――私はいったい何者ですか?
静寂を破る司会者の一言が番組の開始を知らせた。
薄暗いスタジオの中央に立ったスーツ姿の男にスポットライトが当たると、彼はカメラに向かってお辞儀をした。
「どうも。『エマージェンシー! 公開大詮索』の時間です。大反響のあった昨年夏の放送から約半年ぶりにお目にかかります。今回もあることないこと、微に入り細に入って、記憶喪失者の過去について詮索していきたいと思います」
司会の男の両脇にも男が立っていて、それぞれにスポットが当たる。
「今回も専門家のゲストを2名お呼びしています。まず、心理学者のモブ山先生です」
「どうも、モブ山です」
「そして元警視庁勤務、現在は有名刑事事件のルポライターとしてご活躍中のザコ谷さんです」
「ザコ谷です。よろしくお願いします」
「この人のことを知っている、あるいは聞いたことがあるという方、どんな些細なことでも構いません、こちらの番号へ情報をお寄せください」
司会の男は画面の下に表示されたフリーダイヤルの番号を手で示す。そのバックにはOL風の制服を着たコールセンタースタッフたちが映し出されている。
「画像や動画は番組ホームページから、よろしくお願いいたします。あなたの電話が記憶喪失者の人生を救います。では今回の記憶喪失者をご紹介しましょう。猫田一(ねこたはじめ)さんです」
司会の男がそう言うと、カメラはスタジオ外の会議室で一人窓の外を見つめる成人男性の姿を映し出した。
胸に大きな松のマークが描かれた紫色のパーカーに、瞼の落ちかけた力のない目。丸まった背中と色のない表情は『自分はからっぽの人間だ』という事実を雄弁に物語っていた。
「猫田一さん、もちろん仮名です。年齢はおそらく20代前半。彼には記憶がありません」
司会者の言葉を合図に、TV画面は収録映像に切り替わる。
「――赤塚区。雪のちらつく昨年の冬、そこで彼は見つかった。雪を避けるように公園のベンチの下で丸まった状態で意識を失っていた。所持金はたった12円。ポケットの中には一枚の馬券と数粒のキャットフード。
事件に巻き込まれた可能性もあると見て警察は調べを進めているが、まだ事実は明らかにならない。
なぜなら――彼には記憶がなかったからだ。
現在は区内にある支援施設の一室で一人暮らし。猫を見つけると無邪気な笑みを浮かべること以外、彼を特徴づけるものがない。
ただ記憶を失って3ヶ月、彼はかたくなに自室から出ようとしなかった。カーテンは締め切ったまま、日がな一日マンガを読んで過ごす。なのに焦る様子は一向に見えなかった。これは不思議なことである。年齢的には社会人として働いていてもおかしくないというのに。
気分転換にと簡単な仕事を勧められても、彼は首を横に振った。
インタビュアー『記憶が戻ったらやってみたい仕事とかありますか?』
猫田さん 『ないですね。ぜんぜん。不思議とまったくないです』
もしかしたら仕事における心理的なトラウマから記憶を失った可能性もあると心理学者のモブ山先生は言う。
モブ山先生 『そうですね。仕事で大きな失敗をしたとか、あるいは多大なストレスを受け続けたとか、それが記憶喪失の原因になっている可能性もありますね』
心因性健忘と呼ばれる症状だという。
たとえば金融関係の仕事をしていて会社に億単位の損害を出してしまった、あるいは営業で過酷なノルマを課されていたなど、大きなストレスから逃れるように記憶を手放す、そんな事例が過去にもあったとザコ谷さんは語る。
猫田さん 『ええ、仕事とか就職とか、聞くだけで吐きますね』
猫田さん 『世界中の会社とか全部爆発すればいいのに』
魚の死んだような目。
猫田さんが仕事で抱えた心理的なダメージは大きそうだ。
番組はもう少し猫田さんの置かれた状況を詮索してみる。
たとえば経済状況。そこから生活環境も見えてくるし、ただ単純に他人の懐事情に興味があった。
インタビュアー『貯金は?』
猫田さん 『うーん……覚えてないけどないですね、たぶん』
この年齢で貯金がない。
そして所持金は12円。やはり何か事件性を疑ってしまう。
もう少し別の角度から探ってみる。
たとえば交友関係。そこから人となりも見えてくるはずだ。黒いつながりが見えてきたりでもしたら番組としてはとてもおいしい。
インタビュアー『仲のいい友人は?』
猫田さん 『いないんじゃないですかね。覚えてないけどわかります』
友人がいない。ただの一人も。いよいよ事件性が濃くなってきた。
しかし我々は警察ではない。捜査は警察に任せるとして、我々の今回の目的は猫田さんの記憶を取り戻すことだ。そしてついでに他人の生々しい暮らしぶりを露わにして録れ高を確保したい。
インタビュアー『では兄弟などは?』
猫田さん 『兄弟……兄弟か…………』
兄弟について質問すると、猫田さんは何か引っかかった顔をした。
もしかしたら大切な兄弟がいた可能性もある」
収録映像はここでいったんとぎれる。
カメラは一度、せわしなく電話を受けるコールスタッフたちの姿を映し出すと、再びスタジオに映像を切り替える。
アップになった司会者が興奮気味に言った。
「さあ、みなさん、映像の途中でしたが、ここで有力な情報提供者の方が現れました。なんと、猫田さんの兄弟と名乗る方です」
にわかに会場がざわつく。
「しかもそれが5人です。驚かないでください、5人です。なんと猫田さんと彼らは6つ子だと言うのです!」
さらにどよめく会場。
そんな中、スポットライトがスタジオの隅に立った5人に当たる。
「松野さん兄弟です! どうぞこちら、中央の方へお進みください」
拍手に迎えられ、胸に松のマークが描かれたパーカーを着た5人がスタジオの中央にやってきて、それぞれが曖昧にお辞儀をした。
「はい、猫田さんのご兄弟という5人の方にお越しいただきましたが……率直に、それは本当ですか?」
長男の『おそ松』と名乗る男が代表して答えた。
「はい、本当です。彼の名前は一松といって、俺たち6つ子の大事な四男です」
©赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会