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しずるさんとうろこ雲(第1回)

著者:上遠野浩平
第4回電撃ゲーム小説大賞を受賞、電撃文庫から『ブギーポップは笑わない』でデビュー。
同作はライトノベルの潮流を変え、後続の作家にも多大な影響を与えた。『事件シリーズ』『ナイトウォッチ三部作』など著作多数。 Jブックスからは『JOJO』シリーズのノベライズ『恥知らずのパープルヘイズ』を刊行、30万部に迫るヒットとなる。

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 しずるさんとうろこ雲

"Scales Cloud"

 

 恋とはどんなものかしら
知ってるひとは教えてよ
 僕の心の中にはあるの?

──〈フィガロの結婚〉より

 

 その坂道を上っていくとき、私はいつも不思議な気持ちになっている。

 楽しいような、不安なような、ちょっぴり怖いような、でもやっぱり心弾むような、なんとも言いにくい感覚の中、足取りはいつだって軽い。

 そこは街から少し離れた郊外にある場所で、山の中といえばそうなのだけれど、綺麗に舗装された道が上へと伸びていて、民家や商業施設なんかほとんどないのにきちんと周辺は整備されていて、でも他の通行人と行き会ったことがほとんどない、どこか夢の中の場所のような坂道だった。

 その先には、一つの建物がある。真っ白くて、真四角で、なんだか建築物というよりも、ぼんやりした塊というか、なんだったらお豆腐のような印象のあるそれは、病院で、そしてそこには……

(ん──?)

 見上げた私は、空一面に雲が広がっていることに気づいた。

 ゆったりと流れる雲ではなく、細かい粒のような形がたくさん並んでいる、あまり見かけない雲だった。

(────)

 私がぼんやりと、歩道の途中で立ち止まっていると、

「どうしたね、よーちゃん。なにか落とし物でもしたのかい?」

 と、病院の門にいる警備員の人が声をかけてきた。

「あ、い──いえ。なんかすごい空で」

 私はそう返事した。私はもうこの病院では見舞客としてはすっかり常連で、みんなと顔なじみになってしまっている。

「ああ、うろこ雲だね。珍しいね。地震が起きなきゃいいけどね」

「え?」

「いや、天変地異の前触れだって話があるんだよ、あの雲には。まあ適当な与太話だろうけどね」

 警備員さんはそう言って笑った。私も愛想笑いで応じる。

 そして顔パス同然で門をくぐり、受付でも「あらよーちゃん」と笑顔で迎えられて、特になにか書類に記入とかもなく、そのまま奥に通される。

(変わっているよね──)

 この病院に来るたびに、私はそう思う。そもそも私は、他の入院患者とか、見舞客とかにも一度も会ったことがない。ただ目的の場所に行くだけで、他のところがどんな風になっているのかも知らない。エレベーターで目的の階に直行して、白くて静かな廊下を歩いていく。日によっては先に医師の先生のところに行ったりもするが、今日はそういう必要はない。

 その部屋の前に立つとき、私はいつも新鮮な気持ちになる。最初に扉をノックしたときと変わらない、足下がふわふわと浮いているような、奇妙で揺れていて、でもなんだか不思議と落ち着いているような、そんな気分になる。

 ノックして、きっかり三秒後に、いつもと変わらない声がする。

「どうぞ」

 ドアを開けたときには、もう視線が合っている。私の足下も、床にしっかりと着地する。

「こんにちは、しずるさん」

「いらっしゃい、よーちゃん」

 ベッドの上で、彼女は穏やかに微笑んでいる。その笑顔を見ると、私は心の底からほっとする。

「さっき、門のところで立ち止まっていたけれど、なにかあったの?」

「ああ、別になんでもないよ。雲が面白い形になっていたでしょ。見上げていたら、警備員さんに声かけられて──」

 と言っている途中で、私は気づいた。この病室の窓から見える角度では、あの雲は見えない。風向きからして、見える位置を流れていった訳でもない。彼女にはあの雲は見えなかったのだ。

(────)

 私が一瞬だけ言いよどんだのを、しずるさんは当然、見逃さずに、

「よーちゃんは、ほんとうに頭がいいわねえ」

 と唐突に言う。

「あなたが何を見てきたのか、私はその話を聞くのが好きなのよ。私がその雲を見られたかどうかなんて、そんなことを気にしなくてもいいの」

 その優しい口調に、私は少し胸が苦しくなる。

 彼女は──私と知り合ったときからずっと、この病院に入院していて、外には出られない。先生から聞いた話だと、外出したいと願い出たこともないそうだ。私にも言わないし、出たいという意思を匂わせたことすらない。でも私からそのことを切り出すことは、なんだか駄目な気がして、何も聞けずに終わってしまう。

