2 ルイスとアクアリウム
アクアリウム。
簡潔に説明すれば、水槽で水生生物や水草を育てたりして楽しむ室内娯楽である。
一九世紀の英国はアクアリウムの技術が急速に発展した事でも知られているが、当時は現代のように設備も充実しておらず、水槽管理は必ずしも容易ではなかった。
そして、ここにもアクアリウムの難しさに苦悩する人物が一人。
屋敷の広間に二〇以上も並べられた小型水槽。その中の一つに、その男はじっと視線を注ぎながら身動き一つせずに立ち尽くしている。
容姿は若く端麗。金髪の下に覗く右頰の火傷が痛ましいが、シンプルなデザインの眼鏡と彼自身が持つ空気は理知的な印象を見る者に与える。
しかし今、彼の表情には生まれ持った聡明な雰囲気も台無しなくらいの深い疲労が滲み出ていた。
彼の視線の先で泳ぐ魚の動きは弱々しく、ヒレも折りたたまれている。ただ水の中を漂っているだけという泳ぎ方で、ふとした拍子に水槽の底に横たわってしまいそうだった。
この時点で、出来る事は全てやり尽くした。
後はただ、奇跡を信じて祈るのみ——。
「どうか助かってください……」
ウィリアムの実弟、ルイス・ジェームズ・モリアーティは、切なる思いを込めてそう口走った。
話は一〇日ほど前に遡る。
「庭の手入れお疲れ様です、フレッド。今日はその辺で大丈夫ですよ」
「はい」
屋敷での庭師の仕事を終え、今夜も『犯罪相談役』の窓口として街に出掛けるフレッドを見送ると、ルイスは彼が手入れした花をじっくりと観賞する。
「これなら兄様たちも喜びそうだ」
ふと、そんな事を独りごちる。
ウィリアムに対し絶対の服従を見せる彼にとっては、基本的に個人的な感想よりも兄の価値基準が優先される。
フレッドが丹念に世話をした花壇を一通り眺めてからルイスが温室を出ると、そこに敬愛する兄が立っていた。
「どうしました、兄さん?」
「ルイス、一つ頼みがあるんだけど」
「分かりました。兄さんの頼みとあらば」
ルイスが間髪容れず了解すると、ウィリアムは嬉しそうに頷いた。
「いつもありがとう、ルイス。ここだと風が冷たいから、屋敷で話すよ」
二人は居間に移動して、机を挟んで向かい合う形でソファに座る。ウィリアムはルイスが淹れたダージリンティーを一口すすると、一枚の写真を取り出した。
写真に写っている人物は三〇代と思しき男。亜麻色の髪で顎が尖っており、頰には健康的に肉がついているものの、疑い深そうな目つきが男への近寄りがたさを写真越しにも表している。
「——この方は?」
「名はジャック・ステープルトン。由緒正しき貴族の家系で莫大な資産と領地を有していて、業界では有名な博物学者でもある。過去には新種の蛾を見つけて学会に発表した事もあるらしい」
ウィリアムは彼の華々しい経歴を述べていくが、その語りの裏に隠された真意をルイスも理解していた。
「この男が、今度の標的なんですね?」
しかしウィリアムは否定こそしないものの、やや難しそうな顔になる。
「正確には『標的候補』と言ったところかな」
「候補、ですか?」
「うん。彼には調査目的で訪れた地で密かに違法な人身売買を行っている疑いがあるんだけど、まだ判断が付かない状態なんだ」
ウィリアムたちが依頼を受けた際、万が一にも無実の人を裁いてしまうという事が無いように、対象人物の調査は厳密に行われる。現在ウィリアムは『MI6』の情報網を使ってステープルトンが断罪に値するかどうかの判断材料を集めている最中らしい。
「仮にこの男がクロだとして、MI6の調査力を以てしても尻尾を摑ませないとは、それなりに保身の術に長けているようですね」
「そうだね。でもこのまま調査が長引くのも避けたい。だから僕が直接彼と接触して真偽を見極めようと思う。その為に、少し手間と費用がかかるけど確実と思われる手段を用意したんだ」
「それはどのような?」
ルイスが聞くと、ウィリアムが写真を手に取ってそこに写る男の顔を見つめる。
「彼はかなりの人嫌いとして知られていて、滅多な事では他人と顔を合わせないから、たった一度の面会すら容易ではないらしい。でも博物学者らしく、動植物関係には異常な関心を示すようだ。だからその好奇心を利用する」
