――小説を初めて書いたのはいつごろでしたか?
中学一年生、十三歳のころです。このころはライトノベルブームで、少年向けのSFやファンタジーが文庫でたくさん出始めていました。もともと文章を書くのは好きでしたが、小説を書きたくなったきっかけははっきり覚えています。友人が勧めてくれたソノラマ文庫の「ARIEL」(笹本祐一)です。現代地球に巨大宇宙戦艦で侵略者がやってきて、日本のテクノロジーの粋を集めた女性型巨大ロボットが迎撃するという話ですが、それまでの子供向けとは一味違って、正義に燃えず斜に構えておりかっこよく、多いにハマってルーズリーフに筆写したり二次創作を書き殴りました。
またほかにドラゴンマガジンの読者コーナーで小説サークルに参加してファンタジー道中ものなども投稿したり、自分でコピー紙を作ってショートショートを書いたりしました。
――自身に影響を与えた作品のタイトルと、好きだった点をあわせてお聞かせください。
前記のSF「ARIEL」が筆頭に来ます。鈴木雅久さんの重厚さと透明感のある精緻なイラストもよかったですが、現代科学に準じた迫力と説得力のあるメカ描写と、ハチャメチャなアクションシーンを両立させた笹本さんの筆力にやられました。同クラスの名人に野尻抱介さんがいて、富士見のクレギオンシリーズで、宇宙ハードSFとは何か、文章推敲とは何かを教えてくれました。
好きなタイトルは数え切れません。子供のころは学研まんがひみつシリーズと、「レンズマン」「宇宙のスカイラーク」など翻訳SF、カムイ伝やドラえもんを、与えられたり借りて来たりして読みました。神坂一さんのスレイヤーズ、菊地秀行さんのエイリアンシリーズ、田中芳樹さんの銀河英雄伝説、ゆうきまさみさんの究極超人あ~る、椎名高志さんのGS美神 極楽大作戦!!、高橋留美子さんのうる星やつら、山岸凉子さんの日出処の天子、萩尾望都さんの百億の昼と千億の夜、竹宮恵子さんのイズァローン伝説、那州雪絵さんのここはグリーン・ウッド、ナウシカ・ラピュタ・トトロ、それに小松左京の日本沈没と夏目漱石の吾輩は猫であるあたりが、高校までの私の基礎を作ってくれた作品群です。
――プロデビューを志したのはいつ頃からですか? 最初からプロ志向だったのか、何かのきっかけがあったのか教えてください。
スレイヤーズで新人賞投稿という試みがあるのを知ったので、富士見に応募して落ちました。プロ志向というよりは、自分の書いたものがどこまで通用するか試してみたかったというつもりですね。確か中学二年の自由研究で長編小説を書こうとして、百五十枚で挫折したあと、三年生と高校一年で一本ずつ書き上げて送って落ちて、富士見は手ごわいなと感じたので、河岸を変えるつもりで二年生のとき「リトルスター」をジャンプに送って、佳作をいただきました。
――小説賞に応募する以前、周囲の方に小説を読んでもらうことなどはありましたか? あった場合は他人に読んでもらうことの影響を教えてください。
中学の時に書いたものを周りに見せました。そのときに、けなされた記憶がありません。ひょっとしたらきちんとけなされたのかもしれませんが、私はどうも脳の構造が生来楽天的にできているらしく、覚えてません。ほめられた記憶もあまりないんですが......。
むしろプロデビュー以降になりますが、二十代のころ本格的なアマチュア小説サークルに参加して、「叩き」ということを経験しました。お互いに、作品のどこが悪いのかを指摘し合って直していくという作業です。これはわりと参考になったと記憶しています。
現代の趨勢には合わないかもしれませんが、欠点を他人にザクザク指摘されることを「わあそうかその通りだ」と受け止めて咀嚼する図太さや鈍感さは(自分のことだから、あえて謙虚さだなんて言わないけど)、あったほうがいいと思いますよ。
――JUMP j BOOKS以外にはどんな新人賞には投稿されていましたか? その経験から得られたことも合わせて教えてください。
前記のように富士見に二回。講評などはもらわなかったので、落ちたという事実があったのみです。激戦区でしたし、受賞作はなかなかのものでしたから、ふーんまあ仕方ないという感じです。しかし、じゃあ何をやったら通るのかということは考えました。それに対する答えが、得意分野で勝負する、あまり見かけない分野を狙っていくということで、私の場合は「宇宙冒険ものをやろう」でした。ジャンプで受かった「リトルスター」は、未来の太陽系を舞台に核融合宇宙船で飛び回って借金取りをするという話で、当時そういう宇宙船ものは新人では見なかった気がします(若者の思い込みもあったでしょう)。その点を審査員の方々が、マニアックだが拾っとこう、みたいな感じで評価してくれたらしいです。
――数ある新人賞の中で、なぜジャンプ小説・ノンフィクション大賞に応募しようと思ったのですか?
これは二つ前に書いてしまいましたが、富士見に比べて敵が少なそうだったからです。応募総数という意味でも、宇宙ものが出ているかという意味でも。それはつまり、宇宙ものがウケないかもしれないという意味ではあったんですが、当時はそんなことは思いつかず、砂漠で傘を売るつもりで応募しました。ライバル商人がいないからいけそうだ、という。
身も蓋もない話ですが、レーベルの雰囲気に対する思い入れはありませんでした。当たればどこでもいいや、という。賞の存在そのものを知ったのは、少年ジャンプか月刊ジャンプに要綱が載っていたおかげだと思います。
――「リトルスター」はどれぐらいの期間をかけて書かれたのでしょうか? また、応募するとき自信や手ごたえはあったのでしょうか?
申し訳ありませんが、執筆中の記憶はありません。現在残っている最古のファイルが西暦二〇〇〇年のもので、これはホームページ開設時のものですね。執筆当時の資料は失われてしまいました。
書きあがったときは当然、世界一面白い話を書いたつもりでおり、受賞するだろうと思っていました。若いころは脱稿時にメチャクチャテンションが上がったものです。推敲したっけな? あれ。
次回更新は8月14日予定!!
受賞当時の初々しい思い出を語っていただきました!
お楽しみに!!