――第1回少年ジャンプ小説・ノンフィクション大賞にて入選となった当時のお話を伺いたいと思います。受賞の第一報を受けとったとき何をされていたのか、また当時の気持ちを教えてください。
カッコつけるわけでも韜晦するわけでもなく、本当に投稿したこと自体が頭から消えていました。たぶん、誌面で予備選考を確認していなかったせいだと思います。貧乏学生で生活費に苦心していたので、いつの頃からか少年ジャンプを読まなくなっていたのでした。生活費をギリギリまで削ってでも、働きたくなかったんです(笑)。
なもので、電話をいただいた時は一瞬、頭に「?」マークが浮かびました。たぶん、かなりあやしそうにしている反応だったろうと思います。当時の編集さんには申し訳ないです。ただ、電話が終わって数分後には、感じたことのない喜びが湧き上がってきてびっくりしました。大学に合格したときよりも、断然うれしかったです。
――受賞当時10代の学生であった定金先生ですが、同業者のなかでもかなり早いデビューだったのではないかと思います。デビューが早かったことでどういった影響がありましたか?ご自身の生活上起こった変化や、周囲の反応などを聞かせてください。
変化は確かにありました。本名で受賞してしまったことで、地元の不良の方々に気づかれてしまい、その後しばらく絡まれ続けるハメになりました。成人後しばらくすると、いつの間にかいなくなっていましたが......。「本名で応募するのはやめよう」と、作家志望者の方々には伝えておきたいです(笑)。
大学では4年間ずっと、風呂なしエアコンなしの部屋で『信長の野望』と『大航海時代』を繰り返しやり続けていました。ただ、そのおかげで空想力がいっそう強化され、作家として仕事を長く続けられるようになったのですから、まさに禍福は糾える縄です。
――初めて担当編集者と話をしたときどんな印象を持ちましたか? 編集者から投稿作にどういった評価をもらったのかも聞かせてください。
初対面時の、編集さんからの評価については、ほとんど記憶に残っていません。残っていないということはおそらく、けなされることも絶賛されることもなく、普通に日常会話をかわしていたのだろうと思います。また、編集さんには自由に書かせていただきました。自分の中で考えて結論を出すタイプだったため、長くこの仕事を楽しみながら続けてこられました。最初の段階でガツンとダメ出しされていたら、メンタル絹ごし豆腐なぼくはそこで諦めていたかもしれません。
――『ジハード』連載時のお話を聞かせてください。雑誌連載時には巻頭での「十字軍の歴史解説」やCDブック化というメディアミックスなどの企画もありました。こうした企画はどのように進んだのでしょうか?
関西在住でしたし、当時は携帯やメールどころかFAXもなく、さらには電話もアパートで共有の一台のみという状況だったので、こうした企画等に関しては編集さんにお任せしていました。個人的に、物語の外のことをあれこれ処理するのは苦手なので、助かりました。これは、いまでもそうです。イラストの選定だとか漫画化だとかいった諸々のことは、いつも担当さんに任せっきりです。いつもありがとうございます、と言うほかありません。
――小説雑誌ジャンプノベルでの連載によって得られた経験にはどういったものがありますか? 連載中に強く印象に残っている思い出も聞かせてください。
雑誌が出ると、不良の方々にぼくの名前が目にとまる、という恐怖がありました。
金が入っただろ寄こせ、になるのでは、と。日本有数の怖がりなんです。ただ、やはり自分の名前が誌面に記されているのは、本名ということもあって、なんだかものすごく不思議な感じがしました。嬉しいというのはもちろんありますが、何よりやはり、どこか不思議な感じ。自分の物語と文章が載っていることは、なんとなく自然と腑に落ちるんですよ。が、名前だけは妙に、しみじみ心に響くというか。「絡まれるのが怖くないのなら、本名で投稿するのも悪くない」と、作家志望者の方々には伝えておきたいです(笑)。
――JUMP j BOOKSのレーベル内で当時意識していた作家・作品を教えてください。
ジャプノベルの読者アンケート投票で、「あとちょっとで『小説版BASTARD!!』に届きそう」みたいな話は、よく担当さんから聞いていました。なもので、いつか抜けたらいいな、とは思っていました。結局とうとう追いつけませんでしたが......。個人的に、物語の外側にそういう目標を設定するのは好きではないんですけど、あれはあれで気持ちに張りが出て良かったな、と今にして思います。長続きには、あまり寄与しないのかもですが......。
次回更新は4月24日予定!!
『ジハード』執筆当時の話をさらに語っていただきます!
お楽しみに!!