――小説を初めて書いたのはいつごろですか? きっかけと内容を合わせてお聞かせください
遊びの延長で、小説モドキみたいなものは、小6か中1の頃に書いていました。内容は名探偵が出てくるミステリーですね。四百字詰めの原稿用紙に手書きで、50枚くらいの作品だったと思います。原稿を二つ折りにして重ねて、端をホッチキスでとじて、一応、製本したような気分でいました(笑)シリーズ主人公で、三作くらい書いたように思います。
きっかけは何でしょうか? 小説モドキを書く前は漫画を描いてたんです。でも、画力の低さに気づいて、文字の方に移行したんじゃないかと。
あと、お笑いが好きだったんで、中学の頃は漫才やコントの台本もたくさん書いてましたね。それを自分で声に出して読んで、テープに吹き込んで、みたいな遊びをしてました。暗いなあ(笑)そして、テープってところに時代を感じます。
学生時代からのお笑い好きが、ギャグ満載の本作や吉本新喜劇の脚本などに活きている
――初めて書いた小説が受賞作『ランニング・オプ』に与えている影響や、引き継がれたエッセンスなどがあればお聞かせください
小6の頃に遊びで書いていたものは、名探偵が主人公の本格物っぽい作品で、『ランニング・オプ』はハードボイルド物なので、特に引き継がれたエッセンスはないんですが......。ただ、いずれにせよ、小説を書くなら広義のミステリーというか、エンタテインメントがいいな、という気持ちはありました。どんな話であれ、最後にちょっとした謎解きがあるものがいいなと。
――自身に影響を与えた作品のタイトルと、好きだった点をあわせてお聞かせください
『学問ノススメ』清水義範
予備校に通う浪人生の話です。「挫折編」「奮闘編」「自立編」と三部作なんですが、最初に読んだのは中三の頃ですかね。以来何度読み返したかわからないくらい好きです。青春時代のバカバカしいところ、美しいところ、ちょっと汚いところ、全部詰まった小説です。つるつると引っかかりなく読める清水先生の文章も大好きで、お手本にしています。
『新宿鮫 無間人形』大沢在昌
館ものとか孤島ものとか、本格系ばかり読んで、ちょっと食傷気味になっていた時、気分転換にと思って、この作品を手に取りました。ハードカバーじゃなくて、ノベルス版でしたね。一読驚嘆! 活字を追いながら、刑事の体温や犯罪者の息遣いがまざまざと感じられる、鮮烈な読書体験でした。大沢在昌おもしれー! ハードボイルドおもしれー! 読みながら「すげえ!」って声が出たことを覚えています。ジャンルにしても、作家にしても、食わず嫌いはいかんなと思いました。そして、エンタテインメントを書くなら、何がなんでも、最後の最後まで、全力を尽くして読者を楽しませないといけない――という姿勢も、大沢作品からは学びました。
「唆す」「臍曲がり新左」藤沢周平
ジャンルの食わず嫌いはいかんなということで、時代物にも手を出したのが、二十代前半の頃。藤沢作品はどれも好きなんですが、ここに挙げた二つの短篇は特に印象的でした。「唆す」は、全編を不穏なトーンが覆う、ホラー風味。「臍曲がり新左」は、隠居した老武士が悪を斬る、ある意味でハードボイルド。
藤沢作品と出会っていなかったら時代物というジャンルを好きになることもなかったですし、時代物の漫画原作は書いていなかったと思います。
――プロデビューを志したのはいつ頃からですか? 最初からプロ志向だったのか、何かのきっかけがあったのか教えてください
小説家なのか、シナリオライターなのか、演芸作家なのか、とにかく原稿を書くことで食っていけたらなあ、というのは中学生ぐらいから漠然とは考えていました。
プロになることを意識したのは、大学三年生の時ですかね。あるコンテストに短篇のミステリーを応募したら、入選して文庫のアンソロジーに入れてもらったんです。で、生まれて初めて印税というものをもらったんです。好きなことしてお金もらえるなんて、こりゃいいやと。それから投稿を始めるようになりました。ただ、うまくいかなくて一度は就職するんですが。
