序章
「っ゛あー! やっと頂上っ……」
ほとんど崖のような岩場の頂に這い上がり、はたけカカシはうんざりと息をついた。
火の国を出て、二十日。
昼夜を問わぬ移動を続け、景色も気候もすっかり様変わりした。
視界の果てまで続くのは、月を素手で割ったように無骨な荒れ地。荒涼とした山々の連なりの向こうに、人の造った街並みらしきものが小さく小さく見えている。
長い道のりだったが、ようやくここまで来た。あと三つ四つ山を越えれば、とうとう目的の国に到着だ。
温泉あるかな……。
地形から考えて望み薄だとは知りつつも、前向きな希望を胸に抱いて、カカシはかかとでガリガリと斜面を削りながら崖を滑り降りた。身体を覆うマントがはためいて、くすんだ崖肌に深緑色の軌跡を残していく。
向かうは、烈陀国。周囲にそびえる頂の目を盗むようにして、山間の平地にひっそりと作られた都市国家だ。外界からほぼ完全に隔絶されたこの国は、半ば伝説のような存在で、数々の詩にうたわれては五大国の人々の想像をかきたててきた。
岩と砂ばかりの山脈に忽然と現れる、恵み豊かなオアシス。四季を通して水と緑にあふれるこの土地で、人々は何世紀も変わらぬ自給自足の生活を重ねながら、おだやかで美しい日々を生きる。古の時代には、あの六道仙人がこの地を気に入り、連れの獣とともに静養した──それが、詩にうたわれる烈陀国の姿だ。
しかし。
現実の烈陀国は、詩人が伝える長閑な世界観からは、遠くかけ離れていた。
ここが……本当に、あの烈陀国なのか?
首都に入ったカカシは、眉間のしわを深くして、周囲を見まわした。
町は、鬼に憑かれたように淀んでいる。
乾いた風が砂塵をはらんで吹き抜けるたびに、干からびたような死臭が鼻を突いた。
あたりは恐ろしいほど静まり返り、人の話し声はおろか、鳥の鳴き声すら聞こえない。路肩に打ち捨てられた荷車の上には、やせ細った山羊の死体がいくつも無造作に積まれているが、死臭の出所はここだけではなさそうだ。
切り出した岩を敷いた道の両側には、この地方に特有の、日干し煉瓦を泥で積み固めた長屋が並んでいる。大きさからして、おそらくほとんどが民家だろうが、肝心の住民たちはどこへ行ってしまったのだろう。
飢饉でもあったのか──?
嫌な予感を覚えながら、中心部に向かって歩を進める。
この町の標高は、およそ四千メートル。すっかり酸素のあせた空気が胸に詰まって、自然と呼吸が浅くなる。
風の音にまじって衣擦れの音を聞き、カカシは足を止めた。
音のした方に視線を向ければ──茶色く変色したハコ柳の木陰に、小さな子供が倒れている。
駆け寄って子供を抱き起こしたカカシは、まずその軽さに驚き、骨を抱いたのかと思うほど痩せた肩に驚き、そして、窪んでミイラのようになった頰に驚いた。弾力を失った肌にはくっきりとしたしわが浮き、こけた両頰の皮は、頰骨に引っかかってかろうじて顔に貼りついているだけのように見える。
栄養失調と、脱水症状だ。
「水、飲める?」
脅かさないよう静かに声をかけると、子供は窪んだまぶたを重たそうに持ち上げた。黒目がゆっくりとカカシの顔を向く。しかし、それさえ辛いようで、すぐにまた目を閉じてしまった。
カカシはマントを脱いで枝にかけ、日影を作ると、手のひらの上でチャクラを練り合わせた。水遁で作った水を、子供の口の端に向けて少しずつ零してやる。皮の剝けた唇から、栄養不足で白っぽくなった舌がのぞいて、カカシが落とす水を力なく舐めとった。
カカシの手のひらを満たすほどのわずかな水を、子供はずいぶんと時間をかけて飲みきった。
小さな身体を抱き上げ、民家の壁に背を預けるようにして座らせる。子供は、小さな声でお礼を言うと、胸に抱えた布の塊をカカシに向かって持ち上げた。
「……この子にも、お水……ちょうだい」
麻を編んだ粗い布にくるまれて、赤ん坊の顔があった。土気色の小さな頰に軽く触れると、すでに冷たくなっている。
カカシはチャクラを練り、指先にのせた丸い水を、小さく開いたままの赤ん坊の口の中に流し込むふりをした。水のほとんどは口の中に入らず布に吸われたが、子供は赤ん坊が水を飲んでいると勘違いしたのか、安心したように目を閉じた。
この子の親は、どこにいるのだろう。近くの家の戸を開けると、室内はきちんと片付いていて、荒れた様子はなかった。カカシは、部屋の隅に積まれた茶碗をいくつか手に取ると、水遁の水をなみなみ溜めて、子供のそばに並べた。
「ごめんね」
そんな言葉が、喉に貼りついた声で出た。何をどう謝っているのか、自分でもよくわからない。
子供が飢え、赤ん坊が死んでいる。
──一体、この国に何があったのだろうか?
