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自殺幇女

    『自殺幇女』コメント

  • 言動が恐ろしくも魅力的なヒラサカコヨミに最後までくぎ付けになる作品でした。この作品のキーとなる柱「欅柱」、ホラーの作品の中にこの運命的な文字を見つけてとても嬉しかったです! 都市伝説から始まる悲劇が怖すぎて……サスペンス性も強く、考えながら読んでいくのが楽しかったです!
    欅坂46 石森虹花さん
  • オカルトとミステリがいい塩梅に混ざった良作。伝奇モノが好きな方にオススメ。
    武蔵野市 ブックスルーエ 福井さん
  • 首吊り事件にまつわる、怪談伝承の謎の真相に向けての展開がミステリー小説さながらで、読み止まらなくなりました。
    喜久屋書店 仙台店 岡崎さん
  • スマホを扱っているので2013~年代のお話かと思いますが、登場人物の口調や建物の雰囲気等が昭和感あって、画をイメージし易かったです。後半は真相が気になって一気読みでした。
    ジュンク堂書店 天満橋店 古波蔵さん
  • 人懐っこい笑顔で、人を死へ導く女性「ヒラサカコヨミ」。 応募原稿でこのキャラに出会った瞬間、その虜になりました。
    担当編集 渡辺
自殺幇女
第1章 68ページ分を無料公開!!

プロローグ

  ──ああ。首をくくらなければならない。

 頭が痛い。吐き気もする。底知れない不安が、姿の見えない恐怖が、私の心の臓をつかんで放さない。

 私はどこにいるのだろうか。白い闇がひしめき合うようにして私の周りをたゆたっている。霧だ。深い深い霧の中だ。私は霧の中に迷い込んだのだ。

 私は「はぁ」と息を吐いた。眼前の霧が散って白い闇が黒い闇へと変わる。同時に再び霧が押し寄せる。もう一度息を吐く。再び霧が、わっと飛び散った。

 私の世界すべてを覆っていたはずの霧は次第に薄くなってあたりを漂っていく。白い闇は紺色の闇へと姿を変え、霧はもやと呼べる程度まで存在を消失していた。

 霧の晴れた濃淡のある暗い闇の中に、不規則に何かが列を成している。夜空を流れる雲の隙間から月明かりが漏れ出ている。この場所には覚えがあった。月光に照らされた不気味に立ち並ぶせきの列。私が立っているのは墓場であった。

「また、ここへ来てしまった」

 乾いた大地を力なく歩いていく。視界にはどこまでも荒涼とした墓場が広がっている。私は道の左右に並んでいる墓石を力なく眺める。墓石には文字が刻まれている。おく──そう彫られていた。

 ああ。あの声がする。まるで地をうような深く低い声。墓場の影を縫うようにして、何かが私の後を追ってくる。汗がほおを伝って地面に落ちた。乾いた大地はまるでそれを欲していたかのように、あっという間に汗を吸い取ってしまう。額の汗をぬぐって、ふと、視界の端に朽ち果てていた墓を見た。隣の墓石にもたれかかるようにして別の墓石が倒れている。その隙間から何かがこちらを覗いている。隠れるように、小さく小さく体を曲げて、墓石の影に身を潜めている。炎のように燃える真っ赤な目玉をギョロリと動かして、こちらを見て何かをささやいている。ああ、あれは鬼だ。小鬼だ。

 どれほど歩いたのか。やがて、私はきつりつする大木の前に立っていた。私を悠々と見下ろすほどの高さがある老木であった。長い年月を感じさせる太く育った幹。天高く伸びたそのじゆかんにはまるで雲のような靄がかかっていて、実寸以上の高さを感じさせる。あちこちへと細かく手を伸ばしたこずえに無数の枝葉がささめくようにして体を揺すりあっている。

 そうだ。木々までもが囁いている。私は耳を両手でふさいだ。地面にひざをつき、目を固く閉じて懇願した。もう、やめてくれ。これ以上は耐えられない。私はあと何回──。

 気付くと、枝葉の囁きはんでいた。恐る恐る目を開くと、老木の手前に先刻まではなかったはずの一本の柱が立っていた。ヒノキ……いや、見事なけやきばしらであった。太く立派なものではあるが、古びて所々が黒ずんでいる。柱にはぎようぎようしい文字の数々がびっしりと彫り込まれている。きようもんだろうか。私は眼前の柱を見上げてほうけていた。

 柱の後ろにたたずむ老木、枝の隙間を縫うようにして一本の縄が垂れ下がっていた。縄は先端で見覚えのある輪を作っている。私の足元で何かがうごめいた。一匹じゃない。赤い目玉、小鬼たちが私を取り囲んでいる。耳元で何者かが囁いた。

 ──首、くくれ。

 私はふらふらと、枝から垂れ下がる縄へと近付いた。輪を両手で握り締めると、枝と縄のこすれるいやな音がした。幾度も聞いたあの音がした。ぎいぎいと。ぎいぎいと。

 ああ。最初からわかっていた。私は声に従うしかない。私にあらがすべはない。私を助けてくれる人はもういない。私に安眠は訪れない。

 輪の中を覗き込んだ。老木が見えた。老木の枝から垂れ下がる縄が見えた。縄で首を吊る人間が見えた。その男は風にでも揺られているのか、縄に首を吊られたまま、いつまでも力なく体を揺らしていた。あの音が聞こえる。ぎいぎい、と。ぎいぎい、と。

 男と目が合った。私のよく知る男の顔だった。

 ──ああ。また、首を縊らなければならない。

第1章

「拝啓

 春の暖かな陽気に包まれて、心地よい眠気に日々幸せを感じている今日この頃。

 貴方あなた様におかれましてはしゆんみんの誘惑に屈することなく、学生の本分である勉学に、遊びに、もしかすると恋愛にと日々はげんでいることかと存じます。

 大学の生活にも慣れた頃合いでしょうか。私の方は知人の誘いで顔を出した同好会が思いのほか居心地よく、私自身の奇異きわまりない趣味こうを誰にねするでもなく、存分に楽しめることに喜びを感じています。

 思えば、貴方とこうして手紙のやり取りをするようになって、もう一年が過ぎてしまいました。よい文具店へと足を運ぶたびに、貴方の最初の便りを手にした日の記憶が今でも鮮明に思い出されます。貴方へ手紙を書く楽しさ、貴方からの手紙を待つもどかしさ。文通を通して、私と貴方、個々の世界の繫がりをまるで物語を読んでいるかのような楽しさやおかしさと共に感じられます。

 同じこんごうまちに住みながら、お互いの顔も本名も知らない。この奇妙な関係がいつまでも続けばいいなと、そう願わずにはいられません。

 これからお互いに忙しい時期になるとは思いますが、どうかお体には気をつけて。

 貴方のこれからに幸多からんことを。

                                    かしこ」

 目が覚めるとそこは自室だった。窓から差し込む日光が室内を明るく照らしている。右手には僕の握力に屈してクシャクシャにつぶれた手紙が握られていた。

 最悪な寝覚めをって、六畳間の真ん中を占有している寝床から体を起こした。首には縄の絡むいやな感触が残っている。「また、あの夢か」と自然と言葉が口をついた。

 僕がこの学生寮に越してきたのは去年のことになる。築三十九年。二階建ての木造建築で、外観こそ古い洋館のていをなしてはいるが、部屋はすべて六畳間の和室となっている。家賃は安いし、大学へも徒歩で十分とかからないことに魅力を感じた。というより、それ以外に魅力はなかった。おにもれいとは言い難いくたびれた外観を筆頭にした、多少の不都合には目をつむって僕はこの学生寮に入居した。

 部屋は角部屋の203号室を選択した。幸いにも隣の204号室はき部屋だったので、僕はしばらくの間、ねなく一人暮らしを楽しむことができた。けれど、それも長くは続かなかった。

 入居してから半年ほどった頃。最初の違和感は音だった。その音は決まって僕が部屋に一人でいると突如鳴り始めた。ぎいぎいと柱やはりきしむような、何かがこすれるような、そんな音だった。

 木造建築の家はりがうるさい、そんな話は耳にしたことがあったので最初は気にも留めていなかった。しかし、その不快な音が聞こえてくるたびに僕の中でたいの知れない恐怖が積み重なっていくのを感じた。六畳間の狭い空間に自分以外の誰かがいるような。その異音がするたびに僕は天井を、壁を凝視した。息の詰まるような、この不快な音の正体。木材が温度変化により収縮して引き起こす亀裂音、本当にそんな単純な音なのだろうか。あたりがしんと静まればすぐにでもその音が聞こえてきそうで僕は身震いした。梁が何かに擦れる音。柱が何かに軋む音。何かが、何かが家の梁に──。

 それからほどなくして、僕はあの墓場で首を吊る悪夢にさいなまれるようになった。

 った気持ちをったまま右手に握っていた手紙を、とんの上に押し広げて丁寧にしわを伸ばした。手紙には流れるように波打つ文字が綴られていて、最後にバツとマルを組み合わせたようなサインが記してある。文通相手であるうしとらさんから届いた返事だ。最初の頃、あまりにも達筆なその文字を四苦八苦しながら読んでいたことを思い出す。

 手紙を眺めてついかいふけっていると、布団に転がっていたスマートフォンが震えた。スマホを拾い上げると、『うえむらおり』からの着信履歴が連なり、メッセージも届いている。アプリを起動して、植村嬢から届いていた未読のメッセージを開いた。

【部室集合。はよ来い。今来い。さっさと来い。おけ? オーケー? OK?】

 僕は肩をすくめて時計を見た。時刻は午前十一時を示していた。

 たくを済ませた僕が部屋を出ると、隣の204号室の部屋の戸もそっと開いた。ちようど、隣に住むいちかわまさくんも出かけるところだったらしい。

「オトメさん。おはようございます」

 こちらに気付いた市川くんが丁寧に頭を下げた。不本意だがオトメとは僕のことだ。本名、乙女おとめきようすけ。だからオトメ。あだ名といえど安易すぎる。

「こんな明るい時間に珍しいですね、今から講義ですか?」

「例によって今日もサボりだよ。部室に顔出せって友人がうるさくてさ」

「そうですか。体調の方はよくなりましたか?」

「……まぁ。おかげさまで。少しはね。君こそ顔色がすぐれないようだけど」

 市川くんも笑顔を作ってはいるが顔色が悪い。目の下には深いクマが出来ている。

「そうですか? 少し寝不足なだけだと思いますけどね」

 愛想笑いをしながら市川くんはスマホを見た。

「約束があるので、これで失礼しますね。また何か差し入れしますので、オトメさんも無理はしないでください」

 彼は小さく頭を下げて、寮の老朽化した階段をギシギシと踏みしめて下りていった。

 市川くんが僕の隣の部屋に越してきたのは去年の暮れのことだった。アパートが火事で焼けて困っていたところ、生協に紹介されたのがこの学生寮の最後の空き部屋。つまり僕の部屋の隣、204号室だったというワケらしい。

 市川くんは僕と同じ大学二年生。学部が違うので、最初はたまに学内や寮ですれ違う顔見知り程度の仲だった。けれど彼が越してきて一か月もすると、部屋が隣同士で彼自身とても気さくな性格ということもあり、いつの間にかすっかり仲良くなってしまった。

