『散りゆく花の名を呼んで、』コメント
必ず果たしたい復讐があった。
私は今日、自ら命を絶ちます。
1.
教室の床に、一冊のノートが放り投げられた。
新品ではない。表紙には名前と『現代文』の科目が書かれ、中身は数枚の白紙を残して埋まっている。誰かの持ち物だった。
ノートは次の瞬間、複数の足によって踏まれた。絶え間なく、執拗に。
――ふふっ
その様子を見て、一人が吹き出した。教室内には五つの影があった。可笑しさは伝染し、狭い教室は笑い声で満ちた。
――きゃははは
ノートは足跡だらけになり、ボロボロになった。
「――キラズ」
一人が〈その名〉を呼んだ。
「早く来なよキラズ!」
「ほらほら遊んであげるからさぁ!」
「遊ぼうよ、グズでノロマなキラズちゃん!」
罵倒は笑い声と混ざり合う。ただし一人だけ罵詈雑言に胸を痛めていた。しかし、そのことは誰も知らない。知ろうともしない。
「キラズ!」
再び〈その名〉を口にする。それがひとつの存在を貶め、ひとつの心を傷つけることにも気づかず、影たちは――少女たちは楽しそうな弾んだ声で、罵る。
彼女らはこれを『部活動』と称していた。
彼女らにとって、これは『遊び』だった。
ノートの傍らにコップがあった。学校の排水路から汲んできた、ゴミと羽虫が浮いた汚水が中を満たしている。
一人がコップを手に取った。中身をぶちまけるためだった。
【五月二十八日(水曜日)】
駅のホームに、一通の封筒が落ちていた。
誰かの落とし物であろうそれは、足跡だらけだった。乗り降りする客たちに踏まれるが誰も拾おうとしない。
可哀想に、と鹿住未来 は思った。A4サイズの立派な封筒の表には会社名があり、中身はおそらく落とし主の仕事に関する書類なのだと察せられた。
だが、乗車口に並んでいる列を抜けてまで、それを拾って駅員に届けたり持ち主を探したりする気にはなれなかった。もうすぐ電車が来る。
(まだ朝の七時前だってのに混んでんなぁ)
昔はここまで混雑していなかったのに、と記憶を辿 る。高校生の頃、乗換で毎日降りていたホームは改修され、わずか三年で見違えるほど様変わりしていた。だがそれは未来も同様で、着ているものは高校のブレザーからスーツに、肩書きも『普通科の男子生徒』から『大学の文学部学生』になった。
更に今日から二週間、『教育実習生』というのも加わる。向かうのは同じ県立篠森 高等学校でも立場も格好も昔とは違う。三年ぶりの登校を懐かしがる気持ちなどとうに失せた。
気を紛らわそうと周囲を見回した。少しだけ目を凝らして、耳を澄ませる。
未来の横に並ぶ女性は、しきりに手鏡を覗き、渋面 を作っていた。化粧の出来がいまいちなことに苛々しているようだ。
隣の列の男子中学生は、スポーツバッグに刻まれたチーム名のロゴをチラチラ眇める。今日は試合があるようで浮き足立っていた。
斜め前にいる老人は、紙袋を大事そうに抱えている。久しぶりに孫にでも会うのか、鼻歌まじりだった。
同じ電車を待っているが、乗客の目的地や心情はひとりずつ違う。各々の『名前』が異なるように――だが、その色とりどりの思念は一瞬で同じ色に染まった。やっと来た電車が乗客でぎゅうぎゅう詰めなのを見て。
「うわぁ……乗りたくない」とでも言いたげな憂鬱 感と共に、「うわぁ……乗ってくるなよ」とでも言いたげな憂鬱感に満ちた箱の中に入る。未来もうんざりしつつ、なんとか隙間に入り込んだ。
鞄を脇に抱え、吊り革につかまって一刻も早い到着を願っていると、胸ポケットの携帯電話が振動した。手を動かすと、未来の腕が中年女性に当たり、露骨に顔をしかめられた。
液晶画面に、メッセージが表示される。差出人は――母親だった。
『未来へ 何度も連絡している返事をよこしなさい何度も言うけれど進路を教師にするのは絶対に反対だお前に教師なんか務まるわけがない』
母は入力が苦手で、句読点を打てない。それは承知の上だが、その畳みかけるような言葉の攻撃は普段の母の物言いそのものだった。腹の底がカッと熱くなった――が。
(……ん?)
