「念の為」という言葉をよく使う。なにに使うのかと言えば、本の「校正」をするときに使うのである。
作家先生から原稿があがり、印刷所に入稿すると、印刷所から書籍の仕上がりサイズで出力された紙束であるところの「校正刷り」=「ゲラ」なるものが出てくる。編集者はこのゲラをじっ、と見つめながら「校正」に取りかかる。出版前のチェック作業というわけだ。
「校」とは「比べる」という意味である。すなわち、校正とは「比べて」「正す」ということである。原稿を正すために、さてなにと比べるかというと、己の知識や認識である。そもそも原稿を「正しく読めたのか」という問題もある。編集者が作家の書いた原稿に対して、「この部分ですけど、僕の読み、僕の認識だと、ゴロゴロのカラカラなんですが、するとここは、スーダラのダラダラ、なんじゃないんですかね? 念の為」と、ツッコミを入れるのだ。
このツッコミがえらく難しい。自分の読みや知識や認識をすっかり「正しい」なんて信じてたらどうかしてるし、でもある程度こういう読みだろうというアタリをつけてツッコまなければならないし、かといってツッコミすぎると角が立つし...というわけで、校正という名のツッコミには「念の為」とエクスキューズを入れることになる。「恐らくお気づきかとは存じますが、あるいは、わたくしの認識不足でしたら誠にお恥ずかしい限りなのですが、念の為、ご指摘申し上げます」というわけである。
編集者が作家にとってしばしば「相棒」や「相方」と呼ばれるのは、原稿が世に出る前のツッコミ役だからでもある。お笑い芸人のネタを見れば明らかなように、よいボケはよいツッコミによって、より輝く。ツッコミには絶妙な火加減が求められるのだ。
(ちなみに私が好きなお笑い芸人は、天竺鼠、マヂカルラブリー、ランジャタイである。なんというか、お笑いに詳しい方からすればお察しって感じであるが、知らない方のために説明しておくと、3組ともナンセンスなジャンルにカテゴライズされるであろうお笑いコンビ達である。挑戦的で尖りまくって過剰に無限にズレていくシュールなボケと、そのボケが意味飽和しない、観客にギリギリの足場を作ってくれるツッコミの絶妙に微妙な火加減がなんとも素晴らしい3組だ。彼らはいつも私の凝り固まった価値観や認識を破壊してくれる、かつ、行きすぎと行きすぎでない境界線がどこにあるかを見せてくれる、それがとにかく面白くて気持ちいい。とくにランジャタイは、町のちっちゃな公民館でやってるライブを見に行くくらいには好きなのだが、『バイトの面接』というネタでは、バイトの面接に向かうクニちゃん(ボケ担当ね)に謎の生命体「カツ丼くん」が一緒についてきてドカーン!!!とお母さんとカツ丼くんが...)
話を戻すが、「校正」とはすなわち、己の「読み」「比べる」レベルが試され、また、「書いて」「正す」レベルが試される、作品の出来を左右しかねない重要な作業なのだ。作家の書いた原稿との勝負でありながら、己との戦いでもある。「スーダラのダラダラ、なんじゃないんですかね? 念の為」という書き込みに、いまの自分がモロに出てしまう(いま私は歌謡曲ブームということだ)。
ときに、己の知識と認識と作家像と作品像と自意識と正しさと愛しさとせつなさと心強さとがせめぎ合った結果(これはJ-POP)、ゲラへの書き込みが「念の為」という言葉で埋まってしまうこともある。めくっても念の為、めくってもめくっても念の為、念為、念為、念、為、念......せつなさはあるが、心強さは欠片もない(愛しさがあるかどうかはケースバイケース)。
なにが正しいかなんて簡単には言えないのに...と己に言い聞かせつつ、日々勉強を続けつつ、己の不明を恥じつつ、読むのを諦めずに「念の為」と書き添えながら「正しさ」とかいう疑しいものを探していくほかない。それが「校正」なのである。
ちなみに、今回のブログは「校正」以前に、お笑いのネタやエクスキューズが多すぎる、「構成」ミスである。そんなミスを正してくれる、最後にダジャレで締めるのは寒いからマジでやめたほうがいいですよ、念の為...とツッコんでくれる担当編集が私にもほしいと思う今日この頃である。