 市川くんはとてもマメな男だ。僕が体調を崩していることを気にかけて、この短い期間に何度か見舞いと称した差し入れを持ってきてくれた。この学生寮に越してきた時も、寮生全員の部屋に菓子折持参で挨拶に訪れたのだから驚きだ。彼は自分の歓迎会なのに率先してからのグラスに酒をぎ、いた食器を流しへと運んだ。とにかく気のく男、それが市川くんだった。

 そんな市川くんだが最近ようがおかしい。元々線が細く病弱そうな彼ではあったけど、こちらへ越してきた頃にくらべると輪をかけて不健康そうに見える。常にどこかうわそらな感じで、話していても反応が薄いし表情もどこか暗い。市川くんは利他的なところがある。寮の掃除当番や飲み会の買い出しなど面倒事を率先して引き受ける。本人の性格上、内に悩みを溜め込んで吐き出さず、そういった無理をしすぎるのかもしれない。

 僕は204号室の玄関の戸を眺めながらいつの間にか思案をめぐらしていたらしい。寝不足な頭を軽く揺すって、寮の出口へと向かい歩き始めた。

「おそい! おそい、おそい、おそい!」

 僕が民俗学研究会の部室へと到着するなり、せいでまくし立てたのはあんじよう、同級生の植村嬢だった。つかつかと僕の目前まで迫ってくると、生意気な目つきで僕を見上げた。彼女お気に入りのショートボブは相変わらずで、ぐさに合わせて綺麗に染められたちやぱつがふわりと揺れる。周りからは『お嬢』なんて呼ばれているが本人はその呼び名を気に入っていないらしい。僕がうっかり「植村嬢」なんて言おうものなら、すぐに鋭い視線を向けてくる。

「君からの電話がきて三十分足らずでの到着だぜ? どこが遅いんだよ」

「オトメが最後に部室に顔を出したのが二週間前。その間、既読無視の回数が四十八通、着信を無視した数が実に六十二件! 居留守にドタキャン、その他もろもろの悪行を考慮すると遅いなんてものじゃありません。あまりの遅さにメロスの親友セリヌンティウスなら処刑されているところです」

「んな横暴な……」

 勝ち誇る植村。そんな彼女を尻目に、僕はパイプに腰掛けて一息ついた。自宅から十分足らずの大学に出向いただけで疲労がどっと押し寄せた。

 部室の真ん中を境にして、奥の方は雑に配置された本棚とその本棚からあふれた本の山で埋まっている。それらを照らしている奥の蛍光灯はチカチカとまたたき今にも切れそうだ。

「うっす。ちゃんとオトメもいるな。お嬢共々、そんなに俺の土産みやげが欲しかったか」

 遅れて大げさな荷物をい込んだ軟派な男子学生が部室に現れた。ヘッドバンドで強調されたひたいひときわ目立つ。部員のもりもとよしひこだ。

「自分から呼んどいて、もう。遅刻だよ、もりひこ?」

 植村があきがおで言った。『森彦』とは名字と名前を縮めただけの奴のアダ名だ。植村発案で女性陣にはすっかり浸透したが、男連中は誰もそのアダ名で呼ばない。

「森本。お前どこか旅行にでも行ってたのか?」

昨日きのうまできようとに行ってたんだよ、アルバイトでな。でも車なんだぜ? しかもスポーツカーよ。同行した店長がどうしてもって言うから仕方なくさ。乗り心地も悪くてよぉ、交代とはいえ免許取りたての身に十時間超えの長距離運転はさすがにこたえたぜぇ」

「……いつの間に免許なんて取ったんだ?」

「先月でしょ。お祝いで飲み行こうって誘ったのに、その時もオトメ無視するんだもん。にしてもバイトで京都に旅行なんてうらやましいわよね」

「取材旅行さ。なんせ、写真館のアルバイトだからな」

 森本は誇らしげに首から提げたカメラを構えた。どうやら今はカメラにっているらしい。この男は実に多趣味な人間で様々なバイトやサークルに所属しており、僕がこのサークルに所属しているのも元々は森本に誘われてなかば強引に入会させられたからだ。

「うちの店長、カメラの扱いにがでさ。写真館経営してるのにおかしな話だろ? だからカメラマンとして俺が同行したワケよ。いやぁ、しかしオトメも一目店長に会わせてやりたいな。今度一緒に顔出さないか? これがかなりの美人なんだ」

「美人ならこのサークルでことりてるじゃないか」僕の言葉に植村がぽっと頰を赤らめた。

「いや、君じゃなくて」

「まあ、お嬢じゃないわな」

「……喧嘩売っとんのか貴様ら」

 僕たち三人の演じる茶番を仲裁するように、くつくつと押し殺したような笑い声が室内に響いた。

「いやいや。諸君らの寸劇はいつ見ても実に愉快。いつもは暗くみんけんならぬ『いんけん』などとされる我がサークルの雰囲気がほらどうだろう。見事に華やいだ」

 部室の奥で点滅していた蛍光灯の明かりが、ようやく安定して室内を明るく照らし出した。本の海にれて床にいつくばるようにして倒れている一人の女性。頭にかぶさっていた本がスルリと落ちた。先輩だった。

「ちょっと加賀先輩! 大丈夫ですか!」

 植村が悲鳴をあげた。本棚が斜めに倒れて危うく加賀先輩を押し潰そうとしている。

「いやー、すまないすまない。ちょっとばかし資料本の整理に入ったら棚を倒してしまってねぇ。崩れてきた本に雪崩なだれ込まれると、あれよあれよと睡魔も押し寄せてきて。気付けばこのとおり。ありがたい書物を毛布代わりにすっかり眠りこけてしまっていた。君たちのげんが聞こえてくるまでぐっすりすやすやと夢の中にいたわけさ」

 加賀先輩はその長い黒髪をかき上げて愉快そうに笑った。寝起きの顔には先輩の白い肌に不釣り合いな黒々としたクマが残り、まだまだゆめうつつらしいことがうかがれた。

 僕は加賀先輩の元へと駆け寄った。幸い、手前に設置された別の本棚につっかえて、くだんの本棚は完全に倒れてはいない。「抜け出せますか?」と声をかけた。

「さっきから努力しているんだけどねぇ。どうやら無理らしい。困ったね」

「今助けますから。森本、本棚起こすから手伝ってくれ」

「待って! それならいいものがあるから!」

 植村が嬉々として森本を制すると部室の隅にあった小型の機械を運んできた。黒い外装に覆われて、内部には頑強そうなロープがグルグルと巻き取られている。

「なんだ、それ」

 森本が植村に尋ねた。

「アタシが改造した小型の電動ウインチ。大きさは従来の約半分、両の手におさまるコンパクトサイズ。バッテリーと電磁石内蔵であらゆる局面に対応。最大荷重百二十キロ程度ではあるけれど、それと引き換えに手に入れた携帯性! ある程度のものならこれ一つで引き上げ楽々。つまり、あんたたちの出番はないってこと。おーけい?」

 植村は自信満々にそう言って右手の人差しと親指で輪を作った。その輪に被せるようにして、残りの三本の指を等間隔に開いてみせるのが彼女独特のオーケーサインだ。輪がOで、開いた三本の指でKを表しているらしい。

 植村は機械工作が趣味で、本来は電子工作サークルに属している。それなのに僕と森本が民研に所属すると、なぜか暇さえあれば彼女も民研の部室を訪れるようになり、いつの間にやらこの部屋にも植村の持ち込んだよくわからない基板や工具のたぐいが本に混じってれかえってしまった。知らない人が見ればここを電子工作サークルの部室だと勘違いするんじゃなかろうか。

 植村が張りきってセッティングする様を僕と森本は冷ややかな目で眺めていた。

「成功すると思うか?」

「どうだかな。お嬢製作の機械は人を幸せにしないからな」

 植村が森本の頭を叩いてスマホを取り出し、意気揚々と加賀先輩に声をかけ、スマホの画面をタッチした。最後方の最も重たそうな本棚に設置されたウインチから駆動音が聞こえたかと思うと、加賀先輩を押し潰そうとしている本棚にくくり付けられたロープがギュルルルと勢いよく巻き取られる。ぐぐぐっと本棚が持ち上がった。

「おお。これは驚いた。どうだい、諸君」

 加賀先輩が嬉々として体を動かした。本棚のせいで動かせなかった腕を自由に動かして僕たちに手を振っている。植村が勝ち誇った笑顔を見せて、お決まりのオーケーサインを見せた。引き上げられた本棚は元のように直立しようとしている。

「ウインチ、そこで止めていいよ。あとは僕と森本がやるからさ」

 植村は答えない。彼女は微笑みを浮かべたままスマホの画面をタッチし続けている。ウインチは動きを止めないで、なお本棚を引き上げる力を緩めない。

「植村? 止めていいって」

「……らない」

「なに?」

「ウインチ……止まらないぃ……」

 泣き笑いのような表情でとうの勢いでスマホをタッチしながら植村は言った。

 その瞬間、引き上げられた本棚は勢い余って後方の別の本棚へとぶつかった。飛び散る書物。ギャルルルとロープを巻き取る力をゆるめないウインチ。本棚はしようぎだおしに更に後ろに設置されていた本棚へと勢いよくぶつかり、最終的にはウインチ自体が設置されている最後の本棚が、部室の窓ガラスを豪快にガチャンと破って、電動ウインチはようやくその活動を停止した。見事な大惨事である。

「助かった助かった。多少身の危険を覚えはしたがね? 植村くん、悪かったね」

「せ、先輩。ごめんなさい! こんなことになるなんてぇ」

 平謝りする植村に、本の山からい出した加賀先輩は笑顔を見せて肩を叩いた。

「科学に失敗はつきものだ──なんて、そんな使い古した言葉があるじゃないか。それにこうやって無事私も出られたワケだし。君の力作は大いに役立ってくれたよ」

 加賀先輩は白いブラウスに黒のスリムパンツと、いつものようなラフな格好だった。ろくに掃除もしていない部室の床に倒れ伏していたせいで、その全身がほこりまみれになっている。先輩はブラウスに付いた埃を手でパタパタと払った。

 加賀あおは僕たちの二つ上の学年に在籍している先輩だ。モデル顔負けの長身に、男なら誰もが振り向くぼうを兼ね備えていて男女問わずファンが多い。性格は温厚でとても理知的な人だが、その女性らしからぬ独特な口調と膨大な知識量で人をけむに巻くことを得意とし、他サークルや学生自治会からの勧誘、そして愛の告白(女性含む)をのらりくらりと口八丁でかわしているのを何度か目撃したことがある。

 民俗学というより元から怪談に興味があったらしく、民研──つまり僕の在籍する民俗学研究会、その現会長に誘われる形でサークルへと参加したらしい。しかし現会長が部室に姿を現すことはまれで、僕に至っては一度も会ったことすらない。

 そういう理由で、実際には加賀先輩が会長代理として民研を取り仕切っている。そのせいかもつぱら怪談話に関する資料を集めることが良しとされ、今では民研をもじって『陰険』などと陰では呼ばれ、周りから邪険な扱いを受けているのがこのサークルの現状だ。と言っても、その邪険な扱いをじかに感じているのは僕と森本くらいなものだけど。