するとウィリアムは写真を元の場所に置いて、ルイスと目を合わせた。
「——さて、前置きが長くなってしまったけど、その『手段』についてルイスに折り入って頼みがあるんだ」
「何でもお申し付け下さい」
まだ詳細を明かしていないのに迷いなく返ってきた答えに、ウィリアムも頼もしさを覚えながら話す。
「頼み事というのは、ステープルトンの興味を引く為に海外で採集した魚を用意したんだけど、その魚の管理を暫くルイスに任せたいんだ」
そこでルイスは軽く首を傾げた。
「魚ですか? 先程蛾を発見したという話から、ステープルトンの専門はてっきり昆虫関連かと思いましたが」
「どうやら熱しやすく冷めやすい性格らしくてね。一つの分野にのめり込んだと思うと、すぐに飽きて別の分野に飛びつく傾向があるらしい」
「すると現在彼が関心を寄せているのが魚類なんですね」
「特に熱帯地域の淡水魚にね。なのでそれを今度この屋敷に運び込んで、ステープルトンがその魚たちに関心を示し、見たがるか欲しがるかして接触が叶うまでの期間飼育する事になる」
そこまで説明を受けて、ようやくルイスは自分が指名された理由に思い至る。
ウィリアムには数学教授としての仕事があるし、アルバートはユニバーサル貿易社で働いている。フレッドやモランも仕事の都合で外出する機会が多い。機密保持の関係上、部外者を屋敷で働かせるのも不可。必然的に常時屋敷にいるルイスしか一日中魚の面倒を見られる者がいないのだ。
些か消去法的な人選ではあるが、普段はウィリアムの計画に参加する機会に乏しいルイスにしてみれば、『自分にしか出来ない』という条件は彼のモチベーションを高める結果となった。
兄の役に立てることを実感し密かに気分を高揚させながらも、ルイスは気になった点を挙げる。
「海外の魚となると、飼育法もまだ確立されていませんね」
「一応、飼育途中で魚を死なせてしまっても、ある程度の補充は可能だよ。水槽用の設備は既にヘルダーに開発を依頼してある。他の資材もルイスが必要と判断した分だけ用意させるつもりだ。……僕から伝える用件は以上だけど、他にも何か質問はあるかな?」
人身売買の有無を調べる為の大事な手順とはいえ、相当に手の込んだ計画と言える。
だがルイスは疑問など欠片も感じさせない真っ直ぐな声で応じた。
「大丈夫です。必ずや兄さんの期待に応えてみせます」
弟の返事に、ウィリアムも満足そうに微笑む。それを見たルイスもまた上品に口元を綻ばせる。
こうしてルイスは、アクアリウムに挑戦する事となった。
それから二日後。普段使用していない広間がすっかり様変わりしたのを見て、フレッドは呆然としていた。
「凄い……」
そこには幅五メートルはある大型の水槽が三つ設置され、中には水草と二、三〇匹ほどの魚が入れられている。色彩豊かで個性的な外見の魚たちは時に優雅に、時に力強く水中を泳ぐ姿を見せつける。
「どうですか、フレッド」
圧倒的なアクアリウムの美しさに感嘆しているフレッドへルイスが近付いて話しかける。するとフレッドは水槽に目を奪われながら感想を述べた。
「こんな綺麗な魚、初めて見ました。全て海外の魚ですか?」
「ええ。東南アジア、アフリカ、南米の三箇所で採れた魚たちを特別なルートから手配して取り寄せたそうです。こちらの水質が合うか心配だったので、水も現地の川や池から直接輸送しました」
「スケールが違いますね……」
水槽を満たす水も全て現地調達という徹底ぶりに、フレッドはまたも愕然とする。
「今後もヘルダーさんの作った機材が搬入される予定ですが、現時点ではこれで様子を見ていくしかありません。……おや?」
話の途中でルイスが異変に気付き、水槽に顔を近付ける。
彼の視線の先で、小さなフグが他の魚のヒレに嚙み付いていた。すると他の水槽でも、魚同士が小競り合いを起こす場面が噴出した。
色鮮やかな魚たちには似つかわしくない暴力的な行動に、フレッドが怪訝な顔をした。
「魚同士の相性があるみたいですね」
「ええ。単純に産地別で区分けするだけでは配慮が足りないようです」
対応を迫られたルイスは少し躊躇ってから、水槽に手をゆっくりと入れ、極力優しい手つきで喧嘩を始めた魚たちを引き離す。一旦は争いが収まったのを確認してから、ルイスは溜息を吐いた。
