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ミス・シャーロック ノベライズ

ミス・シャーロック ノベライズ

著者:木犀あこ
脚本:丸茂周 小谷暢亮 政池洋佑 及川真実 森淳一
名探偵シャーロック・ホームズとその相方ジョン・ワトソンが、「もし現代の東京にいたら」「二人とも日本人女性だったら」という視点で描かれる新たなホームズ! 性格に難ありなイギリス生まれの日本人捜査コンサルタントであるシャーロック(竹内結子)と、正義感あふれる優秀な元外科医・橘和都(貫地谷しほり)が挑む奇怪な事件とは。現代の東京を舞台に人間の心の闇に迫る事件を解決するなかで、唯一無二の"バディ"になっていく姿を描く。HuluとHBOのタッグによる、史上最も美しいシャーロック・ホームズをノベライズ!

最初の事件


 乾いた空気の機内で、シートベルト着用を促すアナウンスが響く。本を置き、眠りから目覚め、地上へ降り立つ支度を始める乗客たち。飛行機はゆっくりと高度を下げていく。

 たちばなは顔を上げて、近づいてくる東京の街並みを見下ろした。懐かしい。本当に。静かに息をつく。機内でずっと読み返していた手紙に、再び視線を向ける。きっと君のことだから、困った人を放っておけないなどと言って、気丈に旅立っていったことだろう──流れる文字が、幾度となくなぞった言葉が、すり減った心にしみわたっていく心地がした。

 機体の高度がさらに下がる。地上が近づく。和都は便箋を封筒にしまい、確かな厚みのある手紙の束をじっと見つめた。丁寧な宛名書き。花の咲いた梅の枝の切手。浮世絵の一部だろうか? さりげないもののすべてが、あの地での自分を励まし、救ってくれたことを思い出す。

 そう。和都は帰ってきた。この国に。自分の生まれ育った世界に。

 自らの無力を思い知らされた、かの国──混迷の続くシリアから。

 

「……あ!」

 到着ロビーへと出た和都は、懐かしい顔を見つけて、思わず走り出してしまった。

みず先生!」

 先生と呼ばれた水野たかゆきも、手を上げて和都を迎える。穏やかそうな笑顔に、ゆったりとしたふるまい。和都のよく知る水野の姿そのままだ。

「おかえり。元気そうだな」

「はい! 先生も」

「無事でよかった。安心したよ」

 和都は声を詰まらせる。不意に湧き上がってきた胸の痛みをこらえ、精いっぱいの笑顔を返した。

「手紙、ありがとうございました。何度救われたかわかりません」

 水野は笑う。そんな大それたことは書いていない、とでも言いたげな顔だ。

「ほんとです、私の心の栄養剤で、いつもリュックに入れて持ち歩いていて──

 どん、と、くぐもった破裂音が響く。

 手紙を取り出そうと、背中のリュックに視線を向けていた和都は、わけもわからずに水野へと顔を戻した。その体が崩れ落ちていく。火薬のにおいが鼻をつく。ロビーを行きかう人々が、不思議そうに立ち止まった。

「先生?」

 水野はぴくりとも動かない。ざわめきが広がっていく。和都は倒れた相手へと飛びつき、うつぶせになった体を抱えるようにしてひっくり返した。

「先生、先生……!」

 恐ろしい予感に駆られ、和都は真っ赤に染まった水野のシャツを破る。血のにおいがぶわっと立ち込め、すぐそばにいた女性が大きな悲鳴を上げた。丸くえぐり取られた腹部。露出した骨。ぐずぐずに破壊され、真っ赤な血の中に沈んだ──水野の臓器であったものたち。

「ビニール袋を」

 和都は言葉を漏らしていた。医者としての経験が、とっさにその行動を取らせていた。

「ビニール袋をください! 早く!」

 差し出されたビニール袋を手に巻き、和都は水野の腹部を必死で押さえる。それがもう何の意味もなさないのだということを、頭ではわかっていながら。

 

「……驚かれたでしょう」

 和都は手の震えを抑えたまま、れいもんと名乗った男──警視庁刑事部捜査一課の警部だと聞いた──の声を聞くともなく聞き、小さく頷いた。到着ロビーは騒然としている。遠巻きに現場を見つめる搭乗客たちは、隅の椅子に座る和都に気づく様子もない。ここまで和都を連れてきた若い警官のしばが、礼紋に向かって口を開く。

「被害者は水野隆之、四十九歳。外科医師です。こちらの女性は被害者と以前同じ病院で働かれていた方で、本日シリアから戻られたそうです」

 礼紋は和都にねぎらうような表情を見せ、こくりと頷いた。くしゃくしゃの髪に丸い眼鏡、なんとなくつかみどころがない印象の男だ。礼紋は手にしていたスマートフォンをぽん、と柴田に手渡し、間延びした声で続ける。

「柴田ぁ、これで遺体の写真を撮っといて」

「またあいつに送るんですか!?