「早乙女くん、しばらく。またせたんじゃないか?」

「そう、そうなんですよっ。オトメったら、こんなにせて顔色も最悪なんですよ。見てくださいよ、この体!」

 さっきのしおらしい態度はどこへやら。ヒステリックに言いながら、植村は僕のシャツを胸のあたりまでまくげた。森本が遠慮も気遣いもなく引いた声を出した。

「おいおい。なんだよ、それ」

「これはまた……。私が思っていたよりも事態は深刻だねぇ」

 僕の体を見た加賀先輩がけわしい表情でそう呟いた。

 加賀先輩たちが驚くのも無理はない。僕の体はたった半年あまりで骨が浮き出るほど貧相にせ細っていた。体のあちこちがすじり血色が悪い。不健康そのものだ。すべてがあの悪夢による不眠と食欲不振が巻き起こした結果だ。

「先輩からも言ってやってください。オトメったら病院にも行かないんです」

「ちょっと体調が優れないだけで何てことないって。植村が大げさに騒ぎすぎるんだ」

 植村の手を払ってシャツを雑に着直した。彼女は不服そうに僕をじとっと睨んだ。

「だって、おかしいもん。たったの数か月で、まるで病人みたい」

「……だから何度も言ってるじゃないか。不眠症なんだよ。睡眠不足のせいなんだ」

 悪夢の話は友人たちには秘密にしていた。墓場で首を吊る悪夢、そのせいで眠れない夜が続いているなんて。正気を疑われる気がして話すことが躊躇ためらわれた。

「それに、それを言うなら先輩だって細いじゃないですか。ちゃんと食べてます?」

「ん? ウゥム。それを言われると私も先輩として立つ瀬がないな」

 一度、聞こえていないかのようにとぼけるのは加賀先輩の癖だった。ぼやくように言うと、先輩は口元を上品に手で覆い隠して大きなあくびをした。目尻に小さく涙が光った。

「しかしだよ? 女性にはね、君たち男性諸君にはおよそ考えが及ばないようなデリケートな問題の数々がその胸の内に存在しているものなのさ。同じ女性として植村くんにも身に覚えのある話だろう?」

「よーっくわかります」植村が深く頷いた。「それに先輩はオトメと違って、女性なら誰もが羨むスレンダー体型なの。おわかり?」

 僕の「屁理屈だ!」との抗議の声に、先輩は「違いない」と愉快に笑った。

「しかし、今の早乙女くんの姿を見ているとなんだかの姿を連想してしまうねぇ」

「餓鬼ってガリガリにせ細っていつもおなかかしてるような鬼ですよね。確かにそっくりかもね?」

 植村が意地悪く言って僕を見た。

「うん。正確には餓鬼道にちた亡者といったところだがね」

「餓鬼? 餓鬼道?」

 僕一人だけが話についていけていないような気がして、迷い子のように森本の顔を見た。奴の、口を半開きにしてほうけたアホ面を見てこれほど安したことはない。

「うん。仏教におけるろくどうと呼ばれる六つの世界。それらの世界はそれぞれが違う苦しみに満ちていて、我々人間にとっていわば修行の場であり、生まれ変わるたびにその六つの世界を巡るワケだ。餓鬼道もまたその六道りんの世界の一つというワケさ」

 僕と森本が声をえて感心したような、気の抜けたような声を漏らした。

「つまりだね。前世でしやいんいつ、自堕落でもうまいな日々を……。いや、皆まで言うまいか。餓鬼というのは生前欲深かった者が餓鬼道へと堕ちた成れの果てというワケさ。早乙女くん、君は前世でずいぶんごうよくだったと見えるね」

「やめてくださいよ。それに先輩の話だと、この世に餓鬼がいるのはおかしいでしょ」

 加賀先輩は「違いないね」とまたくつくつと笑った。

「加賀先輩にこの手の話をさせたら右に出るものはいないですねー。さすが民研の会長代理ですよ。アタシ尊敬しちゃいますもん」

「というか。そもそもお嬢は電子工作とジャズ研の方には所属してるけど、こっちには籍を置いてないだろ。なんで我が物顔で居座ってんだよ。帰れよぉ」

 森本の抗議の声に僕がうんうんと頷いた。植村はチラリと僕を見てから、ぷいっと顔をそむけた。

「森彦うるさい。なに? アタシがここにいたら、ご不満?」

「うん。ご不満」

 僕と森本が頷き、植村がまたギャーギャーと騒ぐ。加賀先輩がそれを見て愉快そうに笑う。久々の民研でのだんらんに、今朝けさいんうつな気分はすっかり吹き飛んでしまった。

 僕たちは積もりに積もった話をして盛り上がり、しばらく談笑していたが、そんななごやかな雰囲気を壊すように突然森本のスマホが鳴った。森本は「悪い悪い」と言葉とは裏腹に特に申し訳なくもなさそうに画面を眺めている。奴の顔色がさっと変わった。

「おい、おいおい! くびつりだってよ!」

 森本がとんきような声をあげた。その声はうわっていて、僕を含めてこの場にいた全員が森本が何を叫んだのかよく聞き取れなかった。ぽかんとした表情を浮かべる僕たちの目の前に、森本がスマホの画面を突きつけた。表示されているのは写真のようだが手ブレがひどくて何が写っているのかよくわからない。同時にSNSのアプリから無数の通知がひっきりなしに届いている。今度は植村のスマホが鳴って、かんはつれずに彼女が叫んだ。

「く、首吊り! 高校の裏手にある林の中で! 首吊りだって!」

 森本は植村の言葉に大げさに何度も首を頷かせている。

「やばい、やばい! 俺ちょっと行って見てくるから! すごい写真が撮れるかも! お前たちもすぐ来いよ!」

 口早にそう言うと森本はドアを勢いよく押し開けて、外へと飛び出して行ってしまった。残された僕たちは困惑して互いの顔を見合わせていたが、最初に植村が口を開いた。

「また首吊りって……。今年だけでもう三人目だよ」

 この魂香町で首吊り死体が見つかったのは今回が初めてのことではない。自殺ならまだいい。この町では不可解な首吊り殺人が二年前から頻繁に起こっている。

 首吊り殺人の最初の犠牲者は当時二年生だったこの大学の学生らしい。高台にあるひとの少ないうつそうとした森の中で首を吊られて死んでいた。犯人は被害者をこうさつしたあと、自殺に見せかけるため死体の首を吊るしたらしかった。それから半年後、同じ手口で他大学の女子大生が殺され、その後次々と犠牲者が出た。死者の数はこの二年で六人にのぼる。

 今年に入って見つかった首吊り死体は二人とも自殺だったらしいけど、最近ではその首吊り自殺の頻度も高くなっている気がする。

 自殺と他殺、その両方が入り混じったこの怪事件にこの町は今もおびやかされている。あまりにも高い首吊りの頻度に、今では「自殺他殺を含めてすべての首吊りは連続殺人鬼のわざだ」、なんて言いだすやからまでいる。新たな首吊りが起こるたびに学生間で飽きずに話題に上るので、僕もすっかり詳細を覚えてしまった。

「自殺、なのかな」植村は不安そうな表情で僕を見上げた。「首吊り殺人の犯人はまだ捕まってないんだよ? もしかして本当にすべての首吊りがその連続殺人鬼の仕業なんてことになったら。変なもあるし……」

「考えすぎだよ。それに変なってなにさ?」

「それはおそらく、この都市伝説のことかな」

 加賀先輩が手にした一冊の雑誌をパラパラとめくり、とある頁を開いて机に置いた。

『──理想の自殺を強要する女。自殺ほうじよの恐怖!』

 都市伝説を紹介するコーナーらしく、『自殺幇女』を筆頭に様々なオカルト話が掲載されている。オススメの自殺スポットなんて特集まで組まれて、隣町であるふるほんまちの海辺が紹介されていた。土地の所有者からしたらいい迷惑だ。

「ああ、自殺幇女か。結構前からこの話聞きますよね」

「私が大学に入った頃、そのあたりから流行はやりだした都市伝説だねぇ。もっとも、その時は自殺幇女なんて洒落しやれた名前はついていなかったが」

「たしか。自殺願望のある人の前に現れて、楽に死ねる手段を教えてくれる。けれど一度契約すると必ず死ぬまで彼女に追い詰められる、ですよね。自殺ほうじよをする女だから、自殺幇女。こんな状況じゃこういう都市伝説が生まれるのもおかしくはないんでしょうけど」

 僕は思わず顔をしかめた。

「つまり──植村はそのの自殺幇女が自殺志願者に首吊りをオススメでもして、結果、この町で首吊りの自殺者が続出したって。そう言いたいのか。殺人事件の犠牲者は自殺幇助を断った人たちってことね」

「別に断言してるワケじゃないもん。ちょっと、そうなのかなって思っただけで……」

「馬鹿馬鹿しい。先輩もそう思いませんか?」

「ん? ウゥム、この手の話は学生時分だとまだまだ好きな手合いもいるだろうしねぇ」

 加賀先輩は歯切れ悪く困ったような笑みを浮かべて頷いた。

「とは言ってもだ。我々だって昔はこういう類の話には興味をかれたものだろう? 遺体安置所から消えた惨殺死体、くした恋文を求め彷徨さまよまみれの幽霊、他人を呪い殺す見知らぬ友人ザンゲさま。それに『しりようかん』の話なんてのもそうかな」

「ああ、よい文具ですね。呪われた文具店かぁ」

「シリョウカン? 呪われた文具店? 間宵文具のそんな話初めて聞いたけど」

「そうか。君はこの土地の人間じゃなかったね。なら、知らないのも無理はないか」

「アタシもおばあちゃんから『しこに近付くな』とか『けがれをもらうぞ』とかおどされるだけで、中身の話は具体的に知らないんですよね。年寄りだけの秘密って感じ。と言うか、怪談好きな先輩は今だってそういう話に十分惹かれているじゃないですか。こんなオカルト雑誌まで買っちゃって」

 植村のいやに「ばれたか」と加賀先輩は笑ってみせた。

「にしても、森彦の奴。死体の見物、それも撮影だなんて。珍しくみんなったのにさ」

「そうだ。あいつ、来いって言ってたけど。どうする?」

「行くワケないじゃない!」

 植村が首を横に振った。首吊り死体なんて見に行きたくなるワケがないか。

「先輩はどうします?」

「私もパスだな。妖怪、幽霊、その他珍妙れつ奇々怪々な面々にお目にかかれるのならば話は別だがね。それにこの汚れた体をどうにかしたい。私はこれで失礼するよ」

「そうですか」

「ちょっと、オトメ。まさか行く気なの? やめなよ、悪趣味」

「森本一人行かせとくワケにもいかないだろ。あいつが問題起こせば、そのまま民研にだってとばっちりがくるんだぜ。それに……」

 首吊り死体。墓場で首を吊る悪夢に悩まされる僕にとって、妙に気になる存在なのは間違いなかった。植村は怒るだろうけど、僕はひどく興味を惹かれていた。

「それじゃ。植村、今日はありがとう。先輩も、寝るならちゃんと家で寝てくださいね」

「ははは。寝付けない時は早乙女くん、君に添い寝の一つでも頼もうかな?」

「……僕が寝付けませんよ」

 加賀先輩はまた愉快そうに笑った。「違いないだろうね」とどこか満足そうに呟いた。

 僕の通う大学の敷地には付属高校が隣接している。その高校を突っ切って裏門から出れば問題の林はすぐそこだ。裏門を出て林道へと入る途中、数人の高校生とすれ違った。泣いている女生徒もいたようで、もしかすると彼女が死体を発見したのかもしれなかった。

