「あ~はっは~今日も飲んじゃったな~。チビ太もよくないよ~。あんなうまいおでん出されたらそりゃ飲んじゃうし、ツケちゃうよ~」
夜の繁華街。
チビ太の屋台でいつものように飲み食いし、いつものようにツケ払いにしてきたおそ松は千鳥足だ。
チビ太に、
「もう冗談じゃすまねえ金額になってんだぞバーローチクショー!」
と怒鳴られて、
「最初から冗談のつもりなんかないね!」
と返したせいで叩き出されなければもっと飲んでいた。
「あれ~? 変なとこ来ちゃったな?」
気がつくと、普段行き慣れない路地に迷い込んでいた。
大通りと比べるとやや薄暗く、人通りも減って、背中を丸めた男性が数人ぽつぽつと道の端を歩いているだけ。
道の両側にはところどころ電球の切れたネオン看板が連なっていて、どこか淫靡な空気を漂わせている。
そこはつまり風俗街。
「こ、ここは!!」
と驚いてみたものの、おそ松はそういった店に縁がない。
興味がなかったわけではない。脱童貞を志しつつも、プロの世話にはならないというどうでもいい矜持がある。それ以前に金もない。
兄弟ともそんな話はしないので、これまで近いようで遠い存在だった。
「また来てね~」
どこかの店の扉が開き、猫なで声が聞こえてきた。
知らない男が、その声の主へ照れくさそうに頭を下げて、店を出てくる。
路地ですれ違うと、ふわっと石鹸の匂いが香った。
男は心なしか背筋も伸びて、顔色にも朱がさしていた。
ちらりと見ただけだが、その横顔は自信に満ち溢れていて、まるでひとつの大勝利を収めた有能な兵士を思わせた。
「よーし! 明日から頑張るぞー!」
男は両拳を天に突き上げて、高らかに叫ぶ。
そして夜の闇へと消えていった。
「へ……へ~……?」
おそ松はその背中を見送って、腕組みする。
そして男の出てきた店のネオン看板をちらちらと見る。
電球が切れているせいで店名はよく読めない。
「別にその、よこしまな気持ちとかないけど?」
誰にともなく。
平常心を保つものの、じわじわと背中に汗が浮かんだ。
「あれだよね、人生の活力っての? 人として前向きになるためだからね?」
うんうんと一人頷いてみせる。
そう、後ろめたいことなど何もない。むしろ褒められてもいいくらいだ。
ただ脇からの発汗がすごい。
本格的な冬を前に肌寒く、人恋しい季節だった。
タイミングよく通りには誰もいない。今なら誰にも見られない。
自然に。あくまで自然に。
ただ木枯らし舞うこの寒い夜に、なぜか汗でビショビショの男が一人。
「男には変わる瞬間ってのが必要だよね!」
ついに覚悟は決まり、おそ松は一歩踏み出した。
(この先で……ついに俺は…………!)
高鳴る鼓動を抑えながら、おそ松はドアノブに手をかけた。
薄暗い待合室で置いてあった飴をなめながら十数分待ち、けだるげな黒服に部屋の前まで案内された。このドアの向こうで相手が待っているという。
(さらば弟たちよ……! 俺は先へ行くぜ……!)
