松野家の冷蔵庫――二十歳を過ぎた6つ子の兄弟たちと両親、八人分の胃袋を支えるそれは、一般的な家庭のものより少し大きめかもしれない。
冷凍庫には、六人の男兄弟を満足させるための買い置きが詰まっている。
冷凍たこ焼き、お好み焼き、安売りの豚こま、ピザに唐揚げ、残りご飯……量で勝負と言わんばかりのがっつり食材、そのなかで、異彩を放つものがある。
それは――バァゲンダッツのバーアイス。
しかも、季節限定のクッキー&コラーゲン味だ。
食材たちは、しんと冷えた冷凍庫で、取り出される時を待っている。
と――その真っ暗だった空間に、光が灯る。
誰かが扉を開けたのだ。獣のように光る目が、冷蔵庫の中を物 色する。6つ子の誰かだ。しかし劇的によく似た兄弟、すぐに誰とは判別できない。
やがて餓えた獣が獲物を定め、ゆっくりと手を伸ばした。
◇
「キャアアアアアーーーー!!!!!」
絹を裂くような悲鳴が、松野家の近隣一帯に響き渡った。
悲鳴の出所は、台所のようだ。二階にある自分たちの部屋で怠惰の限りを尽くしていた兄弟たちは、なにごとかと顔を上げた。
ここは東京、赤塚区。天気のいいある日の、昼下がりのことである。
「なに、今の声」
そう言ったのは、三男のチョロ松だ。無料の求人誌をめくり、仕事を探していると見せかけて可愛い子を漁っているだけの手を止めて、特徴的な困り眉をさらに下げる。
それから、「なあカラ松」と隣の兄弟に声をかけた。
「ああ――トッティだな」
応えたのは、次男のカラ松。チョロ松に比べるとややしっかりした眉毛。熱心に覗いていた手鏡からようやく目を離し、「そうだろう、十四松」と隣の兄弟に確認した。「うん、トッティー! ね、一松兄さん!」
首が取れそうな勢いでやたら頷いたのは、五男の十四松だ。アンテナのように一本だけ飛び出たアホ毛、四六時中開いた口、人間離れしたリアクションは、本当に宇宙からなにかを受信しているのではないかと思わせる。
「トッティだな……誰でもいいけど」
心の底から興味なさそうに答えた四男一松は、ぼさぼさ頭をかきながら、あぐらの中で伸びをする猫をなでるのに余念がない。
「ふーん……ま、いいか」
チョロ松が求人誌に目を戻したとき、階段のほうからどだだだだだだと荒れた足音が聞
こえてきた。 パァン! と音を立ててふすまが開いて、廊下から息を切らして顔を覗かせたのは、松野家末弟、松野トド松――通称、トッティだ。「ないんだけど!」
「なにがー?」
十四松がのんびりと尋ねた。
「ボクのバァゲンダッツのアイスがないの! 大事にとっといたのに!」
普段なら兄弟いち愛らしい目をカッと見開き、場末のチンピラのように顔面を歪めている。兄たちを睨みつけるトド松に、チョロ松は呆れて言った。
「お前、なんちゅう目してんだよ……自分で食べたんじゃない?」
「自分で食べたんだったら、兄さんたちに聞いてないよ!」
「フッ……夜の街へエスケープしたんじゃないのか?」と、これはカラ松。
「ないよ!エスケープしてんのはカラ松兄さんの脳みそだよ」
「……生贄になったか」と一松が暗黒微笑すると、
「ないから!アイス捧げて満足するポップな悪魔いないから!!」
トド松は頭を抱えた。
ダンダンと地団駄を踏む末っ子。
「もーーーー、みんなどうしてそんなにバカなの!? 誰食べたの!!」
その背後から出し抜けに現れたのは――
「ん? 俺だよ?」
「おそ松兄さん!」
平然とバーアイスを食っている、松野家の長男、おそ松だった。
「えーーーーーー!? 食べてんの隠しもしないの!?」