町の中心部は、さらにひどい有様だった。
ガリガリに痩せた死体が、あちこちで砂にまみれている。茣蓙でくるまれているものもあれば、野ざらし同然のものもあった。古い死体は真っ黒に変色して、下っ腹がガスでぱんぱんに膨れている。まだ新しいものは、表皮のあちこちに、中から弾けたような水疱が散らばっている。
他殺らしい死体が見当たらないこと、遺骸の身ぐるみがそっくりそのまま残っていることが、せめてもの救いだった。少なくとも、暴動や虐殺が起こったわけではないとわかる。
長屋通りを抜け、拓けた道に出たところで、やっと生きている大人を見つけた。背中の曲がった老婆が、干し草を背負って運んでいた。
「見かけない顔だね」
カカシが声をかけるより先に、老婆の方から話しかけてきた。
「あんた、この地区の住人じゃないだろう。一体どこから来たんだね」
「えーと……」
カカシが烈陀国へ来たのは、七代目火影からの要請による。その内容はもちろん極秘で、一般の市民に対して身元を明かすわけにはいかない。
「どこから来たと思います?」
逆に問うと、老婆は「変なことを聞くね」と顔をしかめた。
「そうさなあ、服がずいぶん埃っぽくなってるみたいだから、きっと峠を越えて来たんだろう。薙苓村からかな?」
「ええ、その通りです」
カカシが話を合わせてうなずくと、老婆は黄色い歯をむき出しにしてからからと笑った。
「ほうら、当たった。道理で顔色がいいわけだ。薙苓にはまだ、水がたくさん残ってるって言うからねえ。うらやましい限りだよ」
「ほかの住人たちはどこに?」
「大人はみんな、遠くに水を汲みに行ってる。私は足手まといになるから留守番だ。行って帰ってくるだけで半日はかかるからね」
老婆は、両肩を上げて干し草を背負い直すと、深々とため息をついた。
「まったく、やっと洪水の水が引いたと思ったら、今度は水不足だ。先王が亡くなってから悪いこと続きだよ。」
「……先王が、亡くなった?」
「知らなかったのかい?」
老婆は、不思議そうにカカシの顔を見た。
「去年の今頃、突然ね。病気だとか食べ物にあたったとか、いろんな噂が流れたけど、どれが本当なんだか」
「それでは、今は誰が王を?」
「長女のマナリ様が跡を継いだよ。いくら薙苓に住んでるったって、そんなことも知らなかったのか?」
「長らく病に臥せっていたもので」
「ああ、そりゃあ大変だったね」
老婆が、同情するように目を細めてカカシを見る。
「水不足はいつから始まったんですか?」
カカシが聞くと、老婆はしみの浮いた眉間を歪めた。
「……こんなこと言いたかないけど、マナリ女王の治世になってからだよ。雨が降らなくなったのは」
午後になって、水を汲みに行っていた人々が戻ってきた。肩に担いだ天秤棒の先に、水の入った木桶を提げている。まだ年端のいかないような子も、壺や水瓶を諸手に抱えて運んでいた。
「一体いつになったら、雨が降るんだろうなぁ……」
肩をさすりながら、一人の男がつぶやく。長い距離を往復して、みんなすっかり疲れ果てているようだ。
人々を手伝って水を運びながら、カカシは桶の水に視線を落とした。渓谷にわずかに残る水源から運んできたというその水には、細かな土や苔が混じっていて、とても飲料用にできるとは思えない。
「こんな水でも、飲むしかないのよ。ほかにないんだもん」
カカシが水面に浮いたボウフラの死骸を指ですくいとるのを見て、日に焼けた若い女が苦笑いで話しかけた。
「あんた、薙苓村から来たんだって? びっくりしたでしょう、首都がこんな有様で。渓谷の水源もどんどん干上がっていて、水を汲める場所はもうほとんどないの。一か所だけ、じめじめした日陰の池にまだ水が湧いてるからなんとかなってるけど……そこも、もうすぐ枯渇しそう。そうなったら、この町は終わり」
「どっかの村に逃げようにも、馬なんてねえし。早く雨が降ってくれないと、俺たちはみんな死んじまう」
別の男が、ため息をついて、空を見上げた。