――小説賞に応募する以前、周囲の方に小説を読んでもらうことなどはありましたか? あった場合は他人に読んでもらうことの影響を教えてください
大学時代、遊びで書いた小説を知り合いに読んでもらったことはありますが、応募作を誰かに読んでもらったことはありません。どんなことを言われても、最終的な判断を下すのは自分なので、他人の感想はいらないかな、と思って。
ただ、応募作を一旦書き上げたら、一週間とか二週間寝かせて、頭をリセットしてから読み直すということは必ずしていました。そうすると必ず粗やミスが見つかるので。今も、依頼された原稿に関しては、さすがに一週間寝かすことは無理ですが、一晩は必ず置いて読み直すようにしています。要は他人であれ自分であれ、新鮮な気持ちで、目で、チェックするのが大事ということですかね。
――デビューするまでJUMP j BOOKS以外の新人賞には投稿されていましたか? 投稿されていた場合はその経験から得られたことを教えてください
長編を書く根気は自分にはないな、と思っていたので、短篇の新人賞を中心に投稿していました。ただ、ジャンプ小説大賞以外は、ほぼ全敗でしたけど。
得られた経験は、何でしょうか、単純にたくさん書いていると、書くスピードは上がりますね。「小説を書く、文章を書く」という行為が特別なことじゃなく、日常の一部になるので、執筆速度は上がるんじゃないでしょうか。ただし、これは個人差があるような気がします。速度が上がったあと、また落ちてくるというパターンもあると思います。知識やテクニックが増えると、今まで無自覚に無意識に通過していたポイントが気になりだして、かえって執筆速度が落ちてしまう、みたいな。
――なぜジャンプ小説大賞に応募しようと思ったのかを教えてください
これはもう、審査員に大沢在昌先生がいらしたからですね。そのとき書こうとしていたものもハードボイルド物ですし、ちょうど『新宿鮫』にガッツリ噛まれた時期だったので、大沢先生に読んでもらえたら最高だなと思っていました。あとは、当時のジャンプ小説大賞って、たしか上限二百枚だったんですよ。だから、長編よりは短いので、なんとか書き切れるかな、と。さらに言うと、「もし受賞したら、子どもの頃から読んでるジャンプに俺の名前が載るじゃん」なんてことも考えていたと思います。
――応募作はどれぐらいの期間をかけて書かれたのでしょうか? また、応募するとき自信や手ごたえはあったのでしょうか?
書いたのが二十年以上前なので、記憶は定かじゃないんですが、三ヵ月~四か月ってところだと思います。詳しくプロットを立てないで、書きながら考えたんじゃないでしょうか。書いていたときはサラリーマンだったんですが、出張先のホテルでも書いてました。勤勉だなあ、若かったなあと思いますね(笑)
応募するときに手応えは特になかったです。その前年にもジャンプ小説大賞に応募してたんですけど、一次審査で落ちてましたから。他の新人賞でも落ちまくって、「落ち慣れ」してましたから、これも多分ダメなんだろうなあ、と思っていました。
――3度目の投稿で初受賞となりましたが、原稿執筆や投稿などへのモチベーションはどのように保ち続けていたのでしょうか?
まだ若かったんで、続けていればそのうち引っかかるだろうな、ぐらいには思っていました。他に趣味もなかったですし、じゃあ原稿書くか、みたいな感じでしたね。
あと、これは投稿者へのアドバイスとしてよく言われることですけど、ある賞に応募したら、結果がわかるまでに別の賞に応募しておく、ということは心がけていました。Aという賞で落選がわかっても、まだBがあるもんね、という気分でいられるので。だからモチベーションが低下するということはなかったです。
次回更新は6月12日予定!!
受賞してからの様々な活躍をお聞きしました!
お楽しみに!!