「話は早いほうがいい」

 柴田は不機嫌な犬のように強く顔をしかめるが、礼紋はがんばれ、とひらひら手を振るだけ。運ばれていく遺体を勢いよく追いかけていった部下を見て、何がおもしろいのか、はっはと愉快そうな声を漏らしていた。和都は目を見開く。どこかイタチを思わせる顔つきの礼紋と、しっかり視線が合った。相手はもう笑っていない。かすれた声が飛んでくる。

「被害者の妻が署に到着したそうです──ご同行願えますか」

 

 はね警察署の廊下は暗く、ひっそりと静まり返っていた。重いスーツケースを転がしながら、和都は前を歩く礼紋と柴田の背を懸命に追う。廊下の先、灰色の扉の前に見知った顔を見つけて──思わず荷物を放り出した。相手のそばへと駆け寄っていく。

さん!」

 水野隆之の妻、亜紀子だ。真っ青な顔をしている相手に向かって、和都は深く頭を下げる。

「ごめんなさい、水野先生、私のことを迎えにきて、それで、こんなことになってしまって……」

 亜紀子は何度も首を振る。呆然とした表情のまま、それでも和都の罪を否定するかのように。

「水野さん、お願いします」

 礼紋が丁寧に声をかけ、和都と亜紀子をそっと促す。和都は亜紀子の肩を抱いた。顔を見合わせて頷き、ゆっくりとその背を押す。押し開けられる扉。和都たちがその部屋の中を覗き込むよりも早く、礼紋がふたりの視界を遮るように立ちはだかり、声を上げた。

「シャーロック! 何してる?」

 ぐちゃぐちゃと、何やら柔らかいものをかき混ぜるような音が聞こえてくる。横たわる死体の上にかがみこみ、その腹部に空いた穴を探る人物。内臓の破片が順序よく……としか言いようのない手さばきで取り出され、ステンレスの皿に移されていく。

 亜紀子がその光景を認め、ひいっと息を吞む。和都もまた呆然としながら、薄闇の中に浮かび上がる女の姿に、目とすべての意識を奪われていた。

 流れるように整えられた、アシンメトリーのショートカット。長い手指と脚。鼻筋はしっかりと通り、その黒々とした目つきも、どこか鋭い猛禽類のような印象を与える。迷いのない動きが、まったくもって非の打ち所のない肉体の造形のすべてが──和都の心を捉えていた。神が作り出した完璧なるもの。幾何学的に、数学的に、ひとつの歪みもなく完成された存在。

 しかし、目の前で繰り広げられる容赦のない光景は、そんな和都の陶酔をあっさりと吹き飛ばしてしまう。シャーロックと呼ばれた女はピンセットで何かをつまみ上げ、憐れみも悪意もいっさい感じさせない口調で言い放った。

「検視に決まってるでしょ。経験値の少ない医師にピントのずれた検査でもされたら、死因や犯人に繫がる証拠を見逃す」

 シャーロックはピンセットで拾い上げたものを、からりと皿に移す。和都からはそれが何であるのかを確かめることができない。遺体の腹部をシートで隠した礼紋が、話を逸らすように口を開く。

「……送った現場写真は見てくれた?」

「見たいところがいっさい写っていない。あれなら観光客に撮らせたほうがまだまし」

 シャーロックは血の付いた手袋を外し、切り捨てるように答えた。はあ!? と声を上げた柴田を止め、礼紋が静かに続ける。

「わかった、気をつけるよ……。被害者のご遺族がみえてる」

 刺すような視線を投げられ、和都は亜紀子の肩をつかむ。和都たちを一瞥したシャーロックは、迷いのない手つきで亜紀子と和都を順に指さした。

「あなたが奥さん。で、そっちのあなたは外科医。ボランティアの医療スタッフで、今日シリアから日本に戻ったばかり」

 和都は目を丸くする。身を震わせた亜紀子に向かって、シャーロックはさらに続けた。

「確認して。遺体」

 亜紀子は和都の顔を見、傍に控える二人の刑事の顔を確かめて、シャーロックに視線を戻す。やがて呆然とした表情のままで、ふらふらと遺体に向かって歩き出した。その目が青白い死者の顔を捉える。体がびくりと跳ねる。亜紀子はその場に崩れるようにして座り込んだ。口からは激しい嗚咽が漏れ、まともに呼吸ができていない。

