ネーベル広場は、王都ブリザイエンの中でも、もっとも華やかな場所である。
王宮を見上げる広場中央の銅像のモチーフは、ミストギアの開発者アドレー・ネーベルだ。ネーベル像の周辺には美しい花壇が設置され、人々の憩いの場となっていた。
そういう場所柄ゆえ、この広場で店を開く露天商も多い。
たとえば今日もっとも注目を集めている売りものは、〝ミスト症候群の特効薬〟だ。
怪しげな露天商が「ミストの毒で身体が動かなくなっても、これを飲めばあら不思議! たちどころに元気な身体を取り戻すことができます!」などと、声高にアピールしている。
この手の商品は眉唾であることが多いが、それでも毎度人だかりができてしまう。
それもまあ、仕方のないことなのだろう。この国に暮らす人々は、常にミストの恐怖と隣り合わせで生きている。誰もが日々、救いを求めて生きているのだ。
一方、その広場の片隅では、別の意味で救いを求める者がいた。
誰あろう、ウェズ・アーマライトである。
「も、もう無理……。水飲みたい……」
ウェズは路地に身体を投げ出し、天を仰いでいた。着ているツナギは汗でずぶ濡れ、心臓は爆発寸前のごとく激しく脈打っている。太股も腕も、鉛 のように重かった。
死ぬほど疲れた、という表現すら生ぬるい。もはや瞼の裏には、あの世の花畑が見え始めていた。これほどの疲労感には、いつまで経 っても慣れる気がしない。
「だなあ……。超ヘビィだ……」
ウェズのすぐ脇にも、うつ伏せになっている青年がいた。彼もまた、半分死にかけたような表情で愚痴をこぼしている。
「もう足腰が立たねえよ。絶対あの隊長、おれらを殺す気だよな」
大袈裟なほどにころころ変わる豊かな表情と、明るい色の髪が印象的な青年である。自慢の洒落 た身なりは、ウェズ同様に汗にまみれ、青年は手にした緑のバンダナをタオル代わりに使って、額の汗を拭っていた。
彼の名は、シエロ・ラディオ。ウェズとほぼ同時期にGEARS 第七小隊に入隊した青年である。同じ隊舎の隣の部屋同士、そして同じ年齢ということもあって、なんとなく意気投合したのだった。
もっとも、話す内容など九割九分、訓練への愚痴だったのだが。
「毎朝きっちり一周、王都の外周を全力で走らされるとか、正気の沙汰じゃねえよ。どんだけ距離があると思ってんだよ。ヘビィにもほどがあるっつーの!」
王都ブリザイエンは、ミストの被害を逃れた人々が暮らす、世界最後の砦である。総人口は三万人程度。世帯数は八千戸ほど。外周の距離は三十キロ程度だと言われている。
ウェズが全力で走っても、三、四時間くらいはかかる距離だった。ただ走るだけで、午前中は終わってしまう。
心底〝ヘビィ〟そうな顔で、シエロが続ける。
「体力作りが終わったらギアの模擬戦を連続五セット。ミストエネミーと戦うより先に、死んじまうんじゃねーのって話だよ」
「ホント、冗談じゃないよな」ウェズが応えた。「そもそもおれは、技師としてGEARSに入隊したはずなんだけど」
「ああ、技師枠採用とか言ってたやつ」
「後方支援班に入れてくれるって聞いてたはずなのに……。それがなんで毎日、こんなキツい訓練につき合わされてるんだろうな」
ウェズがGEARSに入隊したのは、三か月前のことだ。第七小隊の隊長、ウラガンは、ウェズの『技師枠』での採用を認めてくれていたはずだった。
しかし現実、ウェズの扱いは機動調査班の隊員たちとなんら変わるところはなかった。日が暮れるまで体力づくりと、ギアの習熟のための訓練に明け暮れる。生活も、むさくるしい隊舎暮らしだ。ギア整備の仕事など、どういうわけか一切任される気配はなかった。
シエロは「あー」と気の毒そうな表情を浮かべた。
「お前それ、ウラガン大尉に騙されたんだよ」
「騙された?」
「だって、GEARSの技師枠採用なんて聞いたことねえもん」
「え」
「だってさ、そもそもおれらのギアの整備って、基本ミスト技研の連中がやってるじゃん」