頭に血がのぼりかけた未来の意識を、ふと、何かがかすめた。
満員電車への憂鬱感にまぎれて届く、異質な念。出入り口付近からそれは発せられていた。頭を動かしてよく見ると、制服姿の女子高生が手すりの前に立っている。何だろう、何か気になる……。
理由はすぐに判明した。女子高生は鞄を胸に抱いて、顔を真っ赤にさせてうつむいていた。その背後には中年男性がいて、時折、彼女を見下ろしている。その視線はねっとりとした嫌らしさをはらんでいた。
(……痴漢かよ)
吐き気がした。女子高生は震えていて、声も出せないようだった。
母親への苛立ちも相俟 って未来は迷わず行動に出た。人の波を無理矢理かき分け、そちらへ移動した。電車がカーブを曲がり、大きく揺れて乗客たちがぐらつく。その好機を見逃さなかった。
「佐藤善夫、株式会社赤近、営業部部長」
痴漢の腕をつかみ、小声でそう言った。
そいつの心臓が跳ね上がるのが分かった。下衆は真っ青になり、女子高生から離れる。次の駅に着くや否 や電車を降り、足が絡まったのかホームでみじめに転がった。
効果覿面。未来には警察官の身内がいて、彼が教えてくれたことが役に立った。
――痴漢なんて卑劣なことをするクソ野郎はだいたい小心者だ。だから、犯行の最中に自分の『名前』を声に出されたら、一気に現実に引き戻されて、素性を知られている恐怖に耐えられない。もし現場に出くわして、騒がない方がいいと判断した時にはやってごらん。
ついでに警察とあいつの会社に匿名通報しておこう、と心に決めた。
電車が再び動き出すと、女子高生に一瞥もくれずに背を向けた。かなり声を抑 えたので聞こえていないはずだ。素知らぬ顔で乗り続け、十数分後、目的の駅で下りた。
「……あの!」
だが、その女子高生は未来に声をかけた。
しまった。背中に冷や汗がたらりと流れる。
彼女が着ているのは、濃紺のブレザーに、くすんだ青のチェック柄のスカートだった。まぎれもなく母校兼教育実習先、篠森高等学校の制服だ。
「さっき……助けてくださったんですよね?」
か細い声で、だが未来をまっすぐに見つめて彼女が言った。先ほどまでの恐怖から抜けきれていないのか、ひどく顔色が悪い。後ろでひとつにまとめた長い黒髪が少し乱れている。小作りな、幼い顔立ちの少女だった。
「えーと……まぁ」
未来が曖昧な返事をすると、
「あの、ありがとうございます。わたし、怖くて、何も言えなくて」
すみません、と彼女は消え入りそうな声で謝った。未来は面食らった。
「何で君が謝るんだよ」
「すみません……」
だから何で謝るんだ、とうっかり語気を荒らげそうになるが、思いとどまった。彼女の瞳があまりにも弱々しかったからだ。
全体的にオドオドとしており、他人に強く出られなそうな性格を窺わせた。この手のタイプは痴漢に狙われやすい――が、この少女に落ち度は何ひとつ無い。絶対に無い。
未来は気を取り直して、教師のタマゴらしい冷静でもの柔らかな態度を心がけた。
「悪いのはあいつなんだから、そんな風に謝らなくていい。君はちっとも悪くないよ」
なるべく余裕のある、落ち着いた声色を意識してはっきりと伝えた。彼女は顔を上げて目をぱちくりとさせる。未来はにこりと微笑を返した。
「でも、どうしてあの人の名前が分かったんですか?」
(やっべ、聞こえてた)
余裕は一瞬で瓦解した。その理由を正直に話すわけにはいかないので、
「君さ、この辺に文房具売ってるところ知らない?」
と、強引に話をそらした。今度は彼女が面食らう番だった。
「文房具、ですか」
「今日から篠森高校に教育実習に来たんだけど、ボールペン忘れちまって」
もちろん噓 である。無理があったかと焦っていると、彼女は肩のスクールバッグを地面に置いた。ドスンと思ったより大きな音が立つ。ジッパーを開けると、教科書やノートの他に文庫本やハードカバーの本が何冊も入っているのが見えた。
(お、読書家だな)
感心していると、彼女は筆箱からボールペンを取り出した。猫のキャラクターのマスコットがついているそれを無言で未来に差し出す。可愛 い猫がこちらを向いているが、彼女はうつむいていた。