「亜紀子さん!」

 その体に縋りつこうとした和都を、容赦のない声が止めた。

「旦那さんの行動や様子について、奥さんにいろいろと聞きたいことがある」

 シャーロックだ。泣き崩れる亜紀子をしれっと見つめるだけで、その声には気遣いも思いやりもまったく込められてはいない。和都は拳を握る。亜紀子に代わって、強く返す。

「……日を改めるわけにはいきませんか?」

「捜査を急ぐの。そうじゃないと、また同じことが起こる……ねえ」

 亜紀子はびくりと身をすくめ、無表情に自分を眺める女を見上げた。和都はまた言葉を返そうとするが、今度は礼紋の苦々しい声に先を越されてしまう。

「何かわかった?」

「小型の液体爆弾が、体内で爆発した」

 シャーロックは自分の腹を手でぽんと叩き、和都たちから離れるように歩いていく。内臓の破片と血がこびりついた皿を手に取り、亜紀子とふたりの刑事、そして和都に視線を投げる。

「きっと『デビルズ・フット』って呼ばれてる高性能爆薬。極小量でも破壊力は大きい」

 シャーロックが傾けたステンレス皿の中を、亜紀子以外の全員が覗きこんだ。小型の機械のようなものが血だまりの中に転がっている。

「それをこの起爆回路のICを使って爆破した」

「……そんなものを、どうやって被害者の体に埋めこんだんだ?」

 礼紋は亜紀子にちらりと視線を投げるが、肝心のシャーロックにはそんな気遣いも届いていないらしい。しゃがみこんだ亜紀子を覗きこみ、口調を変えずに問いかける。

「最後に被害者と会ったのはいつ?」

「……今朝、です。夫は……朝早くに出かけました」

 和都は胸を突かれたような心地がして、汗のにじむ掌をぎゅっと握った。亜紀子は答えようとしている。また同じことが起こる、という恐ろしい予言に、立ち向かおうとするかのように。

「変わった様子は?」

「特にありません……」

「あなたも医療関係の仕事?」

 亜紀子が目を丸くする。シャーロックは無表情にその様子を見下ろしている。和都は亜紀子の前に立ちふさがるようにして、冷徹な視線から彼女を守ろうとした。しかしシャーロックは視線を外さない。和都の体を貫くようにして、なおも亜紀子を見据えている。

「薬剤師を、しています」

 亜紀子がかすかな声で答える。シャーロックが畳みかけるように問う。

「子供は?」

「いません」

「できないの? それともつくる気がないの?」

 遠慮のない言葉に、和都は眉根を寄せた。礼紋と柴田も顔を見合わせている。

「性交渉は週に何回? あなた、外で処理するタイプ?」

 亜紀子がひいっと声を漏らす。胸を押さえ、また激しく呼吸を乱す。かろうじて冷静さを保っていた心が、その場違いな質問で完全に壊れてしまったかのように。かがみこんだ柴田がその背をさすろうとするが、触れていいものかどうかと迷ったのか、なぜか和都に許可を求めるような視線を投げてくる。シャーロックはそんな三人を一瞥して、軽い声を飛ばしてきた。

「元気になったら教えて」

 かつかつと響く足音。シャーロックは振り向きもせずに安置室を出て行く。和都は唇を嚙んだ。大股に一歩を踏み出す。かがみこんだままの柴田に声をかける。

「亜紀子さんのこと、お願いします!」

「えっ、ちょっと」

 素早く部屋を飛び出すが、追う相手の足取りは速く、もうその背は突き当たりの角を曲がりかけていた。和都は走る。去っていこうとする姿に言葉を投げる。

「待ってください……待ってください!」

 シャーロックはぴたりと足を止めた。振り返りはするが、眉のひとつも動かしてはいない。

「亜紀子さんは、ご主人を亡くされたばかりなんです。警察官だからって、無神経にもほどがあるんじゃないですか!」

 和都は叫んだ。シャーロックが口を歪めるようにして笑う。感情をむき出しにしている人間が、面白くてたまらないとでもいうかのように。

「それのどこが悪いの? それに私、警察官じゃないけど」

「えっ?」

「私には独自の職業がある。言うなれば捜査コンサルタント。犯罪心理学の専門家で、警察では解決できない難解な事件を捜査している──礼紋警部とはちょっとした知り合い。食えない男だけど、私に捜査を任せるだけの知恵と権限だけはある」

 ゆっくりと近づいてくる姿を見ながら、和都は呆然としていた。おかしな警官か何かだと思っていたが──捜査コンサルタントとは? 相手がすぐそばで立ち止まる。歪みのひとつもない顔が自分を見おろしている。和都は不思議にその場から去ることもできずに、言葉を放っていた。