それを見たフレッドが不安げに言う。
「最初からこの調子だと苦労しそうですね。ルイスさん」
「しかし、やらねばなりません。——兄さんの計画の為に」
決意が込められた言葉に、フレッドはルイスの兄への想いの強さを今一度感じ取った。
魚たちの入居から二日が経つと、また広間の様相が変化していた。
窓のカーテンが閉め切られて部屋の中は薄暗い。大型水槽は撤去され、代わりに小型の水槽が二〇個近く並んでいる。水槽の一つ一つには飼育を補助する為の最先端機器が取り付けられている。
飼育担当のルイスはその間を静かに歩きながら、魚の様子を一匹一匹綿密にチェックしていた。
「よう、ルイス。調子はどうだ?」
一通りチェックを終えたところで、モランとフレッドが広間に入ってきた。
ルイスは魚の具合を記したメモを見ながら事務的に述べる。
「今のところ問題はありません。ようやく個々の性質が分かってきたので、今後はより順調に育てていけそうです」
「そりゃ良かった。しかしここも賑やかになったもんだな」
室内を見渡すモランの横で、フレッドは興味深そうに水槽上部に取り付けられた装置を見つめている。
「この機械も飼育に必要なんですか?」
「ええ、濾過フィルターと言って、水質をより良くする働きがあります」
フレッドに問われ、ルイスは簡単にその機能を説明した。万全を期したいルイスは研究を怠らず、ヘルダーに詳細な報告を入れて様々な機器を揃えていた。
このようなアクアリウムの機械化を成し遂げた技術力は確実に時代の数歩先を歩んでいるが、その革新的技術を熱帯魚の飼育目的だけに費やすというのも贅沢な使い途ではある。
しかしモランは稼働する機器を見て訝しげな顔をする。
「しかし今まで自然の中で過ごしてきた奴らを、ずっと部屋に閉じ込めんのは気の毒に思うけどな。たまには外の広い池で泳がせたりしてやれねえのか?」
しかしモランの提案をルイスはやんわりと却下する。
「気持ちは分かりますが、水への適応等の問題も考えてそういった事は控えています」
「じゃあ、せめて水槽ごと外に出して日光浴でもさせてやるとか」
「それも出来ません。水槽に直接太陽光を当てたりすると、コケの発生や水温の上昇といった問題が起こってしまうんです。なので昼夜の違いは照明の光で作り出しています」
「『人工太陽』か。産業発展さまさまだな」
モランの風刺の入った呟きを聞いて、ルイスは水槽に取り付けられた照明を見る。
「この白熱電球など、電気を動力源とする技術はまだ一般的には普及していませんからね。ヘルダーさんの技術は末恐ろしいものを感じさせます」
二人が雑談に興じている間、フレッドは顔を輝かせながら水槽の魚たちを見物している。
すると、そこで広間の扉が開かれた。
一定のリズムを刻む靴音と共に入ってきたのはウィリアムである。
「兄さん」
ルイスはモランとの話を切り上げ、兄へ向き直る。
「仕事の具合は如何ですか?」
「順調だよ。僕たちが熱帯魚を飼育している情報をステープルトンに伝えれば、彼も興味を示すだろう」
「それは良かった。彼との接触が無事成功することを祈っています」
「ありがとう。それに魚たちも元気そうで何よりだ。やっぱりルイスに飼育を任せて正解だったよ」
「これも兄さんやヘルダーさんのご協力のおかげです」
ウィリアムに魚の育成を褒められ、ルイスは謙虚な台詞を言いつつも胸を張った。
兄弟の仲睦まじい様子を年長のモランは微笑ましそうに眺めていたが、水槽に目をやるとふと些細な疑問を抱いた。
「そういえば、この魚はステープルトンとかいう奴と会う為に飼ってるんだよな? ならその目的を達成したら、魚たちはどうすんだ?」
その質問にルイスは少し首を傾げて考え込む。
「さあ……ステープルトンの人間性について知る限り、十中八九、彼は熱帯魚を欲しがるでしょうから、そうなればこのまま全て引き渡す事になるでしょうね」
真顔で返された答えに、モランは驚愕する。
「マジかよ。この水槽の一つくらいは屋敷に置いとこう、とか考えねえのか?」
「いいえ、全く。この魚は全て兄さんの計画を遂行する為に集められた一手段に過ぎませんし、僕の中でそれ以上の感情を持つという事はありません」