 林道を抜けた先は大きく開けていてじやの敷き詰められた駐車場になっている。駐車場にはすでに一台のパトカーが停車していた。駐車場横の坂道を駆け上ると、遠くの方に林の奥へと続く長い石段が見えた。近くには休憩用に一基のベンチが設けられている。ここまでは以前森本と来た覚えがある。長い石段を登った先には畑があり、更にその先にもりおう神社という古い神社があるらしいことは聞いていたが、僕はそこまで行ったことはない。

 すんすんと鼻をかせると甘い匂いが辺りに漂っている。右手の方を見ると遠くに小屋が見えた。いろせたトタン屋根がひときわ目を引いた。小屋の周辺には雑草が生い茂り、緑豊かな木々に囲まれている。人だかりは小屋の裏手、小さな空き地に出来ているようだった。匂いもそっちから流れてきているようだ。匂いにつられて僕は歩を進めた。

 警察官が数人、野次馬を帰そうと押し問答を繰り広げていた。数十人の野次馬が体を押し付け合いながら少し目線を高くして、その先の何かに夢中になっている。

「オトメ! こっちだ!」

 野次馬の群れの後方にいた森本が僕に向かって手を振った。空き地へと近づくにつれて濃い匂いがこうをくすぐる。野次馬の一人が香水でもつけているのだろうか。そう思った矢先。しびれを切らした森本が駆け寄ってきて強引に僕の腕を引き、そのまま小屋の裏手へと僕は体を持っていかれた。

「あれ。あれだよ」

 そう言って森本はあごをしゃくってみせた。乱暴な振る舞いに悪態をつこうとした僕はそっと視線をそちらへ向けた。生唾と共に言葉を飲み込む。

 老木が一本、天高く伸びていた。血管のようにあちこちに伸びる枝には無数の葉が生い茂り、風に揺られてカサカサとささめいている。太い枝の一本には縄が吊り下げられていた。不自然に枝はしなっている。枝から吊り下げられた縄は風に揺られ、自身が吊り上げているそれの重みで左右にゆらゆらと揺れていた。

 どこかで見た光景だった。あの音がする。ぎいぎいと縄がはりに擦れている。柱が縄で軋んでいる。僕は思わず自らの首へと手を運んでいた。首は汗でじっとりと濡れている。

 首を吊っていたのは付属高校の女生徒だった。それは彼女の着ている制服を見れば誰の目にも明らかだ。その死に顔はうつけつして醜く膨らみ、苦痛に歪んで見るに堪えない。首吊りは苦しいと聞く。実際、彼女を見ればそれは想像にかたくない。最後にはふん尿にようを垂れ流し、醜い姿で死体をしゆうもくさらすのだと何かで読んだ。少女のしかばねを見るに、それはではないようだった。

 数人の警察官が少女の死体を地面に下ろそうと動き出していた。他の警官は僕を含めた野次馬を帰そうと、現場を背にしてふさがり声を張り上げている。警官が枝から吊り下がる縄へ手をかけた拍子に、揺れる死体の制服から何かがひらひらと舞い落ちた。宙を舞うそれを僕は目で追った。それは赤い封筒のように見えたが、すぐに現場を覆うようにして張り巡らされたブルーシートの壁にはばまれて見えなくなった。

「ああ、こりゃもう無理そうだな。さんに見せてあげたかったのにろくなもの撮れなかったぜ」

 森本が落胆した様子でカメラのボディを軽く叩いた。

「にしてもスゴかったな。俺たちよりも若いのによ。自殺にせよ例の連続殺人にせよ、あの子の友達や親はどう思うんだろうなぁ。もしも俺の周りの人間がこんなことになったら……なんて、俺が落ち込んでもしゃーないか。オトメ。帰ろうぜ」

 森本が僕の肩を揺さぶって言った。

「聞いてる? 帰ろうぜ」

「……ああ」

 肌寒い風が吹いて思わず鼻をすすった。あの甘い香りはもうしなかった。

 林道を引き返した頃には高校の裏門はすでに閉まっていた。仕方なくかいして大学の正門前まで戻ってくると、まだ学内に用があるという森本とは別れ、僕は高台の間宵文具店へと続く坂道を歩き始めた。

 大学入学を機にこの町へと引っ越してきた僕は、たまたま近所を散策していて間宵文具店を見つけた。この町では有名な老舗しにせ文具店だと知ったのは後になってのことだった。

 城壁のような真っ白い塀にぐるりと囲まれたその屋敷を見た時、僕はそこがまさか文具店だとは夢にも思わなかった。文具の販売だけではなく、書道教室や手紙の書き方などを教える講座なども開いているらしいが、そもそも屋敷内で他の人間の姿を見かけたことはただの一度たりともない。

 傾斜のキツい坂道を登って住宅街を抜けると、民家の脇に隠れるようにして林道がある。林道は木々に覆われ道が木陰になっていて涼しい風が吹いていた。その林道を抜けると、遠くの方に一軒の大きい屋敷がある。間宵文具店だ。

「こんにちは」

 誰もいないしんとした店内に僕の声がむなしく響いた。返事がないのはいつものことだ。

 広々とした店内には木製の棚が等間隔に並んでいる。店内を占める無数の棚の数に対して意外と窮屈さは感じない。棚には数種類の封筒が綺麗に並べられている。屋敷の立地がいいのか窓から差し込む日光だけで店内は十分明るい。

 僕は壁際の古びたポストへと手紙を投函した。うしとらさんに宛てた返事だ。

 うしとらさんとはこの店の『あまつうしん』というサービスを介して知り合った。申し込み用紙に必要事項を記入すれば、間宵文具店が仲介に入って天戸通信に登録した会員同士を引き合わせてくれる。要は文通相手のあつせんだ。住所を秘匿したい人間は間宵文具店が貸し出している貸しポストを利用すれば、そこに手紙が投函され相手に住所を知られる心配がなく文通を楽しめる。いちいち間宵文具店へと出向くわずらわしさはあるが、文具店で封筒や便びんせんを買うことを考えれば大した手間には感じない。一年利用してきた僕が言うんだから間違いない。

 店内を見て回り、新製品やオススメ品に目を光らせた。手紙を書くようになって、これが僕の密かな楽しみにもなっている。意味もなく赤い封筒がないかと探してみたが、どこにも見当たらなかった。いつも使用している便箋と封筒を手に取った。便箋と封筒でがらが統一してあり、共にうっすらと紫がかっていて藤の花のイラストが小さくあしらってある。僕は店の奥にあるレジへと向かった。

 間宵文具店のレジは少し、いや、かなり変わっている。レジのあるカウンターは黒いカーテンでぐるりと覆われていて、カウンターの中の様子が一切わからない。『商品受け渡し口』と小さく書かれた引き出しを通して商品をカウンター内に入れると、カウンターで待機している店員さんが商品を梱包して再びその引き出しから渡してくれる。料金の受け渡しもそこを通して行う。レジにはモニターが一台設置してあり、料金の表示だけでなく、それを通して店員さんとやりとりもできる。つまり、こっちが喋ると相手の返答がモニターに表示される──変則的なチャットのような感じだ。

 僕が商品受け渡し口に品物を預けると、さっとカウンター内に品物が引っ込められた。

「こんにちは」

 カーテン越しに声をかけた。大した間も無く通知音と共にモニターが点灯した。

【ほたる:いらっしゃいませ。】

 ほたるとは店員さんのハンドルネームだ。複数人が共通で使用しているのか個人のものなのかは知らないけれど、僕はおそらく後者だと思っている。

「あの。ここって赤い封筒は取り扱ってないんですか?」

【ほたる:赤い封筒ですか。うちでは取り扱っていません。】

「過去に売っていたこともありませんか?」

【ほたる:はい。赤い封筒を販売したことはありません。】

 真っ赤な封筒なんてあまり見かけないからこの店の商品かと思ったけど違うようだ。それがわかったって特に何でもないけれど。当てがはずれて少しだけ拍子抜けしてしまった。

 料金を支払うと、ほどなくして丁寧に梱包された商品が受け渡し口に現れた。同時にモニターから軽快な通知音が鳴った。

【ほたる:いつもご利用ありがとうございます。またお越しください。(PR:いつもお世話になっている友人知人。故郷で暮らすご両親。便利な通信機器の発達する昨今、敢えて情緒れるお手紙で、日頃の感謝を伝えてみませんか。便箋、封筒などなど。ごいりようの際は間宵文具店まで)】

 綺麗な女性の声でスラスラと読み上げられた。このメッセージだけいつも音声付きだ。

「どうも。それじゃまた」

 僕はカーテン越しに礼を言って文具店を後にした。

 大学近くまで戻ってきた頃には太陽はすでに西の空に沈みかけていた。学生寮へと続く下り坂をゆっくりと歩いていた僕の背後から「オトメ!」と誰かが呼びかけた。振り向くとそこには植村嬢の姿があった。

「今から部屋行ってもいい? いいよね?」

 彼女独特のオーケーサインから右目を覗かせて、植村はご機嫌そうに言った。

「いいワケあるか。女人禁制の学生寮だぞ」

「そういうのいいから! 何か作ったげるから、しっかり栄養りなさい」

 強引な植村に腕を引かれ、駅前のスーパーで買い物を済ませてから学生寮へと戻った。正面玄関から中へと入ると寮内は薄暗く、しんと静まり返っている。廊下に設置されている電球は僕が越してきた頃から切れていて、誰も取り替えようとしない。寮から離れたところに住む管理人に誰も報告すらしないので今なお放置中だ。

「電球くらい取り替えなよ」

「僕に言うなよ」

「男ってそうゆうとこズボラなのよねー」

 一人憤慨する植村を無視して階段を上った。暗い廊下、市川くんの住む204号室の前に誰かが立っていた。なんとなく輪郭が把握できる程度ではっきりと姿が見えない。まるで幽霊のように静かにそこにたたずみ、少し目を離した隙に消えてしまいそうな気配がある。隣に立つ植村がぎゅっと僕の腕に抱きついた。

「やあ。二人おいとは意外な展開だねぇ」

「加賀先輩?」

 部室での埃まみれの姿から一転、そこにいたのは綺麗に身だしなみを整えた加賀先輩だった。トレンチコートと紺色のスキニーデニムを長い手足ですらりと着こなし、長い黒髪は珍しく束ねられている。くちびるつやめいていつもより一層美人に見えた。