思えばずいぶん長かった。ついに自分も変わるのだ。
長年連れ添った親友と別れるような妙な感慨に包まれながら、おそ松は意を決してドアノブを回した。
「す、すみません~」
その相手はドアの前で床に正座し、三つ指をついておそ松を出迎えた。
なまめかしい肢体を隠すように真っ白なバスタオルを巻いている。
「よ、よ、よろしくお願いしますっ!」
おそ松はぴんと背筋を伸ばし、やにわに頭を下げる。
「そんな緊張しないでくださいね~」
「い、いやー、でも緊張しますよね! 何たってこれからその、いろいろ? お願いするわけですから! はは……は……って、あれ?」
言いながらおそ松は、ゆっくり頭を上げた相手の顔を見て、硬直した。
「いやぁ、緊張なんてする必要ないですよ~。だってこっちは50すぎた男ですからね~」
「はぁああ!?」
顎が外れるほど口をあんぐりと開ける。
その男は小太りで、頭もずいぶん薄くなり、脂でテカテカした丸顔に地味なメガネをかけた、いかにもサラリーマン然とした中年だった。
話が違う。想像していたのと違う。
「あ、お茶飲みます~? コーヒーの方がいいです~?」
「……じゃあお茶で」
「これ特保のお茶でね~、血液さらさらになるんで、はいどうぞ~」
これはどういうことなんだ。おそ松は困惑を隠せない。
大人の店かと思ったら、出迎えたのはよくわからない中年男性だったのだ。
おそ松は、よく整えられたベッドの端に男と並んで腰かけて、その男の話を聞いている。むやみに石鹸の匂いがした。
「20歳になる娘と高校生になったばかりの息子がいましてね~」
知ったことじゃない。
「会社では中間管理職でね~」
それを聞いてどうしろというのか。
そして男は、ウインクに人差し指で『秘密』のポーズをして、
「あ、でも会社には秘密なんで言わないでくださいね~?」
誰が誰に言うというのか。
神に誓ってこれほどどうでもいい情報もない。
その後も「最近は若い頃と比べて踏ん張りがきかなくなった」だとか「女性社員に嫌われるんで身だしなみには気をつけてまして」だとか「最近の新入社員の気持ちがわからない」などと興味のかけらも持てない話をさんざん聞かされ、おそ松は色の消えた顔でただ機械のように頷き続けていた。
ドアを開ける前は、不安はありつつもビンビンだった心のテンションバーが、力なく垂れさがっていくのがわかる。
このおっさんは何者なのか。この店は何なのか。
そのバスタオルは何のつもりなのか。
改めて自分の置かれた状況の異常さについて考え始め、ふつふつと怒りも沸き立つたおそ松に、男は言った。
「いや~お客さん聞き上手ですね~?」
「あ(あに「゛」)? 何がだよ?」
「いえね、聞き上手でね? とっても人間ができてるなって」
「はぁ……そうなの?」
「そうですよ~。これだけね? 初対面のおっさんのどうでもいい話を聞いていられるのは才能ですよ~」
「才能……」
「ええ~。知ってます? 成功者のほぼ8割が聞き上手だっていうデータもあるんですよ~?」
「え……? マジで?」
「ええ~、もしかして上場企業にお勤めで?」
「…………まあね?」
嘘をついた。
「それにおモテになるでしょう?」
「ま、まあ、人並みにはね?」
「そうでしょうそうでしょう! もうね、オーラが違いますもん。私ね、そういうの見えるんですよ」
「見えるって、オーラが?」
「ええ~。だいたいの人は赤っぽかったり青っぽかったりするんですけど、あなたはね、虹色に見えます」
「虹色!? マジで? なんかよくわかんないけど……すごいじゃん俺! 超スピリチュアル!」
「ええ、すごいですよあなた!」
おそ松の気分は高揚しはじめていた。
さっきまでのお通夜テンションが、急速に上向いてきている。
心のテンションバーは精気を取り戻し、高鳴る鼓動とともに徐々に鎌首をもたげていく。
「いや~、俺もさ? 自分のこと、ただ者じゃないとは思ってたの。潜在能力っていうの? それが引き出せてない的な?」
「まさにそれ! 潜在能力!」
中年男はベッドから立ち上がり、唾を飛ばして熱弁する。
「今のあなたは氷山の一角にすぎない! 海面からほんの先っぽだけ顔を出したほんのほんの一部でしかない!」
「だよね! 今の俺ってめちゃくちゃでかい潜在能力のほんの先っぽだけで生きてるってことだよね!」
「その通り! まさに舐めプ! 本気出してないだけ!」
「じゃあ本気出しちゃう? そろそろ出しちゃう?」
「あ~! いけませんいけませんお客様! 出さないで! 私はその膨大な可能性で焼き焦がされてしまいます! 先っぽだけ! 先っぽだけでいいから!」
「マジで!? 先っぽだけならいいの!?」
「いいんです! 先っぽだけで!」
「なるほどね! 俺はありのままでいいってことか!」
「そうそう! ってああっ! 熱い……っ! いけませんお客様! 少し『出て』しまっていますっ!」
「え? ああごめん! ちょっと出ちゃった! ははは!」
「困りますお客様! 出すなら外でお願いします~!」
「ごめんごめん! 今度から気をつける!」
いつの間にかおそ松は舞い上がってしまっていた。
まさに気分は最高潮。テンションバーはビンビンだった。
こんな高揚感は滅多にない。競馬で大穴を当てた時の熱狂とも違う、およそ今までの人生で経験のない類の興奮だった。
おそ松はあらためて尋ねる。
「あのさ、ここって結局なんの店なの?」
「ここですか?」
男は慎ましやかに、体に巻いたバスタオルの乱れを直しながら答えた。
「ここは『めちゃくちゃ褒めてくれる屋』です」
©赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会