プロローグ
七十年前の〝煉獄の日〟、この世界は死んだ。
すべてを壊したのは、どこからともなく現れた毒の霧――ミスト。
ミストは人々を病に陥らせ、動物や植物を怪物の姿に変えた。
千年続いた王国は混乱の最中に崩壊し、残った寄る辺はもはや王都のみ。
生きながらえたわずかな人々は、ミストを恐れ、怯えて暮らさねばならなくなった。
人々は嘆き悲しんだ。
自分たちがいったいどんな罪を犯したというのか。
どうしてこのような罰を受けなければならないというのか。
まさに煉獄ともいうべき絶望の中で、人々は唯一の光明を生み出した。
ミストをうち払い、それを力へと変える希望の鋼――ミストギア。
勇敢な者たちはミストギアを手に、怪物との戦いに挑んだ。
彼らの活躍により、人々はようやく理不尽に抗う足掛かりを得たのだ。
強大な怪物に恐れず立ち向かい、これをうち破った者。
己が身と引き換えに、多くの人々の命を守った者。
数十年に及ぶミストとの戦いの中で、数々の英雄が生まれてきた。
しかし、誰しもが英雄になれるわけではない。
英雄が賞賛される陰で、人知れず散る命もある。
名声を渇望しながら、それを手にできずに消えていく者たちもいる。
彼らはいわば、とり憑かれた人間だ。
名声という名の亡霊にとり憑かれ、その挙句、自らも亡霊になってしまう者たち。
理不尽まみれのこの世界は、そんな亡霊たちの怨嗟の声で溢れている。
これは、そんなひとりの亡霊の物語。
心の底では英雄に憧れつつも、結局そうなれないままこの世界から消えざるを得なかった、おれの物語だ。
それ>は、「グロオッ、グロオッ」と、おぞましい唸り声を上げていた。
目は炎のように爛々と輝き、岩場を踏みしだくその後ろ足は、鉄柱のごとく逞 しい。口の両端に生えた禍々しい二本の牙は、人間の身体などいとも容易く貫いてしまうのだろう。
目の前には、体高五メートルはある大猪がいた。
大猪は口の端から醜悪な涎を垂らし、足元の獲物 に喰らいついていた。
「あ……あ、ああ……」
恐怖のせいか喉はカラカラに渇き、悲鳴を上げることもできなかった。マスクの下で、こひゅー、こひゅーと情けない息が漏れるだけ。
逃げたくても足がすくんで動けない。
ウェズ・アーマライトは、むさぼり続ける獣の姿を、じっと見つめることしかできなかったのである。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのか。
ここは王都からさほど遠くない、資源採掘用の岩場である。小山の斜面を切り開いて作られただけの簡素な採掘場。この十数年さしたる事故もなく、安全とされていたはずの場所だった。それこそ、ウェズのような見習い技師に対しても、簡単に採掘許可が下りるくらいの。
しかしその〝安全な〟はずの岩場は今、地獄さながらの様相を呈していた。
周辺には血なまぐさい空気が立ちこめており、岩々には生温かい肉片が散らばっている。
それらの肉片はつい数分前まで、生きた人間だった。この岩場で共に採掘作業をしていたウェズの同僚たちの、変わり果てた姿なのである。
ロン先輩は首だけが食べ残され、リーアムは下半身だけの姿になっていた。親方に至ってはまさに今、大猪に片足で踏みつけられながら、頭を齧 られている真っ最中だ。バリバリと、頭蓋骨が砕ける音がする。
思わず、喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてきた。ウェズはとっさに目を背け、胃液が逆流するのをこらえる。
こんなのあんまりだ。今朝、彼らと一緒に工房の門を出たときには、こんなことになってしまうなんて思ってもいなかったのに。
本当なら今頃、資源の採掘を終え、王都に戻っていた頃合いだろう。
行きつけの〝エッセン亭〟で前菜のポテトサラダをつまみながら、ロン先輩やリーアムと楽しく雑談に興じていたに違いない。「今夜のお勧めメニューは何か」とか、「看板娘のサニィちゃんには、もう恋人ができたのかどうか」とか。
普段はだんまりの親方だって、あの店のエールを飲めば上機嫌になっていたはずだった。「ここの酒は混ぜものを使ってないから、本当に美味いんだよ」と。
しかし現実は非情だった。ウェズが彼らと夕食を共にすることは二度とできないのだ。なぜなら彼らは一瞬のうちに、肉片にされてしまったのだから。
大猪が、耳をつんざくような咆哮を上げた。親方の上半身をすっかりたいらげたこの怪物は、次のご馳走 ――ウェズに狙いを定めた。
「や、やられてたまるか……!」
ウェズは無我夢中で手元の石を拾い上げ、大猪へと向かって投げつけた。投げた石はまっすぐに顔面に命中したのだが、しかし、大猪にはまるで堪えた様子はなかった。
やっぱり無駄か、とウェズは落胆する。あの怪物が投石程度で怯 むはずがないことなど、最初からわかっていたのだ。ミストによって硬質化した連中の皮膚 は、鉄の刃すら弾いてしまうのだから。
あの大猪は、ミストエネミー――ミストによって変貌した、異形の獣。その一種だ。ミストエネミーは、異常な身体能力と獰猛 な本能を発現させた、その名通りの人類の敵なのである。
ウェズは距離を取ろうと後ずさるも、ついには岩壁にぶつかり、追いこまれてしまう。
「グロアアアッ! グロアアアッ!」
大猪は醜く鼻を鳴らし、ウェズを見下ろした。ひと息にこちらを押しつぶすつもりなのだろう。後ろ足で地面を蹴 り、強烈な体当たりを仕掛けてきたのである。
「う、うあああああっ!?」
ウェズは震える身体を鞭打ち、思い切り横に飛びのいた。
岩場に這いつくばることで、すんでのところで体当たりから逃れることに成功する。ああ、危なかった……!
