「あー! 痛い─! 死ぬ─!!」
トド松の悲鳴が、早朝の穏やかな空気を切り裂いた。
同じ布団で寝ていた兄弟たちが次々に目を覚ます。
「……えっ、イタい!? オレは何も言っていないが……!?」
まずはカラ松が飛び起きて、被害妄想を爆発させた。悲しい性である。
「んー……? なにトッティ……?」
「何時だと思ってんの……」
続いて、おそ松、チョロ松が目をこすって起きだした。
「いたいー! 死んじゃうよ─!」
トド松はさらに声高に叫び、足をバタバタさせて布団を跳ね上げる。
この様子は尋常じゃない。
最初の悲鳴で反応しなかった両端の一松、十四松も起きだした。
「どうしたトド松?」
「トッティ!? 大丈夫!?」
「もうやだー……なにこれー……」
口を押えてうずくまるトド松。それを五人で囲み、様子を見守る。
あまりの痛がりように、「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」「いやまだ何が起きたかわからないし」と心配そうに相談し合う。
「トッティ、ちょっと見せてみて。ほら」
チョロ松が顔を覗きこんだ。
「うー……」
するとトド松は涙を浮かべながら、顔を隠していた両手を離した。
「あーん……」と、チョロ松に向かって口を開ける。
「ああ……これは口内炎だね」
「そんなことか……」
真っ先に一松が舌打ちをし、ごそごそと布団に潜りこんだ。
ほかの兄弟たちも肩透かしをくらった気分で、一気に脱力する。
「こうないえん……? コウナイエンってなに……?」
しかしまだ目の端に涙を浮かべたままのトド松。
「え、知らないの?」
よくわかっていないらしい弟に、チョロ松はわざわざ床に落ちていたチラシを取り、その裏に『口内炎』と書いてやる。
それを見たトド松は、さぁっと青ざめた。
「なにそれ! 炎って字入ってるじゃん! 死ぬ!」
「死なないって」
「だって口の中燃える病気じゃんそれ!」
「燃えないから!」
「うわー!」とまた足をばたつかせて叫ぶトド松に、そろそろチョロ松も面倒臭くなってくる。
「口内炎で死ぬやつなんかいないから。放っときゃ治るって」
「わかんないじゃん! 虫歯で死ぬ人もいるって言うし! 口内炎の方がどう見たって凶悪な名前じゃん!」
「字のインプレッションで危険性決めるなよ!」
「でも痛いのは確かなの! 死ぬ─!」
「はぁ……」
溜息をついたチョロ松だけでなく、兄弟皆が冷めきった目をしていた。
口内炎。
まさか口内炎ひとつでここまで大騒ぎする人間がいるとは思わなかった。
おそ松が布団に潜りこみながら当てこすりを言う。
「栄養不足が原因って言うじゃん? いいもん食ってないからなるんだよ」
「食べてるものは同じだよ!」
「じゃあ罰が当たったんだよ。お前裏表あるから」
「裏も表もクズな人が言わないでよ!」
何を言っても、トド松の不安は消えない。
「ああ……ボクはもう死ぬんだ……」
ずずっと鼻をすすり、
「……手紙書いて」
「は?」と、おそ松。
「だから手紙書いて。励ましの手紙」
「はぁ!?」
「今まで喧嘩ばかりだったけどずっと大事に思ってたとか、本当はもっと可愛がりたかったとか、そういうのあるでしょ。もう隠さなくていいから。打ち明けて」
「打ち明けないよ!? 思ってないし!」
「いいから。したためて」
「したためない!」
「……あとフルーツの盛り合わせ」
「なんで!?」
「……え? 逆になんで? こっちは生死の境さまよってるんだよ? 盛り合わせて」
「盛り合わせてってなんだよ!」
「ボクのことが可愛くないの!? 末っ子だよ!? 生まれた時みんなでかわるがわる抱っこして笑顔になったの思い出して!?」
「俺たちほぼ同時に生まれてるからね!?」
ついに記憶まで改ざんしだしたトド松。
引き気味のおそ松は、溜息混じりに言う。
「あのさ、トド松は自分可愛いばかりにちょっと大げさなんだよ」
末っ子らしいと言えば聞こえは良いが、この末弟はあざとすぎる。その立場を利用して、兄を都合よく動かそうとする悪どさすら見せることがあった。
「あー! 食い止めて! 早くボクが死ぬのを食い止めて!」
しかしトド松の暴走は止まらない。
「いいの!? ボクが死んだら兄さんたち一生童貞だよ!? 希望の光が消えようとしてるんだよ!? いいの!? 知らないよ!?」
無反応を貫く五人。
トド松はさらにヒートアップする。
「本当にいいの!? このままだったら兄さんたち全員誰にも愛されないみじめな芋虫として一生を終えるんだよ!? 芋虫エンドだよ!?」
アピールが高じて、ついに兄をなじりだす。
人はここまで必死になれるものなのだろうか。
さすがに見かねたカラ松が言った。
「トッティ、ただの口内炎で騒ぐなんて男らしくないぞ?」
「カラ松兄さんはなったことないからわかんないんだよ!」
「あるさ」
「え?」
「あるさ。オレだって。口内炎くらい」
「ほん……と……?」
「ああ。だがオレは死んでいるか?」
カラ松は両手を広げ、穏やかな眼差しをトド松に向ける。
「……生きてる」
「だろう。オレは生還者だ。日頃鍛えた肉体と、強じんな精神が口内炎を退けた。だからお前にだってできる」
「ボクにも……?」
「ああ。お前はオレの弟だろう?」
「カラ松兄さん……」
二人の間に、唐突に生温かい空気が流れる。
勢い余ってキラキラと星が瞬くような音まで聞こえた。
気持ち悪いことこの上ない。
カラ松はトド松を見つめ、その手を取ると、心をこめて言った。
「だからトッティ……お前に彼女ができたら、オレに一番に、その可愛い友達を紹介してくれ……!」
「結局それかよ!」
すぐさまチョロ松の突っこみが飛んだ。
「汚ねえぞカラ松! 自分ばっかり!」
おそ松も、黙ってられないとばかりにカラ松に飛びかかる。
「別にそんな下心なんて……! オレはただ弟のことを思ってだな……!」
「絶対噓だろ!」
おそ松、チョロ松、カラ松の三人で取っ組み合いになる。
「あははは! ぼくもやるー!」
さらに十四松まで参戦し、収拾のつかない事態に。
「あ……あ……」
それを見ていたトド松が途端におろおろし出す。
そして慌てて膝立ちになり、すがるように四人に手を伸ばして叫んだ。
「待って! ボクのために争わないで!?」
「いい女気取りかよ!」
チョロ松が目を剝いた。
もはや気分は完全にヒロインである。勝手に始めた兄弟喧嘩を、瞬時に愛される自分を演出するための舞台装置に組みこむなど、並の自分大好き人間にできることではない。
まさに悪魔の狡猾さ。
普段からちらついていたトド松の自分可愛い精神は、口内炎という命の危機に瀕し、もう一段上へと進化を遂げようとしていた。
しかし、これは序の口にすぎなかった。
©赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会