海よりも空に近いほどの標高のせいか、空は紗幕を渡したように青く深い。糸くずのような消えかけの雲が、ゆっくりと尾根をかすめて流れていく。
カカシは、ひび割れた黄土の大地に視線を落とした。
水不足。
カカシが事前に得た情報によれば、乾燥気候のこの地において、国を潤すのは国王の役目であるはずだ。王は、王家に伝わる「水鈷」と呼ばれる法具を使って、水を操り雨を降らせる。
それが上手く機能していないということは──カカシは、首都の中央にそびえる石造りの王宮を仰ぎ見た。
おそらく、問題はあそこにあるのだろう。
やがて陽が傾いて、日陰と日なたの境が薄くなり始めると、王宮の最上階に真っ先に明かりがともった。外はまだ十分に明るく、鳥だって余裕で空を飛んでいるというのに、もう貴重な行灯を使い始めるくらいだから、おそらくあそこが王の居室なのだろう。火影室しかり、指導者の居所は人々を見渡せる高い場所と相場が決まっている。
カカシは、空が暗くなるのを待ってから、夕闇に紛れて城の壁を上った。あたりをつけておいた部屋をのぞくと、思った通り。部屋の中央に立った少女は、王族の象徴である橙色のガウンを羽織っていた。女王マナリだろう。
歳は十代半ばくらいだろうか。まっすぐな黒髪を、肩の下まで伸ばしている。うつむいているので、顔はよくわからない。手には、円環のついた金色の杖を握りしめていた。
「あれが、水鈷か……」
カカシは小さくつぶやいた。話に聞いたことはあっても、実際に目にするのは初めてだ。
女王のほかに、部屋にはもう一人いる。深紅の法衣を着て、灰色のひげを胸まで伸ばした老人だ。
「マナリ様、ご決断を」
老人が、強い口調で女王に迫った。胸元に金糸で縫われた牡丹の刺繡を見るに、おそらく彼が宰相だろう。王の片腕を担う立場で、王家を除けば国内で一番の権力者、のはずだ。
「餓死者は日に日に増えるばかり。このままでは、飢饉が近郊の村々に及ぶのも時間の問題です。すでに手遅れの状況ですが、今からでも、最善の策を打ちましょう」
「それは……もちろん、私も、そうしたいと思っています。でも、どうしたらいいのか……」
水鈷を握りしめたマナリの手が震え、円環から垂れた金属の飾りがシャンと音を鳴らした。
「私が、水鈷を使わなくてはいけないことはわかってるんです。でも、また暴走させたらと考えると、どうしても勇気が出ない……」
「恐れながら」
宰相が、嗄れ声で進言した。
「使えないものを無理に使う必要はないでしょう。ご心配されているように、もしもまた暴走させて洪水を起こしたら、今度は、畑が流されるだけでは済まないかもしれません。我らの首都が壊滅すれば、この国は機能不全に陥りましょう」
「でも……この国の王たちは、何世紀もの間、水鈷を使って土地を潤してきました。彼らにできたのですから、私にもきっと……」
「マナリ様」
宰相は、大きなため息をつくと、垂れたまぶたの陰から女王をじっと見つめた。
「歴代の王はみな、初めて水鈷を手にしたときから立派に使いこなされたと記録にあります。誰に習ったわけでなくとも、触れたときからその使い方がはっきりとわかったと。しかし、残念ながらマナリ様はそうではなかった」
青ざめたマナリの顔をのぞき込み、宰相は、猫を撫でるような声色で続けた。
「マナリ様のせいではありません。おそらく、水鈷を扱うには、生まれつきの能力が必要なのでしょう。マナリ様は、たまたま、それを持ってお生まれにはならなかったというだけです。適性のない道具に、無理に固執する必要はない。水鈷を使って水を生み出せないのなら、別の方法で手に入れるまでです」
宰相が窓の方へ歩いてきたので、カカシは窓際から少し距離をとった。宰相の足音が止まる。彼が今、窓から首都を見下ろしているのだとしたら、カカシの目に映っているのと同じ光景が見えているはずだ。
煤けた夜陰に沈みつつある、砂塵まみれの煉瓦の町。あちこちの路上でほたが燃え、人々が群がって暖を取っている。
渇ききったこの土地で、人々はそれでも生き延びようと必死だ。だが、きっと長くはもたないだろう。もしもこのまま、水不足が続くのなら。