 加賀先輩は「突然申し訳ないね」と手にしていた土産の袋を手渡してきた。

「駅前の洋菓子店『フジモト』のショートケーキだよ。君、好きだったろう。植村くんも一緒だとは思わなかったが、多めに買ってきて正解だったね」

「もう。幽霊かと思いましたよ。オトメに何か用でしたか? アタシ退散しましょうか?」

「なあに。見舞いだよ。昼間に見せてくれた、早乙女くんの病的に瘦せた体が衝撃でね。しかし、まさか植村くんと同伴だとは思わなかったなぁ。君たち、同棲でも始めるつもりかい?」

「違います! アタシも加賀先輩と同じ、お見舞いみたいなものですって」

「先輩も一緒にどうですか? 植村が夕食作ってくれるらしいですよ」

「ふむ。それじゃあ。お言葉に甘えるとするかな」

 加賀先輩も巻き込んではからずも軽い飲み会へと発展した夕食会は楽しく進んだ。植村の手料理だけではなく、加賀先輩の手料理にもありつけたことは嬉しい誤算だった。それを聞けば森本もさぞ嫉妬することだろう。酒の力も手伝い、僕たち三人の飲み会はかつてないほどの盛り上がりを見せた。

「ねね。先輩も飲みましょうよ」

「私も飲みたいのは山々なんだがね。あいにく、今日は車なんだよ」

「ええー? いいじゃないですかぁ」

 酔って上機嫌な植村は大袈裟にわめいた。

「いやしかし、早乙女くん。君の部屋を訪れるのは初めてのことだなぁ」

 加賀先輩はちゃぶ台にひじをつきながらタバコをふかした。僕は「女人禁制ですからねぇ」と頷く。植村が「まだ言うか」と僕のほおこぶしでグリグリといた。

「我々は集まればいつも決まって古本町探索。そのあとは部室でその日の戦果報告。それが済めばその日得た資料本を肴に部室で宴会だ。君の部屋を訪れる機会がなかった」

「それは僕も一緒ですよ。先輩の家って聞くところによれば高台のへんな場所にあるんでしょ? 本の保管のためだけに倉庫みたいな一軒家借りたって話じゃないですか。怪談のためにそこまでしますかね」

「先輩は本当に怪談、怪談、怪談ですもんね。オトメと森彦がなんだか変なサークルに入ったと思ったら、こんな美人と知り合ってさ。そしたら、当の先輩自身はもーっと変な性格してるんだもん。普通、恋人の一人くらい作りますよ。加賀先輩ならどんな男とでも付き合えるじゃないですか」

「加賀先輩、告白してくる男次々に振っちゃいますもんね。男だけでもないけど。先輩の色恋沙汰の話なんて聞いたことないですよ」

 植村が「うんうん」と頷いて興味しんしんに加賀先輩を見た。「そこんところどうなんですか?」と先輩の体に擦り寄って、はたから見ていても煩わしい絡み方をしている。

「ん? ウゥム。私はその手の話はどうも苦手だからなぁ。君たちこそどうなんだい?」

「先輩と違ってアタシの周りにはこんなのやあんなのしかいませんからねー」

 どうやら僕が「こんなの」で森本が「あんなの」らしい。

「ははは。では早乙女くんはどうなんだい?」

 加賀先輩は意地悪そうに僕に言った。僕が先輩の顔を見て返答に困っていると、植村がひらひらと何かをつまみあげて揺らした。それはうしとらさんからの手紙だった。

「オトメは文通に夢中なんですよ。麗しのうしとらさん、らっけぇ?」

 だいぶ酒が回ったらしく舌足らずな喋り方で植村が言った。

「勝手に見るなよ。それにね、うしとらさんは女かどうかもわかんないの。それにそういう相手じゃないんだよ。言わば親友というかばくぎやくの友とも言うべき存在というか」

 手紙を取り返してぶっきらぼうに僕は言った。うしとらさんは僕の唯一の文通相手であり、この九州の片田舎である魂香町に越してきて初めて出来た友達ならぬペンフレンドだ。他愛もない内容の手紙ではあるが、月に二、三通のペースで手紙を送りあっている。

 一年間文通をしてきて、相手の本名はおろか年齢も職業も性別さえ知らない。一番の特徴は手紙の最後にいつもバツとマルを組み合わせたような奇妙なサインを残すことだ。もしかすると普段からサインをするような仕事をしているのかもしれない。作家か芸能人か、そう考えると夢が膨らむ。

 加賀先輩が僕の手から手紙をひょいと取り上げた。先輩は「このご時世に文通なんて珍しいねぇ」と感心して便箋を眺め、左目にかかった前髪をさっと払った。

「おや。これは?」

 例のサインを指差して加賀先輩が尋ねた。

「うしとらさんが手紙の最後に必ず残すサインです……たぶん。僕も意味を尋ねようと思ったりもしたんですけど、それを知っちゃうともったいない気もして」

「ははは。なるほど。それも文通のだいかもしれないね。知らないからこその面白さ。実に結構。けれど、君に文通をたしなむだけの心の機微が備わっていたとは意外だなぁ」

「間宵文具に斡旋してもらって知り合ったんです。ほら、『天戸通信』ってやつ。あれに登録して。ここに越してきた時は知り合いなんて皆無でしたから。偶然そのサービスのことを知って、つい気まぐれで」

「ああ、アレか。アレはいいものだね。私も以前利用したことがあるんだよ。とても素敵な出会いがあった」

「へぇ。どんな出会いがあったんですか?」

「それを言ったら野暮ってものだろう。文通の醍醐味と同じさ。それに思い出は本棚に置いてきたしね。それにしても、『うしとら』とはなかなか面白い筆名だねぇ」

「ん? 牛と虎がそんなに面白いんですか?」

 そう聞くと加賀先輩は大笑いして、植村が呆れてため息をついた。

「オトメはどちらかと言えば馬と鹿ね」

「……誰が馬鹿じゃい」

「お前じゃい」

 僕と植村が喧嘩するのを見て加賀先輩はまた大きな声で笑った。

 隣でゴトンと物音がした。背後の壁を振り返った。僕と取っ組み合っていた植村は猫のようにビクリと怯え、加賀先輩も眉間にしわを寄せて壁を見ていた。みや汚れで薄茶色に変色している汚い壁。壁の向こうは市川くんの部屋だ。特別壁が薄いワケでもないが、生活音の類は時折聞こえてくる。大方、部屋の荷物の整理でもしているんだろう。

「人が、住んでいるのかな」

「住んでますよ。僕と同学年の、市川雅郎くんです」

「あ、隣って市川くんなんだぁ。ジャズ研で一緒だよアタシぃ」

「てっきり空室だと思っていたんだがなぁ」

「去年の暮れに越してきたんですよ。住んでいたアパートが焼けたとかで。空室はあの部屋だけでしたから」

「市川くん最近様子おかしいんだよね。ひどく落ち込んで憂鬱そうだし、顔色もすっごく悪いの。もしかするとオトメよりひどいかな。すごくやつれてて。それに、確か市川くんの住んでる部屋って例の……」

「ああ。連続首吊り殺人、その最初の犠牲者だったかな」

 植村の言葉に加賀先輩が続けた。

「え! そうなんですか?」

 驚く僕を見て植村がきょとんとした。

「知らなかったの? アタシは森彦から聞いたんだけどね。二年前に殺された、確かなかもり先輩だったかな。学業成績優秀。交友関係も広くて、誰からも好かれる優等生だったとか。てんがい孤独の身でお金に困ってたって話だけど」

 まさかいまだ未解決の連続首吊り殺人、その最初の犠牲者が隣の204号室に住んでいた元寮生だったなんて思いもしなかった。ぶるっと大きく体が震えた。204号室に住む市川くんはこの事実を知っているのだろうか。

「なんだい、早乙女くん。君はひどくがないねぇ。殺人事件なんて今日きよう珍しくもない。この日本では年間三百人近い人間が殺されているんだよ。たまたま隣に住んでいた元住人が、不運にもその中の一人に入ってしまっただけのことじゃないか」

「……だとしても嫌じゃないですか。隣の人間が殺されていたなんて、恐ろしい」

 僕の言葉に植村が頷いて体を寄せた。

「ははは。殺人なんて、この世じゃ日常茶飯事さ。病気や事故と同じだよ。何を恐れる必要がある? まさか、あの部屋にその殺された人間の怨霊でも出ると言うのかい? だったら私も震え上がるだろうが。現実は違う。そうだろう?」

「……怨霊の出る部屋なんて。加賀先輩は逆に喜ぶんじゃないですか?」

 熱弁を振るう加賀先輩を、植村が疑うような目で見た。

「ん? ウゥム。まぁ、ともかくだ。殺人なんてどうってことないんだよ。いいかい? それに比べて怪談ってのはだねぇ」

 なぜだか怪談魂に火のついた加賀先輩は、お得意の全国津々浦々に伝わる怪談話を披露し始めた。自分のおとむらいを見てしまった男の話、世にも不思議な歌うしやれこうべなど。震えるほど恐ろしい話から少しおかしくて奇妙な話まで、そのレパートリーは豊富だ。先輩は同じ話を二度は聞かせない。それほど怪談に対する知識量が圧倒的だった。次から次へと雄弁に怪談を語る加賀先輩の姿はとても綺麗で楽しそうに見えた。

「どうだい? まだまだ君たちの知らない身の毛もよだつような恐ろしい怪談がいっぱいあるだろう」

「わ、わかりましたってば。植村なんて一人先に夢の世界に逃げ込んじゃったじゃないですか。子守唄代わりの怪談なんて絶対寝覚め悪いですよ」

 顔を歪めながら丸まって眠る植村を見て、半ば呆れて僕は言った。加賀先輩は「違いない」とおかしそうに笑った。

 怪談に夢か。僕の頭にふとある疑問が湧いた。

「先輩。夢に関する怪談ってあるんですか? 夢というか、悪夢なんですけど……」

「ん? ウゥム。まぁ、ないこともないが……。どうかしたのかい?」

「……その、こんなこと他人には話せません。けれど先輩はこの手の話には詳しいから」

 僕ははじめて他人に墓場の悪夢の話をした。家鳴りのこと、鬼のこと、首吊りのこと。加賀先輩は僕が話し終えるまで、前髪をしきりに指でいじり回し僕の話に耳を傾けていた。

「ふむ。墓場で首をくくる夢か」前髪を撫でつける手がピタリと止まって加賀先輩は僕を睨んだ。「それは鬼の仕業かもしれないな」

「……鬼?」

「君が今言ったじゃないか。墓場に鬼が出るんだと。鬼がささやくんだ、と。私の知る話に、君の言う『墓場の鬼』とよく似た鬼が登場するんだよ」

「ま、まさか。この寮に鬼が潜んでいて、そいつが僕に悪夢を見せているとでも?」

 取り乱す僕を加賀先輩は神妙な面持ちで眺めていたが、次第にくつくつと押し殺したような笑い声を発し、しまいには大声で笑い始めたのだった。それはとても愉快そうな笑い声で、僕はすぐに自分が先輩にかつがれたことに気付いた。