トド松が驚きのあまりゴミ箱に頭から突き刺さった。
「いやー、これ、色はきれいだけどさ、あんま美味くないね。なんか妙なニオイするし」
「よく言えたね!? 他人のアイス食っといて!」
「えー? だってさあ、しょうがなくない?」
おそ松は、なれなれしくトド松の肩に腕を回した。
「今朝テレビの占い見てたらさぁ、俺の星座、ラッキーアイテムがアイスだったわけ。で、
冷凍庫見たら、いい感じにアイスがあるだろ? こりゃ俺が食うしかないよねぇ」
「ボクも同じ星座なんだけど!? 6つ子だから!!」
「ばっか、何言ってんの。俺はさ、パチンコに勝ちたいんだよ?」
「知らないよ! ほんっっとにクズだね!? 自分のことしか考えてないの!?」
トド松は、おそ松の腕を跳ね飛ばし、うずくまって怨念を垂れ流す。
「あ゛ーー! あ゛ーー! もう、うちのクソ兄貴はぁぁあああああああ!!」
頭をぐしゃぐしゃとかきむしって、キッ! とおそ松を睨み上げる。
「もー、食っちゃったものはしょうがないけど! 代わりのアイス買ってきてよね!」
「はー? いいじゃん、アイスくらい」
「よくない! 限定だったんだよ!?」
「わかったわかった」
トド松の肩を叩いて、おそ松は言った。
「心配すんなって。ちゃんと買ってきてるから」
「……えっ? おそ松兄さんが?」
クズのくせに、とでも言いたげなトド松が見ている前で、おそ松は「ええっとねえ」とポケットを探る。
「はいこれ」
「……?」
おそ松がぽんと手のひらに載せたものに、トド松は眉をひそめた。
「……なにコレ」
「これ? ミルメーク」
「ミルメーク!?」
「そうそう。しかもイチゴ味。レアものだよ? やったねートッティー。ツイてるねー」
「……ってかこれ、中身カッチカチなんだけど」
「ああ、熟成してるからね。もうかれこれ十年物だよ」
「食えねえよ! 昔給食で出たのを持って帰って、そのまま忘れてたんでしょ!」
「おっほ、ご名答。さっすがだねートッティー。かしこいねー。よーし褒めてあげよう」
頭をなでようと伸びてくるおそ松の手。それを払いのけると、
「ドンッタッチミー!」
キレのいい発音で、ハリウッド女優のように凄んでみせるトド松。
いきり立つトド松だが、ついに力尽きたようにその場に膝をついた。
「……あーもうヤダ……どうしてウチのクソ長男ってこうなんだろう……」
トド松が、ぐすん、と鼻をすすり上げる。
「バカだし、ぜんぜん頼りにならないし……どうして生きてんの……」
「おお? 黙って聞いてりゃけっこう言うねぇ?」
「ほんっと、よくそれで長男とか名乗ってるよね。長男らしい威厳とか、思いやりとかな
いわけ?」
恨めしげに見上げられたおそ松は、きょとんと目をしばたたく。それから、
「ハーイ出たよ、長〜男〜〜」
おそ松は、大仰に天井を仰いだ。すぐにトド松のほうに向き直ると、
「あのねぇ、言っとくけど、俺たち生まれたのほぼ同時だよ? 長男だからってなに、意味あんの? 長男だからどうしろとか、どうあるべきだとか、そーゆうの、すっげームカつくんだけど! 6つ子だからね、みんな同い年だからね!?」
「う……」
やりこめられそうになったトド松がたじろぐ。
するとそこに、チョロ松が割って入った。
「いや、トド松の言うことも一理あると思うよ」
「チョロ松兄さん!」
味方を得たトド松が歓声を上げた。
「うちは長男がこんな中身スカスカのバカだから、その下の弟たちも、いつまでも自立できないんだよ。長男なら、率先して模範を示すべきだと思うんだよね」
「あっ、汚ねーぞチョロ松!」