流れでボールペンを受け取ってしまった。彼女はリボンを束ねて花の形にしたブローチがついた持ち手をつかみ、開けたままの鞄を抱え、くるりと踵 を返して走り出した。ピンクの髪飾りでひとまとめにした長い髪が猫の尻尾 のように揺れ、少し行ったところで振り返り、ぺこりと大きくお辞儀をしてきた。――お礼のつもりなのは分かったが、
「変な子だな……」
愛らしすぎるボールペンを手に、未来はひとりごちた。
篠森高等学校の校舎は最寄り駅のごく近くにある。が、小高い丘の中腹に建っているので、急な坂道を登らねばならなかった。
早い時間なので、通学路は閑散としていた。どこからか鳥の声が聞こえる。久々のキツい傾斜にすぐに太腿が痛くなり、動悸 や息切れが起こった。運動不足を痛感し、「俺も年をとったなぁ」などと思っていると、やがて五月晴れの青い空と懐かしい母校が見えてきた。
すすけた白い外壁に、レンガと鉄柵の門。校名が彫り込まれた黒の御影石。
排水路が敷地を囲み、緑色のフェンスの向こうには、青々とした桜の木々が並んでいる。
正面には職員室や保健室、特別教室などがあるA校舎。その入り口脇には掲揚旗ポールと、シンプルな設備時計が立っている。校旗はだらりと垂れ下がり、時計の針は七時半を示していた。
記憶のままだ。やにわに思い出が頭の中に流れてくる。文化祭や体育大会、修学旅行などの行事の他に、日常的なことが浮かんでくる。購買のおにぎりがうまかった、教室から体育館やプールは遠かった、特にプールは敷地の最 奥 にあり、休み時間の十分間で移動と着替えをするのが大変だった……。
(ああ、懐かしいなぁ)
知らず微笑んで、荒い呼吸を整えようとした時だった。
「えっ?」
思わず声が出た。
校舎が、暗い。晴れた空の下、窓だらけの四角い建物はそこだけ明度をゼロにしたかのようだった。
だがそれは一瞬のことだった。未来が自分の目の異常を疑う前に、校舎は――眼前の光景は正常を取り戻した。
(何だ今の……?)
無意識に後ずさりをすると、突然、肩を強い力でつかまれた。
「うおわぁ!」
大声を上げて振り返ると、スーツ姿の男が立っていた。
「……そんなびっくりせんでもいいじゃーん……なあお前、鹿住だろ? 鹿住未来!」
見覚えがある顔だ。ふっと脳裏に文字が浮かぶ。
「坂元……坂元大飛?」
高校一年生の時のクラスメイト、坂元大飛がにぱっと笑った。
「久しぶりー。鹿住も教育実習に来たんだろ? オレもオレもー」
よろしくな、と長めの髪をラフにセットし、ネクタイをゆるく締めた男は、未来の肩を叩く。その現実的な感触に、未来は冷静さを取り戻した。
「つか鹿住、よくオレのフルネーム覚えてたな? オレら同じクラスになったの一回こっきりだったのに」
ウッと返答に詰まった。
覚えていたわけではない。未来には『分かった』だけだ。
「そっちこそ」
「そら忘れねーわ、『鹿住未来』なんて微妙に言いづらい上にキラキラした名前。いまだにミライのイはドコに行ったんだってツッコみたくなる」
いやいやお前の名字も珍しい方なんだぞ、と言い返そうとしたが、坂元の後ろにいる二人の男女に気づいた。
「坂元くーん、そろそろアタシたちのこと思い出してくんないかなー?」
「……」
鼻にかかった声で坂元を咎める女を見て、未来はギョッとした。
美人だが、派手な女だった。深めのスリットが入ったスカートは、ちょっと屈 んだら何かが見えそうなほど短い。明るくカラーリングした巻き髪も赤いリップが特徴的な化粧も爪先が尖ったハイヒールも、やたら煽 情的 だった。
「ごめんごめん。コイツ、オレと同じ普通科出身の鹿住未来クン。見てのとーり草食系男子」
「えーやだ可愛い!」
女は未来を上から下まで見渡して、彼の茶色がかった天然癖っ毛を勝手に触り、「間違いなく草食系だぁ」ときゃらきゃら笑った。
先月参加した合コンでも同じことを女子に言われたなぁ、と未来はその手からさりげなく逃げつつ思い出した。どちらかといえば色白で、顎もそんなに尖っておらず、二十二歳にしては少年っぽさが残っている迫力の少ない顔立ち。茶色いアルパカみたいで警戒心が薄れる、という感想が衝撃的だった。どんな男なんだ俺は。
「アタシ、梅田唯蘭。英語科出身。よろしくね、未来センセイ」
梅田がウィンクを飛ばして言った。香水が鼻を刺す。スーツの型も身体の線にぴったりと沿っていて、同じ学部の教師志望の女子とは別世界の人間のようだ。色々なやつがいるものだ。