「いやあ、すまないすまない。君があまりに真剣なもんだから、少しからかってやりたくてね」先輩はおかしそうにまたくつくつと笑った。「心配いらんよ。君の思い過ごしさ」

「……ですよね」

「人間は繊細な生き物だ。その家鳴りとやらがストレスになり、そんな悪夢を見せたんだろう。部屋の木材が発するその亀裂音を、縄が軋む首吊りの不快な音だと夢のなかで誤認したワケさ。特に君は民研部員として怪談に囲まれた生活をしているワケだしねぇ」

 加賀先輩はニヤリと笑った。僕は気の抜けたため息を漏らした。やっぱり僕が神経質になっているだけか。そんなこと最初からわかりきっていたけど、加賀先輩のお墨付きをもらって気分が少し楽になった。こんなことなら最初から先輩に相談しておけばよかった。

 しばらくして、加賀先輩は酔った植村を連れて上機嫌で寮から帰っていった。

 加賀先輩たちが帰ったあと、散らかった空き缶をゴミ袋へと片付けてから僕は布団にゴロンと寝転がった。目を閉じて大きく深呼吸をした。久しぶりに充実した一日を送れた気がする。民研で過ごした他愛のない記憶が走馬灯のように蘇る。あの不快な家鳴りは今日はまだ聞こえてこない。なんだか今夜はぐっすりと眠れるような気がした。

 改めて加賀先輩の言うとおりだと思った。なんてことはない。家鳴りの不快な音が結果的に僕の夢の内容を形成したにすぎない。町を騒がす首吊り事件と結び付けて、あんな悪夢を見ていたんだ。そうさ。鬼なんているワケがないじゃないか。

 しんとした静寂の中で、時折聞こえる環境音が耳に心地良い。冷蔵庫のコンプレッサーの音。外を走る車の走行音。まどろみの中に聞こえる様々な音に誘われて、次第に何かに引きずり込まれるようにして、僕も深い眠りに落ちていけそうだ。

 ──ぎい。

 部屋のどこかで、環境音に紛れるようにして、何かがぎいっと軋んだ。ガリガリと何かが擦れるような音がして、後味悪い静寂が再び訪れた。僕は体を小さくして身構えた。

「これはただの家鳴り……ただの家鳴りだ」

 小声で小さく繰り返した。部屋のあちこちで亀裂音が鳴り響いた。まるで何かが部屋の中を走り回るように。柱が、梁が、寮全体がぎいぎいと軋んでいるように思われた。音は徐々に部屋の壁を駆け上がり、最後にぎぎっと天井裏から音がした。

 いつもと様子が違う。奇妙な音だった。まるで音が天井裏へと逃げ込んだような気さえした。僕はしばらく、ぎゅっと強くまぶたを閉じたまま、じっと動かずに息を潜めていた。じんわりと顔に汗をかいた。

 どのくらい時間が経ったのか。もうあの音は聞こえてこない。家鳴りは完全に止んでいる。心臓の鼓動が緩やかになっていくのを感じる。終わった、そう思った。僕はほっと胸を撫で下ろして、暗闇の中でそっと目を開けた。

 真っ暗な部屋。闇の中、天井から女が吊り下がっているのが見えた。力なく手足を投げ出し、ギリギリと首を縄で絞め上げられている。この制服には見覚えがある。付属高校の──そこまで頭に浮かんだ時、暗闇の中に女の顔を見た。昼間見た首吊り死体。あの少女だった。黒目が下を向き、僕を見ている。目が合った。唇が小さく動いて何かを囁いた。

 僕は叫び声をあげて、学生寮を飛び出した。少しでも遠いところへ逃げなければと死に物狂いで走った。大学を通り過ぎ、くねる坂道を止まらずに駆け抜け、体力が尽きかけた頃にはいつの間にか高台の公園の前まで来ていた。走り続けて心臓は激しく高鳴っている。

 僕は水飲み場に駆け寄り、蛇口から流れる水をガブガブと飲んだ。頭から水をかぶり何度も顔を手のひらで洗い、何度かそれを繰り返して、ようやく蛇口のハンドルを力強く閉めた。

 一度、大きく深呼吸をした。さっきまでうるさいほど高鳴っていた心臓は落ち着きを取り戻そうとしていた。思考は一足先に冷静になっている。濡れた顔を手のひらでぬぐった。

 ドロドロとしたまどろみの中で見た幻覚。植村の言ったとおり、首吊り死体なんて見に行くんじゃなかった。いよいよ追い詰められているな、と乾いた笑いが出た。

 僕はそっとフェンスの側へと近寄った。眼下には真っ黒な住宅が所狭しとひしめき合っている。住民は寝静まり、街の明かりはほとんど消えてひっそりとしている。線路の先に小さく学生寮が見える。

 寮を出た方がいいのかもしれない、そう思った。呪いや祟りなんて馬鹿なことは今でも信じていないけど、あの家鳴りが僕のストレスになっているのは事実だ。どこか静かな所へ引っ越せばこの悪夢ともサヨナラできるだろう。

 夜風が吹いた。園内の暗がりに、ひっそりと佇む一本の木が枝葉を揺らした。幹のしっかりとした太く大きな木だった。風に揺られた枝葉がざわざわと身を擦って、まるで囁くような音を出している。

 闇に包まれて影絵のようにまっ黒なその大木から、奇妙な一本の線が地面に向かって垂直に伸びていた。先端には見覚えのある輪が作られている。風に揺られてユラユラと宙を彷徨さまよっている。まるで誰かを探しているように。

 ──首、縊れ。

 耳元ではっきりと声がした。自室で見た首を吊る少女の幻覚。彼女の血色の悪い唇から発せられたあの言葉。首、縊れ。彼女も確かにそう僕に囁いていた。

 首を縊らなければならない。そうだ。首を縊らなければ。足が自然と動いた。揺れる縄に誘われるようにして、あの黒々ときつりつした大木へと僕はフラフラと歩を進めていた。巨木が近く大きくなっていく。風に揺れる縄がより近く、より大きくなっていく。

 僕は巨木の側に打ち捨てられていたビールケースに一歩足をかけた。右足に力を込めてケースの上に立った。

 眼前には縄がある。枝から吊り下げられた古びた縄。縄は先端で輪を作り、僕の顔の前で微かに揺れていた。輪の中に向こうの景色が見えた。地面には雑草が生い茂り、その奥に古びたフェンスがある。フェンスの向こうに遠くの街の影が見えた。

 頭の中にぼんやりともやまとわりついたようで思考がはっきりしない。まるで悪夢の中の霧が立ち込める墓場にいるようなゆめうつつの気分だ。首を縊らなければならない。でも、なぜ? ああ、そうか。罪を犯したからだ。僕は罪を犯した。首を彼奴きやつらに返さなければならない。震える両手で輪をつかんだ。輪の中に見える光景がぼんやりとにじんだ。涙が視界を歪ませたのかもしれない。僕は静かに目を閉じて、縄を顎へと引き寄せた。

「──あの。失礼ですけど。これから死ぬご予定ですか?」

 夜の闇に、あまりにも不釣り合いな明朗な声だった。目を開くと、輪の向こうに人影が見えた。声と影の輪郭からして女性のようだ。こんな時間に何をしているのか。それよりも、首吊りの現場を目撃してそれを止めるでもなく「死ぬ予定ですか」と尋ねるとはどういうことだろうか。他人の死の予定など人に尋ねるだろうか、普通。なんだか、くだらない考えが僕の頭の中をぐるぐると駆け巡った。

「もし? これから死ぬんですよね?」

 声の主が雑草を踏みしめて一歩前に出ると、街灯の明かりがかすかに彼女の姿を照らし出した。綺麗に通った鼻筋に眼鏡めがねがよく似合う美人だった。年は僕と同じくらいだろうか。口元に微笑を浮かべて、大きく切れ長な目が眼鏡の奥からじっとこちらの姿を捉えている。

 黒々とした服には真っ白な線が縦と横に走っている。まるで大きな十字架のようだ。小さなシスターベールのようなものが彼女の銀髪を覆って、黒い本を胸のあたりで大事そうに抱えている。もしかして教会のシスターなのか。あの本は聖書だろうか。

 なかなか返答しない僕を不思議に思ったのか、彼女は片眉を吊り上げてしばらく難しい顔をしていた。しかし、何かに気付いたような、そんな不思議な表情を見せてクスクスと笑い始めた。

「それ、やめておいたほうがいいと思うけどな」

 小さく笑い終えると、囁くような声で彼女が呟いた。それ? その声にはっとして僕は我に返った。体が自由に動いて、途端に心臓がどっと高鳴った。僕は今、自殺しようとしていたのか? あの悪夢を再現するように首を縊って……。首に絡む縄の感触が、これが現実だと教えている。僕は慌てて絡まった縄を外そうとした、その時だった。

 強引に縄を外そうとして体重をかけてしまったのか、バキッと豪快な音を立ててケースの底を踏み抜いてしまった。叫び声を上げた途端、僕は縄に首を持っていかれそうになったが、間髪入れずに枝が大きな音を立ててへし折れ、地面に勢いよくしりもちをついた。強烈な痛みに顔が歪み、落ちてきた縄が顔に絡まった。月明かりに照らされて、クリアグリーンのおもちゃっぽい縄の色がきらめいている。僕は二本の指で縄をつまんでそれを眺めた。

「……子どもの、縄跳び?」

「だから言ったでしょう。やめておいたほうがいい、って」

 そう言って彼女は眼鏡に軽く触れた。少し小さめの角ばった眼鏡が、彼女の小顔によく似合っていた。彼女は僕の方へと歩み寄ると、少しだけかがんで、地面にへたり込んでいる僕に向けて手を差し伸べた。白く繊細な彼女の指が僕を誘った。

「大丈夫ですか?」

 彼女はニコリと笑うと、わざとらしくそう言った。

 シスターらしきくだんの女性の手を借りて、僕は公園のベンチに腰を下ろして体を休めていた。縄に勢いよく首を引っ張られたためすじを痛めたらしい。左右に首を傾けると少しだけ痛みが走った。

 それにしても、一体、さっきの唐突な自殺衝動のようなものはなんだったのだろうか。頭は依然ぼんやりとしたままだけど、それは恐らく酸欠のせいだ。夢現だった先ほどまでとは違い、意識はハッキリとしている。そうだ。墓場で首を縊る悪夢、そこで聞いた不気味なあの声。暗闇に揺れる輪を見た時、あの声が僕の耳元で聞こえて、それから──。

「お水でよかったですか?」

 唐突な声に顔を上げると、シスターが水の入ったペットボトルと缶コーヒーを持って僕の目の前に立っていた。スカートのスリットからスラリと伸びた綺麗な脚が覗いている。黒いストッキングがその脚線美をさらに強調している。

 一言礼を言って僕はそれを受け取った。首に当てるとひんやりと冷たくて気持ちがいい。

「いえいえ。お礼には及びません。これお渡ししておきますね。落ち着いてからでもかまいませんけど、今書けますか?」

 彼女は聖書に挟んでいた一枚の紙を抜き取って僕のひざの上に置いた。僕の隣に腰掛けて高価そうなペンを取り出して微笑んでいる。何かの花のようないい香りが僕の鼻をくすぐった。