 今も──

「う、うん……」

「どんな雲だったの?」

「え、えと……なんか細かい粒みたいなのが並んでいて。警備員さんはうろこ雲って言っていたけど」

「ああ、巻積雲ね。あれって水の結晶じゃなくて、氷の結晶が集まっているのよ。雲としては小さめで、しかも薄めだから、光が透けてうろこみたいにばらばらに見えるのよ」

 しずるさんの口からは相変わらず、すらすらと知識が流れ出てくる。

「ああ、確かにモクモクって感じじゃなくて、薄かったわ」

「うろこ雲ができるってことは、空の上と下で温度差があって、急に冷やされてるってことだから、天気が変わる可能性があるわ。明日は雨かもね」

「そうなんだ。今日来られて良かったかな」

 と言って、私はすぐに、

「ああ、でも雨の日に傘を差してくるのも悪くないね。うん、どっちでもいいね、やっぱり」

 ひとりでうんうん、とうなずきながら言うと、しずるさんはくすくすと笑って、

「よーちゃんは優しいけど、でもときどき空回りしてるわね。でもそういうところがあなたの魅力だわ」

 そう言ってウインクしてきた。私は少し唇をとがらせて、

「もう、それって私が馬鹿ってことでしょ。そりゃあしずるさんに比べたら、誰だって間抜けに見えるわよ」

「いや、それは逆よ。よーちゃん」

 しずるさんはふいに、真顔に戻って言う。

「あなたは、私が自分でも気がつけないことを色々と先回りして、たくさん教えてくれているのだけど、残念ながら私の鈍い感性ではそれらをすべて受け止められないのよ。馬鹿はあなたじゃなくて、私の方。 それでもずっと私に辛抱強くつきあってくれるのだから、あなたが間抜けなんて、とんでもない間違いだわ。間が抜けているのは私」

 彼女はまっすぐに私を見つめながら、迷いなくそう断言する。

「…………」

 私はとっさに言い返せずに、ちょっと口ごもってしまう。すると彼女はまた微笑んで、

「よーちゃんは、甘いのよ。私を甘やかしてるの。そして私はそれにつけ込んでいるのよ。そういう意味じゃ、私はずるがしこいとは言えるけれどね」

 といたずらっぽく言った。私もつられて、

「そうかな、甘いかな?」

「ええ、とっても」

 私たちは見つめ合って、そしてけらけらと声を出して笑った。

 この彼女──しずるさんがどういうひとなのか、私にはとてもうまく説明できる気がしないし、正しく完璧に、彼女のことを理解できるなんて、そんなことはとても不可能だけど、でも彼女のことを一言で説明しろ、と言われれば、実に簡単な言葉がある。

 しずるさんは名探偵である。

 彼女にふさわしい呼び方は、今のところ他にはない。病院の人たちは彼女のことを〝お姫様〟とか呼んだりすることがあるけれど、私にはこの呼び方はしっくりこない。私はときどき、彼女に向かって世間で話題になっている未解決事件の話をする。すると彼女はベッドの上から一歩も動かずに、純粋に推理だけでその謎を解いてしまう。私からしたら、彼女は神様みたいに賢明なのだが、しかし彼女はそのことを一切誇示しない。それどころか今みたいに、私の方が頭がいいとか言い出す始末だ。

 でもそういう風にからかわれるのが、なんともくすぐったくて、心地よいのも確かで、私は彼女といつまでも話をしていたいって思ってしまうのだ。

「でもよーちゃん、別にうろこ雲をはじめて見たって訳でもないのでしょう? どうして今日に限って、空を見上げて、足を止める気になったのかしら?」

「いや別に、そんな深い考えとか、気持ちがあった訳じゃなくて、なんとなくだけど」

「そうかしら? ぼんやりと何か、心に引っかかっていることがあるんじゃないの。そして、それは私と話すようなことではない、と思っている、とか」

 しずるさんは淡々と言う。言われて、私は少し落ち着かない気持ちになる。

 その通りだったからだ。

 またしても、私はしずるさんにあっさりと心の中を見抜かれてしまった。でも──それは不快な動揺ではなかった。

「うーん、そうなんだけど、でもこれって、いつもみたいな事件でもなければ、答えがそもそもあるのか、わかんないようなことで」

 素直にそう言ってみると、しずるさんはにこやかに微笑んで、

「誰かに、恋の相談でもされたのかしら」

 と、いきなり切り出したので、さすがに私も驚いた。

「ど──どうしてわかるの?」

 声を上げてしまう。するとしずるさんは、

「いや、適当に言ってみただけ。当たっちゃったの? それは驚きね。まぐれってあるのね」

 と笑顔で言う。本心なのか、それともふざけているのか、もうその区別をつける意味すら、私にはなくなっていて、

「……実はそうなの。昨日、法事があって、親戚の人たちで集まったんだけど、そこでいとこのお姉さんに奇妙な話を聞かされて……」

  

 

 

 

 

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