その梅田の後ろにいる男が、ふっとため息をついた。未来より頭ひとつぶん背が高く、体格もがっしりしている。濃い眉と浅黒く日焼けした厳 つい面相の彼は、未来に向かって手を差し出し、
「榊だ。体育科出身。よろしく」
簡潔に自己紹介をした。ファーストネームは告げず、また未来にも『分からなかった』が、手のひらにマメがあるのに気づいた。
四人の教育実習生は、そろって校門をくぐった。職員室に向かうと、隣の小会議室――実習生用の控え室で待機するよう言い渡された。長机とパイプ椅子、ロッカーとお茶のセットが置かれただけの簡素な部屋だった。
校長室に移動して、まずは校長講話を受ける。白髪を七三分けにした温厚そうな校長は、未来の在学中とは別の人物だった。
校長は終始穏やかに教師としての在り方を説くが、梅田は何度か欠伸 を嚙み殺していた。
「……さて、我が校の現状ですが、正直に言いますと、いじめは絶対にないとは言えませんし、なおかつ不登校の生徒も存在します」
軽く衝撃を受けた。学校にとって不名誉なことを認める校長に、未来は目を瞬かせた。
「私が校長として就任する前――八年ほど前ですが、結構ないじめ事件がありましてね。その件はある先生が中心となって、教師と生徒が力を合わせて解決にあたりました。以来、目立ったいじめは確認されていませんが、それでも隠れた被害者がいるかもしれない。皆さんは是非、『いじめなどありえない』という思い込みは捨てて、生徒ひとりひとりときちんと向き合ってください。また不登校の生徒は、全学年合わせて現在十一人います。そういう子たちは学校に居場所が見つけられなかった子たちです。そのことを踏まえて、自分に何ができるかを考えてみてください。教育実習生といえど、生徒たちにとっては『先生』なのですから」
校長はにっこりと笑って、実習生たちの顔を確認するようにじっと見つめた。その奥深い瞳に、未来は背筋がピンと伸びる思いだった。
県の教育の現状や教育に対する理念などを講じられた後、教務主任から教務の仕事内容、時間割に関することなどの説明があり、午前中はほぼ講話だけで終わった。午後になってやっと教科主任と授業内容について打ち合わせをする。未来の担当は現代文で、坂元は現代社会、梅田はコミュニケーション英語、榊は保健体育だった。
六時間目が終わる頃、各自の指導教諭と共に、配属された教室に向かうことになっている。
未来の指導教諭は、日根野谷 シズという現代文教師だが、彼女はクラスを受け持っていないので、クラスの指導教諭は、かつての担任である袴利隆となった。
「袴先生、ご無沙汰しています」
「久しぶりだな、鹿住」
嬉しかった。袴は教師歴三十年のベテランで、未来の三年生の時の担任だった。担当は世界史だがジャンルを問わず物知りで、面倒見もよく、真面目な生徒にも不真面目な生徒にも慕われていた。
「何だ、すっかり男っぽくなって。でも細いのは変わらないな。米を食え米を」
袴が未来の腰を出席簿で軽く叩く。
「先生こそ相変わらずっスよ……ですよ。ほら、机の上とか全然変わらない」
袴の個人デスクに敷かれた透明デスクマットには、幼稚園児くらいの男の子の写真が挟まれていた。生まれたばかりの頃、ハイハイをした頃の写真まであり、ちょっとした成長記録だ。クマの形に切られた画用紙に、クレヨンで「パパ おしごとがんばれ たからより」と書かれた『お手紙』もある。昔と同じ親バカぶりに苦笑する。
「息子さん、大きくなりましたね」
「もう六歳だ。どんどん小生意気になってくるよ」
だがそこも可愛い、と言わんばかりに袴は相好を崩した。彼は遅くにできた一人息子を、目に入れても痛くないほど可愛がっているのだ。
「じゃあ行くか。クラスは二年八組だ」
「はい」
教師として担当する初めてのクラス。緊張したが胸を躍らせた。
A校舎を出て渡り廊下を抜け、普通教室があるB校舎に入る。二年八組は二階の端だ。
ふいに、袴が話を切り出した。
「教室に行く前に、指導教諭として注意事項がある」
妙に改まった口調だったので、思わず身を堅くする。
「生徒には全員、平等に接すること。名前は呼び捨ては厳禁で、男女問わず『さん』付けの敬称で呼ぶこと」