「はあ。あの、これは?」

「形式的なものですから。あ、お名前はここですね。いんは最後で結構です」

 彼女の白い指先が書類の氏名欄をトントンと指差した。宗教に関するアンケート用紙だろうか。以前、勧誘を受けた際に何度か目にしたことがある。布教活動の一環か。僕はぼーっとした頭でそう考えると、彼女からペンを受け取って署名を済ませた。

「ふふ。早乙女境輔。早乙女さん、ですね」

 彼女は膝の上に置いていた本を開いた。見ると聖書だと思っていたそれは、手帳型のカバーをした八インチほどのタブレット端末だった。カバーの片側には得体の知れないキャラクターがプリントされている。カバーの内ポケットには黒いカードが挟まっていた。彼女はすじを正してかしこまると、僕の前に両手でそれを差し出した。

「申し遅れました。わたくし、こういう者です」

 真っ黒な台紙に『ヒラサカ コヨミ』と白い文字で書かれていた。どうやら、それは彼女の名刺らしかった。名刺の隅にもタブレットカバーにプリントされていたのと同じ、がいこつを模した奇抜なゆるキャラが可愛いタッチで描かれている。

「ヒラサカさん?」

「はい。以前は肩書とか色々と記載していたんですけどね。今はワケあって、名前と、ロゴ代わりのそのマスコットキャラクターしか名刺に載せていないんです。ほら、ネットや雑誌なんかで無断で画像投稿する人とかいるじゃないですか。困ったものです」

 プライバシーの問題とか、個人情報の取り扱いとか、つまりはそういうことだろうか。

「そのマスコット。私、絵心がないもので……。私の元絵を知人にデザインし直してもらったんですけど、可愛いでしょう?」

 ヒラサカさんが同意を求めて小首をかしげてみせた。

「ユードくんっていうんです。しっくりこないので、まだ仮称ですけどね。随時正式名称を募集中なので、いい名があればぜひ教えてくださいな」

 弾んだ声でそう言うと、ヒラサカさんは両手を添えて可愛らしく缶コーヒーを飲んだ。僕はそんな彼女の姿をまじまじと観察していた。間近で見ると改めて彼女の顔の端正さがよくわかる。それにこれまで出会ったことのないほど、他に類を見ない肌の美しさだ。汚れの一つさえ許さない白い肌だった。彼女の前髪が風にさらりと揺れた。左側だけ器用に編み込まれていることに今更気付いた。オシャレだろうか。

「それにしても首吊りを選択したのはいい判断でしたね。と言っても厚生労働省によると自殺した方の半数以上はらしいですから、みなさん真っ先に思いつくのが首吊りなんでしょうね。自殺といえば首吊り、みたいなところありますから」

 彼女は薄い唇を缶から離して、聖職者らしからぬ物騒な言葉を独り言のように呟くと、「早乙女さんもそうなんですか?」と付け足して僕のことを見た。

「いや、僕は……」

 彼女から視線を逸らした。否定しかけて、僕は言葉を飲み込んだ。

 墓場で首を吊る悪夢。その墓場に潜む鬼の声に誘われて首を縊ろうとしていた──そんな馬鹿馬鹿しいことを言うのははばかられたし、やっぱりあれは一時の気の迷いだと僕自身信じたかった。

「……まぁ。そんなところです」

 僕はヒラサカさんに話を合わせて頷いた。

「でも、いい判断ってなぜですか。首吊りなんて苦しいだろうし……。他に楽な死に方なんていくらでもありそうだ」

 僕の言葉を聞いて彼女はおかしそうにクスクスと笑った。

「では、その『楽な死に方』とやらを教えていただけますか?」

 ヒラサカさんは意地悪い顔で僕に尋ねた。言葉に詰まったが、一つひらめいた。

「薬があるじゃないですか。睡眠薬ですよ。大量に飲めば死ぬと聞いたことがあります」

 僕の起死回生の回答を彼女は控えめの笑で一蹴した。

「確かにお薬はお手軽ですね。一定の量を飲むだけで死ねる、条件だけに注目すれば一番楽な死に方かもしれません。──ところで、睡眠薬などをお飲みになられたことは?」

 以前、悪夢を見始めた頃に一度だけ心療内科に通院した。その際に睡眠薬だか、睡眠導入剤だかを貰ったな。

「ええ。ありますよ。眠れるというより、意識が落ちるって感じでしたけど」

「現在処方されている睡眠導入剤は、脳の機能を低下させて強引に睡眠へと誘うタイプがほとんどですからね。早乙女さんが飲まれたのもそちらでしょう。最近では生理的な物質に働きかけて、本来の自然な眠気を強めるタイプの眠剤も存在するので、機会があれば、そちらをお試しになるのもいいかと思いますよ」

 すらすらとそらんじるようにヒラサカさんは言った。

「そこで、なんですが。一般的な睡眠薬や眠剤で自殺を図る場合の致死量、どの程度かご存知ですか?」

 人差し指をピンと立てて、彼女はにっこり微笑んでこちらを見た。

 致死量、一体何錠だろうか。処方された時は確か寝る前に二錠を飲んでいた。そう考えると五十錠も飲めば永遠の眠りにつくことができそうな気がする。

「五十錠とか」

「違いますね」

「じゃあ、百錠?」

「全然足りません」

「……五百?」

「本当に死ぬ気あります?」

 馬鹿にしたような彼女の声に僕のこめかみがピクリと動いた。

「む。じゃあ一体何錠なんですか」

 しびれを切らして尋ねた僕を見て、彼女は口元に笑みを浮かべて答えた。

「百万錠──それ以上なんて話も聞きますね」

「ひゃ、百万……?」

 けたが違う。百万なんて数そもそも飲めるワケがないじゃないか。

「つまり、睡眠薬では死ねないんです。薬の種類や個人差、アルコールの摂取などで色々と変わってはきますけど、それでも確実じゃない。強力なものでも致死量に至るのに数百から数千錠以上は飲まなければならないし、死ねなければ病院で処置を受けることになる。薬を取り除くための胃の洗浄なんて、それこそまさに地獄の苦しみですよ?」

 まるで経験してきたかのような口ぶりで、彼女はりゆうちように語った。

「なので、私はお薬での自殺は基本的にはお勧めしてません。楽なようで手間がかかるし、何より確実に死ねるかどうかわからないのでは自殺の手段としては本末転倒でしょう? もちろん例外もあるにはあるのですが。常識として、個人で手に入れられるお薬で楽に死ねることはまずないでしょうね」

「で、でも苦しいのは首吊りも同じでしょう? そりゃあ死ねる確率は薬より高いんだろうけど」

「ふふ。これ、ご覧になってもらえますか?」

 ムキになる僕にヒラサカさんがあやしく微笑んだ。彼女はタブレットの画面を見せた。画面には人間の横顔、その簡易なイラストが表示されている。彼女が指先で画面をタッチするとイラストの首に赤と青の線が浮かび上がった。

「このイラストを見てわかるとおり、脳に血液を送るための動脈は二つあるんです。一つはこれ。大体首の側面、のどぼとけのあたりを走る赤い線。皆さんご存知のけいどうみやくです。ほら、実際に触ってみてもわかりますよね?」

 彼女は僕の手をとり、彼女自身の首元へと引き寄せた。彼女の綺麗な白い肌に僕の指が触れた。胸の鼓動がトクンと高鳴り、彼女の頸動脈の位置も、彼女が続ける話の内容も全然頭に入ってこなかった。

「そしてですね、意外と知られていないのがこれ。ついこつ動脈と言って頸動脈の後ろ、この青い線がそれですね。けいつい──つまり骨に守られている動脈なんです。だからほら、たとえ手で首を絞めたとしても……」

 彼女がニコリと笑顔を見せた。ワケもわからず僕が笑い返すと、途端、彼女は僕の首を細い指で絞め上げた。

「ちょっ……なっ、何をっ!」

 想像以上に強い力でギリギリと首を絞め上げられ、僕の顔は苦痛で歪み、瞬く間に真っ赤になった。彼女の細腕を必死に外そうとしても、ガッチリと僕の首を捕まえていて離れない。意識が遠のきかけたところで不意に彼女が両手を離した。

「なっ……、何をするんですか……!」

 僕はその場で勢いよく咳き込んで、血相を変えて叫んだ。彼女は口元に笑みを浮かべたまま涼しい顔をしている。

「苦しかったですか?」

「あ、当たり前じゃないか!」

「ですよね。なぜ苦しかったと思います?」

「何でって。そんなの、君が僕の首を絞めるからっ! だから!」

「もっと具体的にお願いします。つまり、どこを絞められたから苦しかったんですか?」

「どこって、だからっ」そう言いかけて、さっきの彼女の話を思い出した。「……頸動脈?」

「そう、頸動脈です。正確には頸動脈と気道だけを絞めて、椎骨動脈は絞めることができなかったから苦しかったんです。手で首を絞めた場合、骨に守られた椎骨動脈を絞めることができません。結果、頸動脈だけを絞められたことで脳への血液供給が完全には止まらず、意識が落ちるのが遅まり、気道もふさがれることで今のあなたのように苦しむことになる。つまり、この場合の死因は窒息死が多いんです」

 彼女がタブレットの画面に触れると、イラストの首に縄のようなものが巻き付いた。

「そこでです。では首吊りの場合はどうでしょうか。首吊りの場合、縄がこんな風に斜め上方から首をけんいんするんです」

 再び彼女が画面をタッチすると、縄の巻き付いたイラストの首が右上方に引っ張られた。首がきつく絞め上げられている。

「これによってですね。手による首絞めと違い、頸動脈と椎骨動脈が同時に絞め上げられるんです。結果、わずかの間に脳への血液の供給が断たれ、首を吊った本人の意識は瞬く間になくなる。つまりこの場合の死因は酸欠ですね。それに意識がなければ気道を塞がれていても苦しくない。むしろ意識の落ちる瞬間は大変気持ちのいいものなんですよ?」

 まるでかつて首吊りを経験したことがあるような、そんな語り口で彼女は顔を上気させている。細い指先を唇に当て、口を半開きにしているその姿にはこうこつの表情が見て取れた。我に返ったヒラサカさんがつくろった笑顔を見せた。

「あら、ごめんなさい。私としたことがつい」

 僕は彼女から距離を取るようにしてベンチの端へと座り直した。一体なんなんだ、この人。胸焼けするような不謹慎極まりないうんちくじようぜつに口述するだけでは飽き足らず、あげの果てには殺す勢いで喜々として人の首まで絞めておいて、あっけらかんとしたこの態度。助けてくれた恩人に対して失礼かもしれないが、僕の中に彼女への不信感が着々と溜まっていくのを感じる。

「……あの、詳しすぎませんか? その、自殺のアレコレとか」

「仕事柄当然ですよ。こうやってみなさんにお話しする機会も多いですし」

 そう言われると確かにそう、なのか? ざんとか、悩める人の話を聞くことがシスターの仕事ではあるだろうから、こういう方面の話に明るくてもおかしくはない……のか?