王立ミスト技術研究所、通称ミスト技研。GEARSと連携して、ミストやミストギアに関する研究を行っている国家機関である。
国家機関というだけあって、規模も技術力も王都では最高峰 。ウェズがついこの間まで雇われていた町の工房とは段違いなのは言うまでもない。
ミスト技研こそ、王国で唯一、戦闘用ミストギアの開発を認められている機関なのだ。
「それはまあ、おれも知ってるけど」
「技研の連中がまとめて整備してる以上、部隊の専属技師なんて必要ないんだよ」
確かにシエロの言う通りではある。すでにミスト技研がミストギアの整備を行っている現状、ウェズが技師として活躍する余地はない。
入隊前はてっきり、彼らと協力してギア整備に当たるのだろう、と思っていたのだが、どうやらそういうわけではないようなのである。
「要するに、兵隊不足だってことだ」シエロが上体を起こした。「聞いた話じゃ、この第七小隊って、ちょっと前にかなりの欠員を出しちまったらしい」
「それも知ってる。毎月何人も死んでるんだろ、この部隊。すぐ死ぬような雑魚ばっかり集められてるから、〝クズナナ〟って呼ばれてるとか」
クズナナ――この第七小隊の蔑称である。「無能集団」だとか「使い捨て部隊」だとか、GEARS内では、そういう認識で軽んじられているらしいのだ。
まったく、ひどい話だと思う。そういう話はせめて、自分が入隊する前に聞きたかった。
「ほんとヘビィな部隊だよなあ」シエロもまた、複雑な表情を浮かべていた。「いつも人手が足りないから、どうしてもその穴埋めが必要だったんだろうな。おれとか、お前みたいな」
「つまりおれは最初から、技師としてじゃなく、新兵としてこき使われる予定だったってことか」
「ま、そういうことだ。あの隊長って、いつもいい加減だから」
シエロが、「ほら」と目配せして、当のウラガンへと視線を向けた。
ウラガンは今、近くの木陰に座り、幹にもたれながら「んごお」と高イビキをかいていた。その傍らには、ブランデーの瓶 が数本転がっている。強烈な酒臭さが、ここまで漂ってくるようだった。
思わずウェズは絶句する。真っ昼間から何本飲んでんだ、あれ。
「おれたちには厳しい訓練をさせておきながら、寝酒を決めこむなんてなあ……。あんなどうしようもない隊長、他にはいねえよ」
「大丈夫なのかな、この部隊」
「大丈夫じゃないから、〝クズナナ〟って呼ばれてるんだろ」
隊員も寄せ集めなら、隊長も困った人間である。このあたり、まさに第七小隊がクズナナと呼ばれる所以なのだろう。
ウラガンに誘われるまま入隊を決めてしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。
霧のかかった王都の空を見上げながら、ウェズは「これは失敗だったかなあ」と呟いた。
「――ま、これも何かの縁なんだから。失敗でもいいんじゃないの?」
気づけば、気の強そうなつり目が、ウェズの顔を覗きこんでいた。ランニングで火照った頰は桜色。美しい黒髪をお下げに垂らした、健康美を体現したような少女である。
その抜群のプロポーションを包むのは、露出度高めで奇抜な衣服だ。特にその動物の耳を模した帽子(彼女いわく「ケモ耳」というらしい)は、彼女独特のセンスに溢れたものである。
「クズ呼ばわりされてる同士なんだ。まあ仲良くしようよ」
彼女の名はロゼ・スカーレット。シエロ同様、ウェズとほぼ同時期に第七小隊の一員となった少女だった。
ロゼはウェズとシエロに向かって、「ほら」と木のコップを差し出した。
「水、向こうの井戸で汲んできたから。ふたりとも飲みなよ」
シエロは「おお」と笑みを浮かべ、嬉しそうにロゼからコップを受け取った。よほど喉が渇いていたのか、一息で飲み干してしまう。
「ああ、生き返る……。サンキューな、ロゼ」
ウェズもロゼから「ありがとう」とコップを受け取り、口に含む。汲みたての水はひんやりと心地よく、疲れた身体に染み渡っていくようだった。