プロローグ
海賊モンキー・D・ルフィの旅立ちに先んじること三年。
これはルフィの義兄弟、ポートガス・D・エースの物語…………
*
史上ただひとり〝偉大なる航路〟を制覇し、海賊王となったゴールド・ロジャー。その死から、赤子が大人になるほどの時がすぎた。
世は大海賊時代。〝ひとつなぎの大秘宝〟をめぐる海と冒険の世紀。
星の数ほどいる海賊のなかで、〝新世界〟に君臨する海の皇帝たち──彼らを〝四皇〟と並び称した。
世界政府は、勢力を拡大する四皇たちを抑止するチカラとして、マリンフォードの〝海軍本部〟ならびに私掠許可を与えた〝王下七武海〟をもって三大勢力の均衡を為した。
三つの勢力がバランスを失えば、この平和は崩れ去る。
それぞれが強大となるほど、相争うほど、未来は危うくなる。チカラと支配、同盟と反逆。あらゆる欲望と不安の渦を巻きながら、時代は未知なる輝きを帯びていった。
とどまることのないもの──人の夢だ。
*
白い鯨を模した船首が波を分ける。巨艦は荒ぶる海を悠然と進む。
「グララララ……!」
船長室。
椅子に体を預けて、船の主である男は愉快そうに声を漏らした。
──スペード海賊団、ポートガス・D・エース!
──王下七武海入りを拒否!
「〝偉大なる航路〟に威勢のいいガキがいやがる。グララララ……七武海への勧誘を蹴ったって?」
とあるルーキー海賊が、海軍本部中将を返り討ちにして、シャボンディ諸島からコーティング船で出航したという。新聞には、そいつの記事が写真入りで載っていた。
「〝D〟……」船の主は白い髭をさする。「コイツら何年目だ? 若ェのが……そんなに急いでどうする」
「オヤジ、入ります」
船室のドアがひらいて、トレイを持った男が入ってきた。
白い厨房服に膝下丈のズボン、コックタイ──料理人のようだ。
「おう、サッチ。今日のウミガメのスープは旨かったな」
「ウミガメ……? 今日のスープはウミマムシでしたが」
「おう、それだ。腹がカッカしてやがる」
「滋養強壮のスタミナスープですから! で、こっちが食後の薬です」
厨房服の男──サッチは薬と白湯をテーブルに置いた。
「あーん?」
「今日から薬がひとつ増えました。だめですよ、ちゃんと飲まなきゃ」
「おめェは、おれの船医かよ」
「オヤジが薬を飲んでくれないと、おれが船医に叱られます。オヤジひとりの体じゃないんですからね」
サッチがいうと、オヤジと呼ばれた男は不承不承、テーブルに置かれた薬をつかんで口に入れ、白湯で流しこんだ。
「苦ェ」
「良薬は口になんとやら、です。喉に薬が残らないよう、もっと水を飲んでください」
「おめェは、おれのおふくろかよ……」
「わが四番隊は白ひげ海賊団の台所を預かっていますから! あ……そうだ。ジンベエ親分、帰られるそうです」
サッチが思いだしたように手を叩いた。
「なに? もう出たのか」
「いえ……あ、でも、見送りはいらないと」
「アホぬかせ」
男は椅子から立ちあがった。
男は、かつて、あの海賊王ゴールド・ロジャーと覇を競った英傑だ。齢七〇になろうかという老境だったが、四皇の一角として新世界に広大な領海を有し、勢いなお盛んだ。旗印は〝白ひげの髑髏〟──この旗を掲げた土地を侵そうとするなら、一六番までの隊長率いる直参と数十もの傘下の海賊団、あわせて数万という戦力を敵とすることを覚悟しなくてはならない。
エドワード・ニューゲート。
世に海賊〝白ひげ〟と呼ばれる、世界最強の男だ。
そのチカラは大地を、海をふるわせ、島ひとつをたちまち崩し去るという。
船長室を出たニューゲート──白ひげは甲板にあがった。
