星空とレスリーのリスト
木立の間から、燃えるハウスが見える。
炎に照らされた煙が、長く夜空へ伸びていた。暗い森を、そのハウスを包んだ大きな火が、赤々と照らしていた。
イザベラは、自分の膝に頭を預け眠りについた子供達を撫でる。さっきまで泣いていた子供達も、今は安らかな寝息を立てていた。
唇から、かすれた歌声が零れ落ちる。
子守歌のように、イザベラは懐かしい歌をずっと口ずさんでいた。炎が建物を焼く音に重なって、優しい歌声が静かに響く。
ギィ……と大きな音が鳴って、柱の一つが崩れた。
歌いながらイザベラは、ゆっくりと燃え落ちていくハウスを眺める。
「…………」
ママとして、エマ達を育て過ごしたハウスの建物は、かつて自分が少女時代を過ごした飼育場と重なった。イザベラは目を伏せる。自分の膝にもたれ、頬に涙の跡を残したまますやすやと眠る子供達を見下ろした。
何も知らずに眠る、子供達を。
イザベラはちらりと、その中にいる短い黒髪をした少年を見た。
(フィルは……)
きっと、今夜姉達が決行したことを、理解しているのだろう。まだ4つの子が、その胸に何を収めているのかはわからないけれど。イザベラはそのあどけない顔を見つめ続けた。
(私は……)
この世界の真実を知った時、何を思っただろう。
イザベラはそれがもう、二十年近く過去であることに静かに驚いた。あの頃は自分も、かつてのエマ達と同じように、何も知らずハウスで暮らしていた少女だった。
ずっと幸せな孤児院だと思っていた場所は、本当は〝鬼〟の食料となる子供を育てるための飼育場だった。
毎日のテストは、より高級な〝脳〟を作るため。
大好きだったママも鬼の仲間─食用児の飼育監だった。
森の向こうへ行ってはいけないのは、自分達を閉じ込める塀があるからだ。
そして里親のもとへ旅立ったと思っていた兄弟はみんな、殺されていた。
イザベラの脳裏を、その少女の頃にともに遊び、笑い合った兄弟達の顔がよぎっていく。一人一人、名前も顔も、交わした言葉もはっきりと覚えている。靴紐が結べないと毎朝ぐずっていた弟、甘えんぼだった妹。
そして、レスリー。
イザベラの中で、その名前は今まで口ずさんでいた歌と結びつき、忘れがたく常に胸の中にあった。
「……レスリー」
歌っていた時の声と同じ、微かな音量で、イザベラは夜の闇の中に、その名前を呼ぶ。
さっき、塀の上で浮かび上がった思い出が、壊れた映写機のように何度も頭の中を巡っていく。イザベラは苦笑を落とした。
(きっと今まで、ずっと振り返らずにいたせいね……)
封じ込めてきた過去が、二十年の時を経て溢れ出る。
あの夜、晴れやかな笑顔でレスリーを見送り、そして全部手遅れになってから、イザベラはハウスの真実を知った。
「…………」
かつて塀の上に立った時の絶望は、今でもよく覚えている。
今夜のように寒く、あの日は空から雪が舞っていた。ひらひらと落ちてくる白い雪片を透かして、塀の外側には真っ暗な奈落が広がっていた。
少女のイザベラには、目の前の光景の意味がわからなかった。(何、これ……)塀の向こうには、レスリーが暮らしている外の世界があるはずだったのに。
『イザベラ……』
静寂の中、響いた声にイザベラは呆然と振り返る。塀の下から呼びかけたママは、笑っていた。
そして、この世界の真実を告げられた。
自分達は、食べられるために育てられていた、食用児。
外に人の世界はない。
里親のもとへ旅立った彼はもう、死んでいるのだと──。
その時からずっと、一人の少女の身の内を絶望と怒りが吹き荒れ続けた。イザベラはママを、そして農園の支配者達を憎んだ。必ず農園から脱獄してやる。そう誓った。
だが賢い少女は、激情に揺さぶられながらも、どんな手段を用いてもここから脱獄するのは不可能であることが理解できてしまった。
12歳のイザベラは、飼育監としての道を選んだ。
(けれど……)
イザベラは眩しそうに、夜闇にはためくロープを、その先にいるはずの少女達の姿に思いを馳せる。
エマ達は今、塀の向こうへ降り立った。
この閉ざされた世界の、〝外〟へ出た。
自分があの日諦めた、脱獄を果たしたのだ。
冬の凍てついた空気が、イザベラの頬を撫でる。その表情に、飼育監としてエマ達を追っていた時の険しさはなかった。穏やかな母親の笑みだった。
煙の臭いが風に乗って運ばれてくる。灰が子供にかからないよう、イザベラは毛布を引き寄せた。
ふいに強い風が吹き、燃え残った紙片が雪のように舞ってきた。その一枚が、イザベラのすぐ手元へ落ちた。
縁の焦げたそれを、イザベラはなにげなく手に取った。
「あ……」
そこに並んだ懐かしい文字に、イザベラは大きく目を見開いた。こみあげてくる思いは、さっきまで口ずさんでいた歌と重なり合った。どうして今、と思った。ずっとこの〝手帳〟は開けないでいたのに。