おそ松は、矛先をチョロ松に向けた。
「お前、この場に乗じて言いたいこと言ってんじゃねえよ!」
「当ったり前だよ。チャンスは利用しないと」
「ああーーそうだな。むしろ次男のオレが、長男だったほうが」と、カラ松。
「チョロ松兄さんの言うとおりだよ! 好き放題して! この腐れ外道!」
「……え?」
トド松にガン無視されたカラ松が、寂しげな声を出すが誰も聞いていない。
「あはは、長男向いてない説!」
とくに話を理解しているわけではないと思われるが、そう言って笑う十四松。
「は〜、わかってないね〜、うちの弟たちは」
そんな兄弟たちに呆れるように、おそ松はやれやれとかぶりを振った。
「だったらお前ら、長男やれんの? ほぼ同時に生まれてんのに、『お兄ちゃんだから我慢しなさい』って、いっつも俺だけ我慢だよ? 兄弟代表みたいに言われてさ、お前らの尻拭いさせられてんだよ?」
「そ……それは」
ぐっ、と口ごもるトド松を、おそ松は鼻で笑った。
「ホーラ見ろ、わかってないんだよ〜、弟はさぁ。長男なんて、得なこと一個もねえのになぁ? でもぉ、俺は生まれてこのかたずーっと、その役目を引き受けてきてやったわけ。誰のためかわかる? お前らのためだよ? なのに!」
おそ松は、びしっ、とトド松を指差す。
「この末っ子ときたら!最後までおっぱい吸ってたくせに、アイスごときで! あーあ、気楽なもんだよなー。なんでも許されてずりぃよ、末っ子は」
「な……なんだよ、末っ子にだって苦労があるんだぞ!」
ドン! と我慢できなくなったトド松がおそ松の胸を両手で突いた。
「痛ってぇ! あんだよ末っ子、兄ちゃんに逆らう気か!?」
「うっさいバカ! もうお前なんて兄だって認めないから! このクズ! 生ゴミ! 三角コーナー!!」
「あぁん!?」
おそ松がトド松につかみかかると、「プロレスー!? 元気ですかー!?」と叫んだ十四松が一松に卍固めをかける。「あああああ話の流れすらないいい」と呻く一松が投げたネコ缶が、「争いは何も生まないぞ、ブラザー」とキメているカラ松の頭を直撃した。
「痛っ!? ……ちょ、誰だこれ投げたの……!? っておおおおおい!?」
すっかり蹴り合い殴り合い、そこらにあるものの投げつけ合いになった兄弟たちから、なぜかカラ松めがけていろんなものが飛んでくる。
目覚まし時計、まくら、金属バット、雑誌、マトリョーシカ、アイスピック――
殴り合う兄弟と逃げ惑うカラ松が、わあわあドタドタと暴れ回っていると、
「うるさーーーーーーーーーーい!!!!!!」
スパァン! と部屋のふすまが開いて、母の松代(まつよ)が現れた。
6つ子はぴたりと動きを止める。
兄弟はどれだけ馬鹿でわがままでも、養ってくれる人には頭が上がらない――そう、平日の昼間から、二十歳そこそこの兄弟たちが、どうして家に揃っているかといえば。
6つ子たちは、いい歳をして全員がニート。おまけに童貞。
いまだに6人全員が、親のすねをかじって暮らしているからだ。
――というわけで、6つ子は松代には逆らえなかった。
「か、母さん……」
6つ子たちのこめかみを、たらりと冷や汗が伝う。
松代は、鬼の形相を兄弟たちに向けていた。
「ニートたち、座りなさい」
「ハイ……」
6つ子たちは、すごすごとその場に並んで正座をした。子どものころから、母がこう言いだすと、続く言葉は決まっている。
松代は、すうっと息を吸うと、大きな声で言った。
©赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会