夜気が肌を撫でる。漆黒の海の只中、船のむかう方角を示すものは星と月、記録指針。では魚は、なにを頼りにして泳いでいるのだろう。おそらく人間にはない特別な感覚があるのだ。それは、たぶん魚人も。
「おう、ジンベエ」
「白ひげのオヤジさん……!」
いま、まさに海に飛びこもうと船縁をのぞきこんでいた男が、声にふりかえる。
身の丈は一〇尺に達する。〝海侠〟ジンベエは、ジンベエザメの魚人だ。
魚人族は、海中で呼吸ができ、一般的に人間をはるかに凌ぐ身体能力を誇る。ただ、まったく別の種類の生物というわけではなくて、人間とのあいだに子をなすこともできた。
「水くせェな」
送らせろや、と。白ひげは小さく笑った。
ジンベエは恐縮したが、白ひげのもとに歩みよると、見あげた。
「実は、マリンフォードに呼ばれておりまして……」
「センゴクか」
「はい」
ジンベエは、かつては人間に敵対した魚人海賊団にいた。その懸賞金は二億五〇〇〇万ベリー。しかし、いまでは世界政府側の立場にあった。
「海軍本部元帥殿は、ジンベエ親分をずいぶん買ってらっしゃるようで」
角灯を提げたサッチがやってきた。
「ええ、サッチさん。まったく七武海ゆうても、みな勝手気まま……」
「まともに海軍本部に顔を出すのは、ジンベエ親分くらいでしょう? 〝九蛇の女帝〟ボア・ハンコックはいざしらず、ドフラミンゴしかり、あのワニ野郎しかり……七武海は自分の稼業しか頭にないやつらばかりだ」
「わしゃ、魚人族の恩赦とひきかえにこのお役目に就きましたので……まァ、これもお勤めだと」
だから王下七武海に名を連ねるジンベエが、いかに旧知の仲とはいえ、四皇・白ひげの船におおっぴらにいるのは憚られるのだった。
「律儀ですねェ、ジンベエ親分は」
「いやいや……七武海の欠員が埋まらず、センゴク元帥も手が足りんのでしょう」
「おう、その話だがな」
白ひげは手にした新聞をサッチにわたした。
角灯の明かりで一面記事に目を通す。
「ルーキーが七武海の勧誘を蹴った……?」
サッチが小さく声をあげた。
「その若造、知ってるか?」
白ひげの問いかけに、ジンベエは新聞をのぞいた。
「……耳にしたことは。ずいぶん手配書が出まわって……自然系、炎の能力者とか」
「シャボンディ諸島でひと騒動起こしたらしい。てことは来るんですかね、新世界に」
サッチはジンベエを、それから白ひげを仰いだ。
「おう、ひきとめてすまなかったな。じゃあなジンベエ、道中達者で」
「はい。オヤジさんも」
白ひげは軽く手をあげて応えると船室にもどっていった。
ズンッ……
海鳴り。彼方の水平線で小さく赤い光の爆発が起きる。
どこかの火山が噴火したのか……サッチとジンベエは、束の間、そちらに気をとられた。
「──サッチさん、白ひげのオヤジさんは……」
「すこぶる元気ですよ。少なくともわるくはなっていない」
「そうですか」
ジンベエの顔に安堵の色が浮かんだ。
「まァ、人間誰でも、歳をとれば昔のままってわけにはいきません。舌が鈍るもんだから、濃い味つけになっちまって、塩分とりすぎないようにしないと……」
「サッチさん。差し出がましいですが、白ひげのオヤジさんのこと、くれぐれもよろしく頼みます。あの人は魚人族の恩人だ」
「わかってますよ、ジンベエ親分」サッチはジンベエの手をとった。「オヤジは、みんなわかってますから」
「はい。では、わしゃあ行きます」
「お気をつけて……あと、そうだ。この新聞のルーキーのこと、なにかわかったら教えてください」
「ええ、気にかけておきますよ。七武海を蹴って新世界をめざすような若造は……」
なにを考えているか、やらかすか、わかったものではないのだ。
ポートガス・D・エース。
その名を反芻すると、ジンベエは船縁から海に飛びこんだ。巨体が、たちまち海の闇の底に沈んで見えなくなった。