 僕は釈然としないまま、とりあえずは彼女の話を受け入れることにした。

「……まあ、首吊りが楽に死ねるってことはわかりましたよ。でも、やっぱり……。死んだ後、衆目にあんな姿を晒すのは気が引けますよ」

 僕は林で首を吊った女子生徒の姿を思い浮かべていた。顔がドス黒いような紫色に鬱血して膨らみ、見るも無残な姿だった。

「それって昼間の女子高生の話ですか? 森鴨神社の側の林で首を吊っていた」

 僕は驚いて彼女を見た。「なんで」と思わず声が漏れた。

「なぜって、私も遺体を見ましたから」

 彼女もあの場にいたとは気付かなかった。先ほどと同じ甘い匂いがヒラサカさんから香った。林で漂っていた甘い匂い、あの匂いは彼女の香水だったのか。

「確かに。あの子のなきがらは、私も少し……。いえ、かなりびんに思いましたね」

 彼女の癖か。編み込まれた前髪を指でもてあそびながら、少し低めのトーンで呟いた。

「でもご安心ください」一転、明るい声で彼女は続けた。「普通、首吊りをしてもあんな風に顔は鬱血しません。頸動脈と椎骨動脈が同時に絞め上げられることで、脳への血液供給が完全にストップしますから」

 そう言って彼女はタブレットに首を吊った老若男女の写真を次々に表示してみせた。僕は思わず目を薄く閉じたが、確かに彼らの死に顔は綺麗なものだった。

「じゃあ、何であの子の顔は?」

「顔が鬱血するということは、脳への血液供給がされている反面、脳から血液が一向に出ていっていないことを意味します。つまり脳から血液を送り出す静脈だけが絞まり、脳へ血液を供給する動脈が絞まっていない状態です。血液が溜まる一方なんですよ。だから顔が膨らむんです。私に首を絞められた時、あなたも顔が真っ赤になったでしょう?」

 次に彼女が画面をタッチすると、顔が鬱血した死体の写真が次々に表示された。これにはさすがに目を伏せた。

「簡単に言うと、血液の逃げ場がないのに血液供給が続くから鬱血するんです。頸動脈が絞まっていたとしても椎骨動脈が健在であればどんどん脳へ血液が供給されますから、血液の逃げ場がないんですね。でも首吊りの場合は二つの動脈が同時に絞まるでしょう? だから血液は首から上には供給されないし、静脈が絞まっているから逆もまた然りです。なので顔は綺麗なままなんですよ。首吊りにおいては失禁や脱糞の問題もありますが、これはまた別の話ですね。そちらは死ぬ前に排尿、排便しておけばどうにか」

 最後まで話し終えた彼女は缶コーヒーの残りを一息に飲み干した。僕の彼女に対する不信感はつのりに募っていた。怪しい。怪しすぎる。首吊りと首絞めによって死体の顔が鬱血するかどうか決まる……普通、警察や医者でもないのにそんなこと知っているものだろうか。この人、本当にシスターなのか? それに、さも当然のように僕に見せたあの首吊り死体の写真はなんだ。一体どこであんなシロモノを……。

 いや、それよりも彼女の今の話。首吊りは顔が鬱血しないのなら、なぜ林で首を吊った少女は顔が鬱血していたのか。首を絞められた時の僕と同じ──。

「──彼女」

 ヒラサカさんがそっと呟いた。まるで考えを見透かしたように、眼鏡の奥の瞳がじっと僕を見ていた。

「林で首を縊った女子高生。彼女、本当に自殺なんでしょうか。ね?」

 ヒラサカコヨミ──彼女の瞳は黒い渦を巻いているようで、ひどく濁っていた。少なくとも、その時の僕にはそう思えた。

「そろそろこちらのお話を進めても大丈夫ですか?」

 殺人かもしれない。昼間の首吊り死体のことを考えていた僕はヒラサカさんの言葉で我に返った。彼女は僕の膝の上のアンケート用紙を指差してニコリと微笑んでいた。

 正直、すじようの知れない彼女の常軌を逸した言動をたりにした今、ヒラサカさんには悪いけれど僕は今すぐここを立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、親切にしてくれた彼女を無下に扱うのも気が引けたし、何より、下手へたに断って波風を立てることに不安を覚えた。ここは彼女の願いを誠実に受け入れ、あとくされなく別れることが正解だろう。仮にもヒラサカさんは僕の命の恩人だ。僕は自分にそう言い聞かせた。

「ああ。ごめんなさい。どうぞ進めてください」

「ありがとうございます」

 ヒラサカさんは姿勢良く綺麗な所作で頭を下げた。ゴシックな見た目に反して和を感じさせる、その落差が彼女を妙に魅力的に思わせたが、僕は必死に頭で否定した。

 ヒラサカさんはタブレットのカバーからまた何かを取り出すと、それを僕に手渡した。それははすの花をあしらった一枚の便箋だった。

「もしも無事にあの世へ逝けたなら──お手紙いただけますか?」

「……あの世? 手紙?」

 困惑する僕を余所よそに、彼女は編み込まれた前髪をクルクルと弄ぶようにいじっている。

「驚かれました? 普通サービスの対価は金銭ですもんね。けれど、今回はお手紙一通で結構ですよ。私はあの世があるのか、あればそこがどんなところなのか。あの世へと旅立つ契約者様にそれを教えてもらいたいだけなんです。あの世に憧れる小娘とあの世へ逝きたい契約者様。双方得するwin-winの関係だとご理解いただければそれで大丈夫です」

「……あの。あの世って。あの、あの世ですか? 死んだら行くっていう、あの?」

「はい。その、あの世です。あの世のことを教えていただきたいんです。天国の住み心地とか、極楽浄土の観光名所なんかもいいですねぇ。死人は常にいるから人口についても気になりますし、生活様式の究明は最重要案件かも。とにかく参考になりそうなことを手紙にしたためて、ぜひ教えてほしいんです。あっ。でも……地獄の情報は参考にはならないかな。私は行くとしても天国でしょうから。でも、そうですね。興味はありますからそれはそれで無駄にはなりませんけど?」

 大真面目にそんなことを言う彼女を僕はぽかんとした間抜けな顔で見ていた。首吊りの講釈の次は死者からの手紙。奇異極まりない趣味嗜好を持つヒラサカコヨミというこの女、一体何者なんだ。

「あの。あなた何なんですか? そんな格好しているけど、どう考えても教会のシスターじゃないですよね?」

「なんですか、それ。この町に教会なんてないじゃないですか」

 盲点だった。言われてみればそうだ。けれど、それならなぜこの人はシスターの格好なんてしているんだろうか。

 僕はもう一度ヒラサカさんの姿を眺めた。そこでようやく自分が大きな勘違いをしていたことに気付いた。彼女の服は修道服でもなんでもなくて、どうやらビジネススーツらしい。白のブラウスに黒のジャケットとスカート。黒いストッキングに黒いヒールと、一見するとオーソドックスにまとまっているように思える。

 ジャケットの縁を見事な白いししゆうが線のように走り、同じようにスカートにも及ぶその刺繡が、ジャケットのそれと合わさって変則的な十字架を形成している。それが、シスターベールのような頭のアクセサリーと合わせて、僕に彼女をシスターだと誤解させていたようだ。ゴシック風ではあるけれど、彼女のその出で立ちには、まさにキャリアウーマンという言葉がぴったりだった。

 クスクスと笑ってヒラサカさんは僕の膝の上の書類を指差した。

「……アンケート用紙?」

「違いますよ、もう。それは契約書です」

「契約書?」

 アンケート用紙だと思っていた書類を手に取り、上からさっと文面を眺めた。

「自殺願望及びねんりよ実現に向けての自殺幇助契約書」

 書類に並ぶ不穏な言葉の数々。自殺願望? 希死念慮? 自殺幇助契約ぅ?

「死にたい方の手助けをする──つまりは自殺のコンサルタント。そうお考えください」

 昼間、部室で話題になった馬鹿馬鹿しい都市伝説。オカルト雑誌に特集されていた自殺幇助の女。

「じ、自殺幇女……」

 人を自殺に追い込む怪人物、自殺幇女。今、魂香町を騒がせている都市伝説の女。それがこの女性──ヒラサカコヨミだっていうのか。まさか、本当に実在するなんて思いもしない。僕は何かを言いかけては鯉のように口をパクパクと開閉するしかなかった。

「どうかされましたか?」

 ヒラサカコヨミが僕の顔を覗き込んだ。肩まで伸びた綺麗な銀髪がふわりと揺れた。

「もしかして、私のことご存知でしたか? 自殺幇女。うまいこと言ってるつもりなんでしょうけどね。こっちとしては大変なんですから。ただでさえおおを振ってはやれないお仕事なのに、ある雑誌では宣伝まがいの特集まで組まれちゃって。私としては目立つような行動は控えているつもりだったんですけどね」

 嘆息する彼女の『目立たない』シスター調のスーツ姿と、綺麗に整えられた『控えめ』な銀髪を僕は凝視していた。

「ですから、今夜のことはくれぐれも他言無用でお願いしますね。もし、他の誰かに喋ったりしたら、その時は……、なぁんて冗談ですけど。できるだけ、守ってくださいね?」

 ヒラサカコヨミは僕にそう釘を刺して笑った。他言無用、一体それを破ったらどうなるのか。青ざめる僕に彼女は何か思い出したように言葉を続けた。

「そうそう。忘れてました。これがないと早乙女さんからのお手紙が届きませんね」

 差し出されたのは一枚の封筒だった。それは真っ赤に染まっていた。首を吊った女生徒の制服から落ちてきた封筒、あれと同じ赤い封筒だ。どうして、この封筒をヒラサカコヨミが持っているのだろうか。いや。どうしてあの女生徒が持っていたのか、そう考えるべきだろうか。自殺幇女。静かな田舎町である魂香町で起きている奇妙な連続縊死。

 僕の思考をさえぎって、何かが顔面に跳ねた。飛沫しぶきのような感触だった。水か、と思い頰に指をわせるとぬるりとした感触がある。僕の指先は赤く染まっていた。

「ひととおりのご説明も済んだところで。さあさあ。どうぞ、ご遠慮なく。ただの朱肉代わりです。仕上げの拇印をこちらに。それで晴れて契約は完了です」

 ヒラサカコヨミは右手の親指を僕の眼前に突きつけた。とろりとした綺麗な鮮血が彼女の親指から流れている。その傷口は見るからに深く、れた鮮血が僕を催促するように地面にしたたっている。

「さあ。お早く。さあ。さあ」

 指から血を流しながら、貼り付けたような笑顔を浮かべるヒラサカコヨミの常軌を逸した姿に僕はせんりつした。先刻、途切れた思考が再び繫がる。自殺幇女は実在する。人を自殺に追いやる女はこうして目の前に存在している。なら、その犠牲者は誰だ。自殺と他殺の混在する連続首吊り事件。未だ捕まらない犯人。そのすべては同一犯の仕業という。植村がいだいていた不安は的中した。まさか本当にその犯人は、この女──ヒラサカコヨミなのだろうか。

「早乙女さん?」

「あ、あ、あの。もう帰らないと。こんな時間なんで、その……。さよなら!」

 契約書を払いのけて僕はその場から逃げ出した。逃げ出す僕の背中にヒラサカコヨミが何度か呼びかけていたようだが、彼女の言葉は僕の耳には届かなかった。

 

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