伴は鼻で笑ったが、女は笑わなかった。
少年の隣に腰かけたまま、真剣な顔で露伴を見上げている。
「……マジで建つような話なのか?」
露伴も表情を正した。
彼にとって金や名声などどうでもよかった。肝心なのは〈それほどまでに不思議な話〉なのかどうかということだ。
(お喋り好きの女がどこかで仕入れた話を語りたいだけ……それなら用はない。穴でも掘ってそこに叫ぶがいいさ。だが……もしその話がこいつ自身の体験談なら……)
そこには濃密な〈リアリティ〉が詰まっているはずだ。
「すみません、ビルは言いすぎました……でも、不思議な話というのは本当です。よかったら聞いてくれませんか。もう終わった話ではあるんですけど、この子にとっては……そうじゃないんです」
そう言って、少年の肩を抱く。
「…………」
スケッチブックが差し出される。露伴は黙ってそれを受け取った。
〈深く絶望した顔〉を描くのも忘れ、早々に立ち去る決意も忘れ、露伴は女の目を見つめた。彼女の目は〈お喋りで時間を潰 そう〉だなんて、つまらないことを考えている主婦の目ではない。もっと真剣な、誰かに語らないと押し潰されてしまいそうな、深い闇を抱えている目だった。
「いいだろう……」
少年を挟む形で、露伴はベンチに腰を下ろした。
「あんたの話に興味が出てきた。ほんの少しだがな」
女の顔が、パッと明るくなった。