「……ナナラは、まだ水鈷を試してないわ。あの子なら、もしかしたら扱えるかも」
部屋の中で、マナリが力なく言う。
宰相は、町を見下ろしたまま、フンと鼻で笑った。
「あの落ちこぼれに、何をさせようと言うのです」
「宰相、失礼ではないですか」
マナリの声が、初めて、少し尖った。「ナナラは私の弟で、王族の一員です。……一応」
「失礼しました、マナリ様。つい、本音が口をついて出たもので」
宰相は、振り返って慇懃無礼に謝罪すると、咳ばらいをして続けた。「ナナラ様は今、薙苓村にお住まいです。毎日、ろくに勉強もせずに遊びほうけていると聞く。まぁ、やんちゃな方ですから……水鈷を使いこなせる器ではないでしょう。あてにはできません」
女王の正面に立ち、宰相は居丈高に迫った。
「マナリ様。ご決断を」
「私は……」
マナリは押し黙り、しばらく凍ったように動かなかったが、やがて、「わかりました」と言葉をしぼり出した。
「もう二度と、水鈷を使いません。あなたの言う通りにします。この国のために、できることをします」
「決まりですな」
宰相は鷹揚にうなずくと、老いた手のひらを胸の前で重ね合わせた。
「国内に水が無いのなら、他国から奪うしかありません。──戦争をしましょう」
良くない状況だ。
人知れず城壁を伝い下りたカカシは、そのまま壁にもたれて思案した。
ここへ来たのは、とある情報を手に入れるためだったが──どうも、放っておけるような状況ではないようだ。人災によって国は疲弊し人々は飢え、それなのにあのバカ宰相は、言うに事欠いて他国に戦争を仕掛けようとしている。
マナリになぜ水鈷を扱えないのか、現段階ではなんとも言えない。しかし、おおかた発動になんらかの条件があるのだろう。例えば、使えるのは男性だけとか、口寄せの術のように契約が必要だとか。先代の王が急死したため、使用条件が正しく伝わっていないのかもしれない。
「ま。調べてみないことには、なんともね……」
ひとりごちて、カカシは王宮を振り返った。この建物の内側は、おそらく宰相の独裁に染まっている。侍女や官僚になりすまして潜入したところで、女王にたどり着くには時間がかかるだろう。
それよりも──
宰相が言うには、薙苓村にマナリの弟が住んでいるらしい。彼に近づくのが手っ取り早いように思われた。王宮から離れた場所なら宰相の目も届きにくいだろうし、何より元第七班担当上忍としての血が騒ぐのだ。「落ちこぼれのやんちゃ坊主」と聞いてしまっては。
首都から薙苓村までは馬で三日ほどかかると、昼間会った老婆が言っていた。カカシの足なら、数時間もあれば着くだろう。
問題は、どのように接触するかだ。
■
草の匂いのする風がふきぬけて、杏子の木がざわざわと葉を揺らす。
先王の長男・ナナラは、遊び仲間のスムレと一緒に、原っぱを駆けまわっていた。
「くくく、六代目火影め。今こそ決着をつけてやろう」
「ふふふ、桃地再不斬よ。お前こそ、早く謝らないと、すごいことになっても知らないぞ」
「問答不要だ! いくぞ、水遁・大瀑布の術! ブシャアアア!! 」
「くっ、そっちがそうなるなら、俺は……紫電を放つ! ブオオオオ! ドゥクシッ!」
二人は六代目火影ごっこの真っ最中。やかましい足音に驚いたバッタが、朝露を散らしてぴょんぴょん逃げていく。
「覚悟しろ、再不斬め! いくぞ! 土遁・どりゅーへきッッ!! 」
声を張りあげたスムレが、落ちていた木の枝を拾って振りかぶる。すると、ナナラは急に真顔になって、しらけたように、じとっとスムレをにらんだ。
「おいスムレ、まじめにやれ。土流壁はでっかい土の壁を作る防御の技だぞ! それじゃあクナイを振りまわしてるようにしか見えないじゃないか」
「あぁ、そっか。あれ? 忍犬を呼び出す技はなんだっけ?」
「それは、追牙の術! まったく、お前なんにも覚えてないな」
ナナラは、あきれかえってため息をついた。土流壁も追牙の術も、六代目火影の伝説に何度も出てくる超有名技。それなのに、ちゃんと覚えてないなんて、まったくスムレは困ったやつだ。