「え、男子も女子もですか」
「『くん』付けすると、男女で差別していると言われかねんからな。どちらさんにとは言わんが。それからなるべく、クラス全員と均等に話すこと。社交的な子もいれば引っ込み思案な子もいる。鹿住に対して、好意を持つ子も興味を持たない子もいるだろうが……まあ、偏 らないよう意識してくれ」
知らず、深く息をついた。
未来の時代、教師はみんな生徒を呼び捨てにしていた。敬称ひとつにもクレームが来るとは、思ったより現場は苦労が絶えないようだ。
「何より、生徒とはある程度の距離を保つこと」
幅広くて薄暗い階段を上がったところで、袴は強く、静かに言った。
「実習生でも、生徒にとっては教師だ。親しくなるのは構わんがケジメはきちんとつけろ。近すぎると、教師本来の役目を全 うできなくなる。教師の使命は、生徒が卒業するまでつつがない学校生活を送らせることだ」
「近すぎる、というと」
「教師は生徒の家族になってはいけないし、友達になってもいけない。ましてや恋人になるのは言語道断、絶対御法度だ」
「恋人って、やっぱり多いんですか、そういうの」
「毎年、全国のどこかしらで報告が上がってくるかな。男性教員が女子生徒に、女性教員が男子生徒に――まれに同性同士もあるが」
袴は顔だけ未来に向けて、にやりとした。
「ちなみに実習生も例外じゃあない。肝に銘じておいてくれ」
「や、ありえないです」
苦笑いが出た。いわゆる『禁断の恋』が実際にあるのは知っているが、未来の感覚としては『ナシ』だった。倫理観もあるが、単純に好みの問題でもあり、未来は口の悪い友人に「これだから甘やかされた一人っ子は」と肩を竦 められるほどには年上好きだった。
未来の反応に、袴は軽く笑った。
「ま、そこは信用するさ。――それに」
袴の声音が、やにわに鋭くなった。
「生徒といえど、全員が全員、必ずしも信頼に足る人間ではないしな」
袴は吐き捨てるようにつぶやいた。少し項垂れた彼の襟足の白髪が微かに震えていた。
が、すぐに袴は声音と態度を改めた。
「単に、三十年もやっていると、中には手に負えない生徒もいたってだけの話だ。だけど、そんな相手でも生徒として扱ってやらなきゃいけない。それが教師の使命だからな。――悪いな。脅 かすような物言いをしてしまった」
「いえ……」
先に行く袴の背中が遠くに思える。かつての自分が想像さえしなかった、恩師の教師としての分別を今になって思い知るとは。生徒の頃はクラスメイトと同様の、遠慮のない仲だと思っていたのに。
使い古されたトイレの前を通り、コの字廊下を曲がれば八組の教室だ。
校舎には昇降口がなく、上履きではなく土足なので廊下はいつも砂埃だらけだった。乱雑に積み上げられた個人ロッカー。手垢だらけの窓ガラス。それらの光景は記憶のままだった。しかしノスタルジーにひたる間は与えられず、扉の前に立つ。
二年八組。――初めての、未来の担当クラス。
「それと、うちのクラスは少々変わった名前の生徒が多いんだ。難読というか」
「キラキラネームってやつですか」
自分と一緒だ、と思った。
「『キラキラネーム』も、揶揄的で侮蔑 的だと、今は禁じられている。教卓に読みがな入りの名簿を貼りつけてあるから、使うといい」
袴の心遣いに、未来は「恐れ入ります」と畏まった。
下校前のショートホームルーム。扉の向こうは担任を待ちわびる生徒たちで騒がしい。袴がためらいなく扉を開けた。
生徒たちの視線が一斉に集まった。総勢三十二名、掛ける二で六十四個の瞳が未来に向けられる。気の弱い者なら、これだけで萎縮してしまうだろう。
未来は改めて胸を張って、教壇に上がった。
ぐるりと見回すと、小さく驚いた。窓際の前から五列目の席に、見覚えのある顔があったからだ。
長い髪をひとつまとめにした、おとなしそうな少女。今朝、未来が痴漢の魔の手から救った彼女だ。
漫画のような偶然に、驚愕するよりも頭を抱えたくなった。よりにもよって担当クラスの生徒だったなんて。
あちゃあ、と思っていると、彼女の前の席に座るボブカットの女子生徒が手を振ってきた。
人懐っこそうな笑顔を向けられ、思わず振り返したが、頭に大きなリボンをつけた女子生徒にジロリと睨 まれた。そして、そのリボン女子の頭を、ショートカットで眼鏡の女子生徒が咎めるように軽くはたく。