「そ、そうか……」
モランやルイスは自分たちがウィリアムと志を同じくする仲間であると同時に駒の一つである事を自覚しており、彼が死を命じればいつでも命を捨てる覚悟がある。
この熱帯魚についても所詮道具でしかないという認識をこの場の全員が共有しているが、それにしても淡泊なルイスの思考に年上のモランも呆れ返ってしまう。
彼らが会話をする横で、ウィリアムは魚たちを見遣った。
「でも本当に健やかそうに泳ぎ回っているね。例えばこのプンティウス・ロンボオケラートゥスなんか色も鮮やかだ」
「ああ、確かそんな名前だったっけ? よく嚙まずに言えるな」
ウィリアムが口にしたのは熱帯魚の名前だ。ルイスが面倒を見られなくなった場合に備えてモランとフレッドも一応覚えてはいるが、どこか堅苦しい感じがあるので、モランはあまりその名前で呼んではいない。
魚の姿を眺めて満足そうにする兄に、弟は嬉々とした笑顔で言う。
「兄さんの審美眼は素晴らしいです。他にもこのミクロゲオファーグス・ラミレジィもオススメですよ」
「うん。綺麗な青色だ。でもこっちのネオランプロローグス・ブリシャールディも個人的には好みだね」
「なるほど。ならば同じアフリカのジュリドクロミス・トランスクリプトゥスやペルヴィカクロミス・タエニアートゥスはどうでしょう」
「……お前ら、仲が良いのは結構だけどな。そろそろその辺にしとかねえか?」
モランが兄弟の会話に目元をヒクつかせる。
だが彼の困惑を無視して、兄弟の専門用語満載の語らいは続く。
「でも実用的な面で言えば、コリアドス・パレアトゥスも餌の食べ残しを掃除してくれるので好ましいです。逆にダディブルジョリィ・ハチェットバルブは蓋をしないと飛び出してしまうし、ボララス・ウロフタルモイデスも混泳させる魚には苦労させられました」
「利便性で言うなら、コケを食べるサイアミーズ・フライングフォックスもルイス好みじゃないかい?」
「ふふ、やはり兄さんは何でもお見通しですね。おや、見て下さい。ナノストムス・ベックフォルディがフィンスプレッドをしています」
「——ストップ! ストーップ! もうその会話禁止だ!」
我慢の限界を迎えたモランが二人の間に割って入る。
だが会話を中断されたルイスは、きょとんとしていた。
「どうしたんですか、モランさん? 折角今からトリプルレッドのアピストグラマ・カカトゥオイデスを兄さんに見てもらおうと思ったのに」
「お前らだけで夢中になって、完全に俺たちが置いてけぼりを食らってんだよ! それにどうしていちいちその面倒臭い名前で呼ぶんだ!? 大学の講義じゃねえんだぞ!」
兄と二人きりの世界に浸っていたルイスに向けてモランが叫ぶ。
その横ではフレッドが魚を一匹一匹指差しながら、二人の会話に出てきた名前を呟いていた。ちゃんと自分が魚の名前を覚えているか確認しているのだ。
ルイスは小首を傾げながら言った。
「面倒と言われましても……兄様たちは一発で記憶しましたよ」
「う、噓だろ?」
衝撃の事実に、モランの顔から血の気が引いていく。
「格の違いを感じる……」
フレッドも手を止めて、愕然とした様子で言った。
モランは元々貴族出身でオックスフォード大学を出ているし、フレッドも一定水準以上の頭脳を持ち合わせている。だがこのややこしい名前をたったの一度で記憶してみせたというモリアーティ三兄弟の知能には、二人共驚きを隠せなかった。
「てか、もっと気軽に呼べる渾名でも付けりゃいいじゃねえか」
モランの提案に、ルイスはふむと顎に手を添える。
「渾名ですか……僕はこのままでも支障は無いんですが、簡単な名前を付けるというのは良い案かもしれないですね」
「だろ? ここに来る度に呪文みたいな言葉を聞かされるのはたまったもんじゃねえしな」
「ならば実践してみましょう。ですが余りにもセンスに欠けるようなものは却下ですからね」
するとモランは周囲を見回し、グッピーの群れが泳ぐ水槽に目を留めた。
「そうだな……例えばこの魚は“フレッド”なんてどうだ?」
ルイスは驚いて、眼鏡の奥の目を少しだけ大きくした。
「僕たちの名前を付けるんですか?」