「ナナラが覚えすぎなんだよ。どんだけ六代目火影が好きなんだっつーの」
すねたようにボヤくと、スムレは持っていた木の枝をぽんと地面に捨てた。
「よし、次は私が六代目火影の役をやる! スムレ、お前が倒されろ!」
「えー。俺、もうちょっと火影やりたいんだけどなぁ……」
「だめ! 私の番だ!」
言うが早いか、ナナラは、ぎゅっと拳を握りしめ、「ちっちっちっちっ!」と口で言いながらスムレに向かって突進した。
「雷遁・雷切!」
勢いよく叫び、スムレの胸に向かって手加減したパンチを繰り出す。
「うわぁっ、効く〜〜っ!」
スムレが、大げさにのけぞって野原に倒れ込む。ナナラはすかさず覆いかぶさって、こしょこしょとスムレの脇腹をくすぐった。
「ぶはっ、ふは、はは、はははははっ、やめろよっ! やめろってば!」
スムレも負けじと、ナナラをくすぐりかえす。
二人は身体中震わせて大笑いしながら、草の上をごろごろとおむすびのように転がった。
「あいつら、朝っぱらからまーた火影ごっこしてるよ。飽きないねえ」
「どうせまたナナラが誘ったんだろう。あいつはいつでも六代目火影の伝説に夢中だから」
山羊を引いて放牧に向かう村人たちが、二人の様子を見守っている。
ナナラが薙苓村に連れてこられてから、そろそろ一年。
以前は、父と姉と一緒に、首都にある王宮で暮らしていた。ここへ来たのは、父が急死して姉が王位に就いた直後のことだ。
王宮は政治の場ですから、子供がいるのはふさわしくありません。ナナラ様は、もっと田舎の方でのんびりお育ちになられるのがいいでしょう。例えば、薙苓村なんてどうですか?
宰相に体よく追い払われたのだということは、子供のナナラにだってわかる。だけど、それでも別によかった。しかつめらしい大人たちに囲まれて、窮屈な王宮に閉じ込められるのはもうコリゴリだ。ここには同い年の友達もいるし、村の大人たちもみんな気さくに話しかけてくるので、自分が王族だということを忘れていられる。
原っぱを駆けまわって六代目火影ごっこをしたり、大人たちに六代目火影の伝説を話してもらったり。薙苓村に来てからの毎日は、楽しくってたまらない。
「ナナラは本当に、六代目火影が好きだなあ」
村の大人は、いつもそう言って笑う。そのたびに、ナナラはむしろ誇らしげに、えへんと胸を張ってみせた。
六代目火影は、伝説の忍者だ。忍者っていうのは、すごい技が使えるとっても特別な連中のこと。烈陀国のず―――――っと遠く、ものすごくたくさん東へ行った先にある「火の国」には、凄腕の忍者がいっぱいいるらしい。そして、六代目火影は全ての忍を束ねる、圧倒的すごさのスーパーミラクルカリスマリーダーなのだ。
「六代目火影なんて、しょせんはおとぎ話だよ」
村の大人は、ときどき、こんなふうに意地悪なことを言う。
「土や雷を操ったりできる人間が、実在するわけがない。六代目火影どころか、火の国だって、実在するかどうか怪しいもんさ」
そんなとき、ナナラは決まって、「そんなことはないぞ!」と力いっぱい言い返すのだった。
「六代目火影は、絶対に絶対に、本当にいるんだ。今も生きてて、火の国で、忍者のリーダーをやってるはずだ!」
「バカなことを言うな。忍者が実在するなら、どうやって何もないところから雷を作ってるんだ?」
「それは……」
細かいところを突っ込まれると、困ってしまう。
六代目火影の物語は伝承なので、細かいところはわからない。雷切にしたって、雷を切るくらいすごい稲妻の技だってことと、あとは千鳥が鳴くような音がすることくらいしか語られてない。だから、火影ごっこをするときには、細かいところを想像で補うのが大事だ。
六代目火影は、お話の中だけの人間で、本当はいない──そう思っている大人がほとんどだってことくらい、ナナラだって知っている。
だけど……。
「ええと、そう、忍者はすごいから、何でもできるんだ! 雷だって炎だって作れる! 父上が言ってたんだから、絶対に間違いない!」