「……どうしてわかったの? 私が医者だって」

「スーツケース。警部があなたにかわって安置室の入り口まで引っ張ってきていた。そこに縫合糸を巻く練習をしたあとが残っている」

「……シリアは?」

「腕時計が時差で六時間遅れている。ちょうど三日前にシリアの病院が爆撃を受けて、ボランティアの医師団が一時帰国してるから、あなたもその一員だったんじゃない?」

 和都は薄く唇を開いたまま、何も言い返せないでいた。捜査コンサルタントという聞きなれない名称。超然とした、現実の一枚上の次元を歩いているかのような態度。この、シャーロックという人間は──言葉を漏らそうとしたところで、心臓が強く跳ねる。

 すぐそばまで顔が迫っていた。吐息の熱さえ感じられる距離で、低い声が和都の皮膚を震わせる。

「爆薬の臭い。RDXトリメチレントリニトロアミンとアルミニウムの混合火薬」

 和都は身をすくめる。耳の奥によみがえる爆音と悲鳴。その鮮明な余韻も、涼やかなにおいと体温が離れるのと同時に、ふっと遠ざかってしまった。

「行っていい?」

 シャーロックはくるりと体の向きを変え、今度はいっさい立ち止まろうともせず、暗い廊下を足早に歩いていく。

 和都はしばらく動くこともできずに、その場に立ち尽くしていた。耳の奥にはまだあの低い声の余韻が残っている。相手の姿が廊下の角を曲がって見えなくなっても、その足音が聞こえなくなっても、まだ動くことはできなかった。体と心の全てを何かにとらわれたようで、声のひとつも出すことができなかったのだ。

 

 風のひとつもない坂道。塀に囲まれた家々の前を通り過ぎるたびに──和都は目に入る景色を、なんの変哲もない風景を、不思議な気持ちで見つめていた。見慣れたはずの日本の街並みが、当たり前ではないもののように思える。つい数十時間前にはまったく別の世界を見ていたというのに。

 和都は歩みを止め、手に持った礼紋警部の名刺と、相手から聞き出した邸宅の住所の番地をもう一度確かめた。221B。じろだいの住宅街にあるどでかい家だから、すぐにわかりますよと言われていたが、なるほど。高い塀と木に囲まれた洋館を決然と見上げて、和都は塀の呼び鈴を押した。わずかな間を置いて屋敷の扉が開き、上品な婦人が門扉まで迎えに出て来てくれる。

「はいはい、はい。ああ、お電話くださった橘さんですね。どうぞ」

 和都は深く頭を下げ、婦人の招きに応じて敷地内へと入る。ふわりとした短い髪に、柔らかな表情と声。電話口で応対してくれたという女性に違いない。

「あなたも相談ごと?」

「ええ、まあ──

 波多野のあとについて歩きながら、和都は言葉を濁らせた。安置室でのこと。しばらくは立ち上がることもできなかった亜紀子。署内で続けられた聴取──礼紋は去り際に和都に名刺を渡し、何か気になることがあれば連絡を、と告げてくれていた。狭苦しいビジネスホテルで眠れない夜を過ごし、和都は朝一番に礼紋の携帯に電話をかけたのだ。シャーロックと名乗った女性にもう一度会いたい。彼女の話が聞きたい、と。波多野は和都にまた微笑みを見せ、朗らかな声で話を続けた。

「色んなかたがひっきりなしに来られるから。賑やかでいいですよ」

「すみません、いきなりお邪魔して……あの、彼女のお母さまですか?」

 波多野は子供のようにころころと笑い、和都に向かってかぶりを振ってみせる。

「シャーロックにはお部屋を貸しているだけ。昔ご両親にとてもお世話になったから、ささやかな恩返し」

「……あの、シャーロックって本名ですか?」

「もちろん、本名は別にありますよ。ある出来事がきっかけで、自分のことをそう呼ぶようになったの。それで周りの人もね。あとは、そう、いつか本人に聞いて」

 和都は首をかしげる。波多野はまたにこりと笑って、重々しい玄関扉を引き開けた。

「どうぞ。気をつけて」

 どうやら土足のままで上がるらしい。波多野のあとを追って、和都も黒々と磨かれた廊下を歩いていく。突き当たりの部屋の前で足を止め、波多野はびっくりするほどの大きさで扉をノックした。和都は思わず飛び上がる。部屋の中からは声のひとつも返ってこない。