「レスリー……」
祈るように、その名を口にする。
そこに書かれていたのは、あるリストだった──。
1
ハウスの屋根を、うららかな日差しが照らす。小さな子供達の楽しげな声が、庭のあちこちで上がっていた。
庭から少し離れた場所、丘の上にある一本の木の下で、少年が歌を口ずさんでいる。
さらさらの髪に色素の薄い瞳をした、そばかす顔の少年だ。手元に寄ってきた蝶にだけ聞こえるくらい、ひかえめな声で優しいメロディーを紡いでいた。
「綺麗な旋律ね」
突然頭上の枝から声をかけられて、歌を歌っていた少年───レスリーは飛び上がった。
「イザベラ」
高い枝から、イザベラと呼ばれた少女は軽やかに飛び下りた。後ろで一つに編んだ三つ編みが、その動きに合わせて跳ねる。
「木登りしてたら、素敵な歌が聴こえたからつい……」
ごめんなさい、と笑顔を向けるイザベラに、レスリーはまだドキドキしている心臓を押さえた。
「びっくりしたぁ……」
イザベラは膝を抱いてレスリーの隣に腰を下ろした。
「ねぇ、なんて歌?」
イザベラに尋ねられて、レスリーは一瞬口ごもる。黙っていようかと思ったが、イザベラが歌に興味を持ってくれたのが嬉しく、小さな声で答えた。
「名前は……ないんだ。つけてないんだ」
そのセリフの意味を、イザベラは即座に汲んだ。驚いて身を乗り出す。
「レスリーがつくったの⁉」
「うん……」
名前をつけていない歌、というのはつまり、自分で作曲した歌、ということだ。驚くイザベラに対して、レスリーは思いがけない反応に戸惑って返事をする。
イザベラは屈託なく言った。
「すごいなぁ」
黒い瞳を丸くして、イザベラはレスリーを見つめる。素直にそう思っていた。自分にできないことができる人はすごい。イザベラはにっこりと笑いかけた。
「もっと聴かせて」
「えっ」
そんなふうに言われるとは思わなかったレスリーは瞬きし、イザベラを見返す。隣でイザベラは、レスリーが歌ってくれるのを待っている。
「……うん」
初めてできた観客に、レスリーはくすぐったい気持ちになる。
「でも恥ずかしいからみんなには内緒ね」
そう言って人差し指を立てたレスリーに、イザベラは笑みを浮かべて頷き返した。
内緒話をするような小さな声で、レスリーは歌い始める。
震えるような微かな声は、やがて澄んだ歌声に変わった。
イザベラは膝を抱えて、隣で歌う少年を見つめた。
いつも自信なさそうにうつむいていることが多いレスリーだったが、歌っている時は──音楽に関わっている時は、心から楽しそうに目を輝かせている。それを隣で見ながら、イザベラはレスリーに合わせて自分もその歌を口ずさんだ。
すぐにフレーズを覚えてしまったイザベラに、レスリーはちょっと驚いた視線を向けたが、声を止めることなく一緒に歌い続けた。イザベラは深呼吸するように、のびやかなメロディーを繰り返す。
(綺麗な歌……)
二人分の歌声が風に乗って丘を流れていった。
それから何度も、イザベラはレスリーとその歌を歌った。
一緒に過ごす時間は心地良く、楽しかった。
他の子達と、走り回ったりチェスをしたりして遊ぶのもイザベラは好きだったが、レスリーといる時間はそれとは違った居心地の良さだった。一緒にいると癒された。
レスリーのまとう優しい空気は、彼の作った歌そのものだった。
そう言って褒めても、レスリーは困ったように笑って、目を伏せてしまう。
「……僕なんて、全然だめだよ」
イザベラは不思議だった。
自分で曲も作れるし、歌だって上手で、バイオリンも弾ける。それなのにレスリーはいつも自信なさそうにして、イザベラの方がすごいよと笑うのだ。
レスリーから見れば、イザベラは何でも人並み以上にこなせてしまう、完璧な女の子だった。
頭も良くてテストではいつも満点、運動神経も抜群で足も速くて、みんなの人気者だ。弟妹達にも慕われているし、兄姉達からも一目置かれていた。
そんなイザベラに比べれば、自分は苦手なことばかりの冴えないやつだとレスリーは思っていた。勉強もできないし、鬼ごっこをすればすぐ捕まってしまう。口下手で、周りを明るくさせることもできなければ、周りから尊敬されるようなこともない。
音楽は好きだったけれど、レスリーの中でそれは誰かに誇れるようなものに分類されていなかった。勉強や運動ができたらかっこいいけれど、音楽が得意でもそれだけだ。レスリーはそんなふうに思っていた。
だから他のことで、イザベラより何か一つでも上手くできるようになりたかった。
変わりたい、とずっと願っていた。
そのための『目標』を書き始めたのは、もう気づけばずいぶん前のことになってしまっていた。