しかし、まるで状況は好転していなかった。大猪の体当たりにより、衝撃で岩山の一部が崩れてしまった。そして崩れた岩石はウェズの脚の上に落下してきたのである。
脚に衝撃が走り、ウェズは「ううっ」と顔をしかめる。
まずい。岩の隙間に脚が挟まってしまった。骨が折れたりしているわけではないようだが、これでは簡単に動くことはできない。
大猪はウェズのすぐ頭上で、こちらをあざ笑うかのように「グロッ、グロッ」と唸り声を上げている。口の端からこぼれた涎が、ウェズの体を濡らした。ひどい臭いがする。
ウェズは息を吞んだ。自分はこれから、いったいどうなってしまうのか。
あの鋭い牙に貫かれるか、あの強靱な足に踏みにじられるか。それとも頭から丸齧りにされてしまうか――。予想できる己 の末路は、どれも悲惨なものだった。
「い、嫌だ……。怖い……。死にたくない……!」
声を震わせるウェズの脳裏に、とある言葉が蘇った。
『〝鋼鉄の英雄〟の息子が、そんな簡単に泣くもんじゃないぞ』
それはウェズがいつも、父に言われていた言葉だった。庭に蜂の巣ができたときも、ウェズが王都のドブ川で溺 れかけたときも、父はそう言って、泣きじゃくるウェズを慰めてくれた。ウェズの頭を撫 でる手が、とても大きかったことを覚えている。
ウェズの父、グレグソン・アーマライトは王都の英雄だった。誰よりも強く、誰よりも優しい、そんな憧れの父親だったのだ。
しかし、そんな父ももうこの世にはいない。五年前、ミストエネミーとの戦いの中で、名誉の戦死を遂げてしまったのである。
もうじき自分も、父のもとに行くことになるだろう。目の前のミストエネミーに対し、なんの抵抗もできずに殺されたとしたら、父を落胆させてしまうだろうか。
でもそれは仕方のないことなのだ。自分は英雄と呼ばれた父とは違う。ただの無力な人間なのだから。
大猪は牙をぶるりと震わせ、大きな前足を持ち上げてみせた。どうやらウェズを踏みつぶし、息の根を止めるつもりのようだ。
もうダメだ……! ウェズが反射的に身を強ばらせた、そのときだった。
「――彼から、離れなさいっ!」
空から突然、凜とした声が響いた。ウェズは体をひねって岩場の頂を見上げる。
「え――!?」
目を凝らしてみれば、華奢な体軀 の少女だった。両手で身の丈に合わぬ長い槍を構えている。
少女は上空から流星のごとく、大猪を目がけてまっすぐに落ちてきたのである。
「たあああああああっ!」
体重を乗せた少女の槍は、大猪の背の中央を刺し穿った。見るからに強烈な一撃だ。
岩場全体に、「グギャアアアアアアアアア!」と大猪の悲鳴が響き渡る。毛むくじゃらの巨体はびくびくと痙攣しながら、そのまま横倒しになった。
少女はひらりと岩場に飛び降りる。肩口に纏った丈の短い外套が、軽やかに翻った。
「任務完了、ですね」
青水晶のように深いブルーの瞳が印象的な、端整な面持ちの少女だ。アップにまとめられたブロンドは夕日に煌めき、淡い赤みを帯びている。
綺麗だ――とウェズは思った。自分とそう変わらない年齢だろう。それなのに、纏う雰囲気は常人とはかけ離れている。
威厳に溢れているというか、高貴というか。血だまりの中に降り立った彼女はまるで、古い神話に描かれる戦天使のようにも思われた。
少女が大猪の身体から、長槍を引き抜いた。槍の穂先には、紋章のような意匠が施されている。その洗練されたデザインは、実用的な武具というよりは、芸術品に近い代 物 のようだ。