「お、お留守ですかね?」

「ん~ん。集中すると他のことが何も聞こえなくなっちゃうの。シャーロック! シャーロック! 開けますよ!」

 開けますよ、という前に、波多野はその扉をがちゃりと押し開けていた。なぜか化学薬品のにおいがする。波多野について部屋へと入り、和都はその異常な光景に目を見開いた。

 落ち着いた調度品がしつらえられた洋風の室内は、それこそ足の踏み場もないほどにごちゃごちゃとしている。部屋のそこかしこにびっしりと貼られたメモに、あちらこちらに脱ぎ散らかされた服。本格的な実験器具の数々に、多種多様な標本。なぜか片隅にはよく磨かれたチェロも。これが一個人の私室なのか? あまりにもいろいろなものが詰まりすぎていて、あまりにも混沌としすぎているではないか。それでいてまとまりがあるようにも思えるのは、不思議でしかない。

 当のシャーロックは窓の下のデスクでパソコンに向かっている。入ってきた和都たちのほうを見ようとはしない。

「シャーロック! お客様!」

 波多野の声にようやく振り返り、シャーロックは和都を見据える。その眉がぴくりと吊り上がった。勢いのいい言葉が飛んでくる。

「何その服? 大学時代に買ってそのまま着続けている。着心地や耐久性ばかり優先してファッションを楽しむことなんか考えたこともないタイプで──

「シャーロック! 失礼なこと言わないで!」

 波多野が声を上げる。いや、昨日はどうもとか、少し言いすぎましたとか、そういう言葉の一つもないのかと、和都はあんぐりと口を開けた。どうやら服のことをバカにされたらしいと気づいて言い返そうとするが、突然放り投げられたものに気を逸らされ、それも忘れてしまう。深い緑のトレンチコート──「エルメス」。わかりやすいほどのハイブランドではないか。

「なに、これ」

「そっちのほうがマシ。着て。視界に美的センスのないものが入ると脳の働きが鈍る」

「え? いや、なんであなたに服の指図受けなきゃならないんですか!」

「そのコート、あげる。前にバラバラ殺人の遺体包んだから、ちょっと汚れが取れてないけど」

 裏地にべっとりとついた染みを確かめて、和都はコートを床に放り投げた。身を乗り出す。また背を向けようとするシャーロックに、強い口調で返す。

「私のことは放っておいてください。水野先生がなぜ殺されなければならなかったのか、知っていることがあったら教えてほしいんです」

 シャーロックは興味もなさそうに眉を上げ、すぐにパソコンのモニターに目を移した。画面には人間の消化器官のモデル図と、胃の中に達する錠剤のイラストが表示されている。製薬会社のHPだろうか。和都は鞄をさぐり、水野からの手紙を取り出して、いっこうに注意を向けようとしない相手の鼻先に突き出した。その視線がようやく画面から離れる。和都はさらに言葉を続けた。

「水野先生が私に送ってくれた手紙です。慣れない土地で心が折れそうになる私を、この手紙が救ってくれました。そんな水野先生がどうしてひどい殺され方をしたのか、私はその理由を──

 シャーロックはしばらく、扇形に広げられた封筒の束を鋭く見つめていた。やがて顔を上げ、愉快そうな口調でたずねてくる。

「水野の死因を追うのは──好奇心? 真相の究明?」

「真相の究明です」

 和都は間を置かずに答える。たとえ鼻で笑われようとも、尻込みしちゃだめだ。自分は全てを知りたくて、水野を殺した犯人を追いつめたくて、ここに来たのだから。唇を嚙む。相手の目を見て頷く。口を開こうとしたところで、デスクの上の携帯端末がけたたましく鳴り響いた。

 通話に応じたシャーロックは、ひとことふたこと短い言葉を返したかと思うと、満面に笑みを浮かべた。住所を復唱して電話を切る。嬉しそうに声を上げる。

「また遺体が出た。水野と同じ死因」

 和都や波多野が言葉を返す暇もない。シャーロックは勢いよく椅子から飛び降り、コートと鞄をひっつかんで、あっという間に出入り口へと駆け寄っていった。一度だけ振り返って、和都へと優雅に手を振ってみせる。

「では、ごゆっくり」

「待ってください」

 和都は答えた。一歩を踏み出す。足を止めた相手に向かって、はっきりと返す。

「私も一緒に行きます」

 シャーロックは目を見開いた──突然人間の言葉をしゃべったネズミでも見るような目だ。やがてその頰を引き上げ、さっきよりも楽しそうな笑みを浮かべる。

「……どうぞ。医師の意見なら聞いてあげる」

 こい、と手招きする手。和都はひとつ息を吸って、足早に歩くその背を追い始めた。

 

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