そんなふうに、あんまりナナラが一生懸命に言いつのるので、村の大人も最後には笑って、ナナラの主張を認めてくれるのだった。
ナナラは、六代目火影の伝説を、父から教えてもらった。烈陀国の王だった父は、忙しい合間を縫っては膝の上にナナラを座らせて、六代目火影の物語について話して聞かせてくれたものだ。鬼人・再不斬との死闘や、悪の集団〝暁〟との戦い。巧みな駆け引きで敵を追いつめた六代目火影が放つのは、雷を切るほどの威力を持つという大技『雷切』──ほかにも、同格の威力を持つとされる火遁や土遁の技がある。
父の語る火影の伝説は、いつも最高にワクワクした。
六代目火影は、ナナラにとって、あこがれ以上の存在なのだ。
「ナナラ様、いつまで遊んでるんですか」
マーゴがスカートの裾をはためかせて走ってきたとき、ナナラは真剣勝負の真っ最中だった。原っぱに生えていたひょろっとした栴檀草を引っこ抜き、刀の代わりに振りかぶって、今まさに、スムレ扮する再不斬に斬りかかろうとしていたところだ。
「なんだ、マーゴ。今いいところだったのに」
「お勉強の時間です。お戻りください!」
びしっと言われて、スムレは思わず肩をすくめた。だけどナナラは動じない。マーゴの大声にはもうすっかり慣れっこなのだ。
マーゴは、二十代半ばの背の高い女性で、ナナラとともに暮らして身の回りの世話をしてくれている。一応、公式には宰相の直令を受けた侍女という位置づけなのだが、マーゴは王宮にいた侍女たちとは全然違う。いっつもナナラのことを見張っていて、夕食のゼンマイを残したり掃除をさぼったりすると、飛んできて𠮟り飛ばすのだ。イタズラがばれたときには、大きなゲンコツを食らわせられた。侍女っていうより、親戚のこわーいおばさんみたいな存在だ。
ナナラはえいっと胸を張って、マーゴに宣言した。
「今日は勉強はしないぞ。教えてくれる人がいないからな!」
ナナラはいちおう王族なので、家庭教師がつくきまりになっている。宰相に言われて首都からついてきたのは、すごくおとなしい女の人だった。最初は、王子の専属教師になれるなんて光栄です、なんて言って喜んでいたのに、ナナラがイタズラで背中にイモリを入れたら大泣きして、翌朝には荷物をまとめて出ていったっけ。それ以降、何人もの家庭教師がやってきたけど、みんな半月ももたず辞めてしまった。最近来た中年の男性教師が、ナナラの掘った落とし穴に落ちて 眼鏡を割ってしまい、激怒して出ていったのはつい一週間前のことだ。
「先生がいないから、勉強はできない。だから、遊んでていいんだ」
自信満々に言うナナラを、マーゴは澄ました顔で見下ろした。
「いらしてますよ。新しい家庭教師の方」
うっとうしい宰相のやつめ。もう新しい家庭教師を送り込んできたのか!
せっかくスムレと遊んでいたのに水を差されて、ナナラはすっかり憤慨していた。
まあいいや。どうせ、ちょっとイタズラを仕掛けてやれば、泣いて逃げ出すに決まってる。
「居間でお待ちです」
そう告げて、マーゴがお茶の準備をしに炊事場に入っていく。
ナナラは、泥だらけの靴を引きずって、居間に入った。
壁際に置いた杏子の木の丸椅子に、誰かが座っている。
「遅刻ですよ、ナナラ王子」
落ち着いた、低い声。
椅子に座った誰かが、ゆっくりとこちらを向いた。窓を背にしているせいで、顔が逆光になってよく見えない。でも、しゅっと背筋の伸びたシルエットで、背が高い男だってことはわかる。
陽の光を浴びた銀髪の縁がきらきら光ってまぶしくて、ナナラは、篝に灯した火の影を見るように目を細めた。
「お前が私の、新しい家庭教師か?」
腕組みをして、わざと横柄に聞く。なにごとも、最初が肝心なのだ。子供だからといって、舐められるわけにはいかない。
男が音もなく椅子から立ち上がる。
「はたけカカシと申します」
変な名前だ。特に、苗字の方。
カカシがこっちに近づいてきて、ようやく、顔がはっきり見えるようになる。
とろんとした目つきが眠たそうな、いかにもぼんやりとした男だった。