女の子四人組か、と何気なく思った。袴が生徒たちに席に戻るよう指示を出すと、教室のあちこちにあるグループがバラバラになり、着席した。
未来はあくまでにこやかに、堂々と言い放った。
「教育実習生の、鹿住未来です。現代文を担当します。二週間と短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
自己紹介も黒板に名前を書くのも完璧にできた。よし、と拳を握る。
教卓に手をついていると、クラス中がよく見渡せて、『見下ろしている』ような感覚になった。教師と生徒の違いを物理的に体感する。
篠森高等学校は元々女子校で、未来の在学中も女子が多めだったが、現在の男女比は半々になっていた。
生徒からの視線は好意が半分、興味なしや戸惑いなどが半分といった按配 だった。少し耳を傾けると、あちこちから『声』が届いてくる。「意外とイケメン」、「ガキっぽすぎて大学生に見えない」、「どーせ二週間だけだしどーでもいい」、「ヒョロいからワンパンで倒せそう」、「惚れられちゃったどーしよう? 禁断の恋になっちゃう」などなど、それらは口には出されなかったが、生徒たちは確かにそう考えていた。未来にはそれが『分かった』。中には、「変な名前。ミライのイはどこに行った」という未来としてはお馴染みの声も混じっている。
「では、皆さんの顔と名前を覚えたいので、出席を取りますから、返事と挙手をお願いします」
そう言って下を向くと、教卓の上の名簿がとんでもないことになっていた。
袴が入れておいた名前の読みがなが修正液で消されている。わざわざ細いペン先を使って、それだけ白く潰されていた。
未来がそれに気づいた様子を見せると、生徒たちの視線は一様に種類を変えた。
また『声』が届く――「どうだ、読めねーだろ、ウチのキラキラネームたちは」「固まってるーおもしれー」「読み間違えると、ビミョーな空気になるんだよねえ。初日なのにご愁傷サマ」などだ。
未来が困っていると思い込んだ生徒たちのほとんどは、ニヤニヤ笑った。悪戯 心を過分に含んだ眼差しには、敵意はないが悪意がふんだんに盛り込まれている。世間ずれしていないピュアな実習生をダシにして笑いをとろうという意欲が満々で、そのことを分かりすぎるくらい『分かる』未来はムッとした。
名簿のイタズラに気づいたらしい袴が前に出ようとするのを手で制する。
(大学生を舐めんなよ!)
未来はいっそう笑って、読みがなを失った名簿に触れながら出席番号一番から読み上げた。
「赤川翔夢さん、安西純莉愛さん、石間 信夫さん」
二番までは、難読名前としては初級レベルだった。三番もフェイントが利いているが、読めなくもない。
しかし四番と五番は、かなり難しい読み方だった。フェイントではなく頓知の類 いで、普通ならまず読めない代物だったが――未来には関係ない。
「井上紫花子さん、――恵田 桜香さん」
クラス中がざわめく。驚きを隠せない様子で、井上紫花子と恵田桜香、二人の女子生徒が手を挙げて返事をした。さっき未来に手を振ってきた井上紫花子は、興奮気味に小さく拍手していた。
(あの子、恵田っていうのか)
今朝は気弱げに伏せられていた目が、今は見開いている。『教育実習生イジメ』の空気の中でも、一人だけ笑わず気遣わしげな視線を寄越していた恵田桜香が、微かに会釈してきた。未来はなんとなくパッと目をそらした。
その後も、次々と読み上げる。ラストは名字が難読で、これは知識だけで読めるので手を離した。
「吾妹子シュウさん。――皆さんが全員出席してくれていてとても嬉しいです。改めてよろしく」
どーだ、これで満足か。そんな気持ちを込めて、晴れやかに締めた。途端に生徒たちから歓声がわき起こる。
「すげー! 先生、全部読めたー!」
「八組のキラキラネームトップツーの紫花子と恵田が読めるとか! やばい!」
「ヒトの名前をキラキラネームってゆーな!」
生徒から、感嘆と少しの尊敬、少しの不審がないまぜになった視線を向けられる。つかみは上々。
これくらい読めて当然だ。
サイコメトリー能力を持つ、自分なら。
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