「別にいいだろ。グッピーさんとか呼ぶよか全然マシだ」
「その名前も安直だと思いますが——それにしても何故、グッピーがフレッドなんです?」
「小柄だし機敏に動きそうだろ?」
「そんな単純な理由……?」
楽しげに命名の由来を説明するモランに、フレッドは怪訝な反応を示す。
多少無理があるように見える理屈には、成り行きを見守っていたウィリアムも困り顔でフォローを入れる。
「フレッドは変装技術に長けているんだし、名前を付けるならリーフフィッシュみたいな擬態する魚にしてあげるべきじゃないかな? それにグッピーていう名前自体がとてもシンプルだから、特に名前を与える必要も無いと思うけど」
「いいじゃねえか。こういうのは直感でやるのが一番だろ。とにかく、グッピーは“フレッド”で決定だ」
今回に限っては、モランはウィリアムの言葉に聞く耳を持とうとしない。
熱帯魚を前にやや暴走気味な彼は、また一つの水槽を興味深く眺める。
「お、あいつはたった一匹で水槽を独占してやがるな。孤高って感じがしていい。こいつは“モラン”にするぜ」
モランが自分の名前を付けたのは、飼育初日に他の魚に乱暴したので別の水槽に一匹だけ離した、小型のフグだった。
「ああ、その魚は……」
ルイスはフグが一匹でいる理由を説明したいが、モランの機嫌が良いところに水を差してしまいそうなので話すのを躊躇ってしまう。
そんなルイスの躊躇を、モランは別の意味に捉えたらしい。
「おいおい、もしかしてお前もこいつが良かったのか? 悪いが、俺が貰うぞ。命名の権利は早いもん勝ちだ」
「そ、そうですか。モランさんが良いのならそれで……」
モランが心底楽しそうにしているので、結局ルイスはフグに関する真相は伏せておこうと決めて沈黙を貫いた。
ルイスと同じく飼育初日にフグが仕出かした事を目撃していたフレッドも、何も知らぬモランの様子に少し胸の痛みを覚えながらも、そっと目を逸らした。
すると、彼の視界にある水槽の魚の姿が映った。
「これ、まるでウィリアムさんたちみたいです」
「え?」
ウィリアムとルイスが興味を惹かれてフレッドの視線を追う。
そこで舞うような泳ぎを見せているのは、アクアリウムの王道的存在とも言える、どこか神々しい雰囲気の美麗な熱帯魚。
「——エンゼルフィッシュ、ですか」
フレッドが見ている水槽では、銀に輝く鱗と縦の黒いラインが入った三匹のエンゼルフィッシュが寄り添う形で遊泳している。その親密な様子は固い絆で結ばれたモリアーティ家の三兄弟を彷彿とさせた。
天使を意味する名を耳にしたウィリアムがつい自嘲的な笑いを零す。
「僕たちには最も遠い名称だと思うけどね」
「いいや。ある意味お前らは天使さ。黙示録にラッパを吹き鳴らす方だけどな」
皮肉な言い回しに、ウィリアムはまた「ふふ」と意味深な笑い声を漏らす。
そんな二人の横で、ルイスは見慣れたはずの魚をどこかぼんやりとした面持ちで観賞している。
「ですがフレッドの言うように、この流麗な容姿は兄様たちには相応しいと思います」
「謙遜することはない。ルイスの精神もこの魚に負けず劣らず高潔だよ」
「あ、ありがとうございます。兄さん」
ルイスが照れ臭そうに礼を言う。そしてモランは結束した三匹を見てうんうんと頷いた。
「だったらこいつらの名前は、前から順に、“ウィリアム”、“アルバート”、“ルイス”で決定だな」
「少し照れ臭いね……」
ウィリアムが恥ずかしげに微笑むと、モランは水槽から離れて言った。
「ルイスもフレッドも賛成してんだからいいじゃねえか。んじゃ、俺はそろそろ行くぜ」
「あれ、他の魚は?」
用は済んだとばかりに部屋を後にしようとするモランにフレッドが声をかけると、モランはバリバリと頭を搔いて答えた。
「よく考えたら、魚が多過ぎてキリがねえ。取り敢えず俺たち五人の分だけ付けたからいいだろ」
「ええ……」
モランの奔放過ぎる態度に、フレッドは言葉を失ってしまう。
「…………」
普段ならばこのタイミングでモランに雑用を申し付けるルイスであったが、今の彼はまだエンゼルフィッシュの水槽に気を取られていた。
魚に与えた三兄弟の名前が、ルイスの心に小さな波紋を起こした事に、本人もまだ気が付いていない。